「春雨」には「生」と「死」が「性」とともに書かれている。「頭」も出てくる。
地蔵の前で もう一度考へてみた
桃の花が頭の中で咲いてゐたとも思つた
藪の中には 坂のところで死んだと云ふ祖母の髑髏が音をたててゐた
色情だな
地蔵の鼻のあたりが 小さな効果を生んでゐた
ここには、たとえば祖母が色情に狂って死んだ坂があるという「ストーリー」があるかもしれない。桃の花の頃のことである、というストーリーがあるかもしれない。ことばというものは、どんな任意のことばを書き並べても、かならずそこにストーリーができる。読者はかってにストーリーを捏造して、それを読みふける。書かれたことばを読むというよりも、自分の「頭の中」を読むのである。
田村も、田村の「頭の中」を読んでいるのかもしれない。「頭の中」を読んだとき、そこに浮かんだことばを書き並べているのかもしれない。そのことばが、どう動いていくのか。どう動かしていくのか。田村はまだ決めかねている。そういうことばが、この詩の中に集中的に登場している。そのことを、私は、とてもおもしろいと思う。
書く--というより、ことばに書かされている。この、ことばに書かされるという一時期をどんな詩人もくぐり抜ける。そういう時期が、田村にもあったのだと、この詩を読んで、ふと思った。
「寄港地」の次の部分もとても印象に残る。(原文に「踊り文字」がつかわれているが、表記できないので、現在の表記にあわせて引用している。)
雨は はげしい!
広場は おそらく 沈んでしまふだらう
だが どんなことになつても 僕が石の上に座つてゐることは絶対だ!
「それは幻想だよ」
よせばいいのに 僕の智慧は また呟く
ああ 見知らぬいくつかの建物が 音を立てた!
そいつは聞える あれは言葉ではないんだ
僕には もう言葉が聞えない
ただ 音だけが 河の流れのやうに 僕の胸を抜けてゆく
「言葉ではない」「言葉が聞えない」。これは「対」になっている。田村には「言葉」は聞こえない。けれど「言葉ではない」ものは聞こえる。そのことを田村は、しかし、歎いてはいない。否定的にはとらえてはいない。私には、そんなふうに感じられる。
「言葉ではない」音は、「頭」(智慧)ではなく、「胸を抜けてゆく」。胸を通る。「肉体」を通る。
それこそが「詩」ではないのか。
「詩」とは、ことばではないことば。--田村は、そのことを、このころに確信したのではないかと私は思う。
ぼくの遊覧船 (1975年)田村 隆一文芸春秋このアイテムの詳細を見る |