「紙上不眠」を書いていた時代(1946年ごろ)の作品には、田村の思想がうごめいている。キーワードとなることばがぶつかりあいながら、互いの動きを手さぐりをしているようなところがある。
「不在証明」。その1連目。
風よ おまへは寒いか
閉ざされた時間の外で
生きものよ おまへは寒いか
わたしの存在のはづれで
「閉ざされた時間」と「わたしの存在のはづれ」が、ここでは「同じもの」である。「風」と「生きもの」も「同じもの」であり、それに対して、田村は「寒いか」と問いかけている。
「わたしの存在のはづれ」という表現は非常に抽象的だ。「はづれ」は「外れ」とも書く。そうすると「時間の外」の「外」と「はづれ」は「同じもの」になり「閉ざされた時間」と「わたしの存在」も「同じもの」になる。
「わたし」を田村は「時間」と考えていることになる。
そして、「時間」に「閉ざされた時間」があるということは、「開かれた時間」というものもどこかに想定されていることになる。同じように「開かれたわたしの存在(わたしという存在)」もどこかに想定されていることになるだろう。
ここで田村がおこなっていることは、田村自身の「ことば」の定義である。あることばを別のことばで定義する。「重ね合わせる」ことで、「ことば」に田村独自の「意味」を持たせようとしている。「流通している」ことばではなく、田村独自のことばを手さぐりしているのである。
いま、私は、「定義」をことばを「重ね合わせる」と書いたが、この「重ねる」は2連目以降に出てくる。
谷間で鴉が死んだ
それだから それだから あんなに雪がふる
彼の死に重なる生のフィクション!
それだから それだから あんなに雪がふる
不眠の谷間に
不在の生の上に……
そのやうに風よ
そのやうに生きものよ
わたしの谷間では 誰がわたしに重なるか!
不眠の白紙に
不在の生の上に
「閉ざされた時間の外れ」と「わたしの存在のはづれ」。そのどちらが「死」であり、どちらが「生」なのか、よくわからない。それはたぶん、どちらでもいいのだと思う。「矛盾」ではないけれど、まったく別の「もの」(こと)がふたつあり、それが融合せずに向き合っている。それを「重ねる」とは、ある意味で「融合」させることでもある。このとき問題なのは、どちらが「死」、どちらが「生」であるかという判断ではなく、(どちらが「矛」で、どちらが「盾」という判断ではなく)、そういうものを「重ねる」という意識である。
「重ねる」ために何をすべきなのか。田村は、この時点では、まだ「答え」を探り当ててはいない。ただ、そこに「答え」があるらしいと「予感」して書いている。
この詩の1連目では「閉ざされた時間」と「わたしの存在」は「同じもの」だった。そして、2、3連目を読むと、「わたしの存在のはづれ」と「不在の生」もまた「同じもの」である。ということは「閉ざされた時間」というのは「不在の生」ということになる。
このころ、田村は「わたしの存在」(わたしという存在)は、何もせずにそこに存在するだけでは「不在の生」なのだと感じていたことになる。
「実在の生」(と、かりに呼んでおく)は、どこにあるのか。どうすれば、それを手にいれることができるか。
田村のことばは、その「実在の生」をもとめて動いてく--そのことを暗示する初期の作品である。
ぼくの中の都市 (1980年)田村 隆一出帆新社このアイテムの詳細を見る |
矛盾はいいですね。
矛盾はそのまま詩になりますねえ~
たとえば、
/不眠よ お前はまだ眠らないのか/
たとえば、
/豊饒の大皿よ お前はまだ飢餓の中にいるのか/
などなど。