詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本育夫「13やけこけ

2022-01-06 00:05:51 | 詩(雑誌・同人誌)

山本育夫「13やけこけ」(「博物誌」50、2022年01月25日発行)

 山本育夫「13やけこけ」は、書き下ろし詩集「たくおん」のなかの一篇。「たくおん」は「濁音」のことである。山本は「濁音」をわざと「清音」として表記している。「濁音」を「清音」にすると、「意味」がすぐにはわからない。「濁音」をまじえると、いままで知っていた「意味」が浮かびあがってくる。このときの「一瞬」の混乱。そこに、まあ、詩のとっかかりのようなものがある。
 ということなのだろう。
 で、私は、それはそれとてし「理解」した上で、それを拒否して読んでみる。というか、即座に「濁音」にならない部分を楽しむのである。
 「13やけこけ」の最初の部分。

ほくか むちゅうてしのはなしを しているとき
あなたはおそらく こうかんしている

 「しているとき」と「あなたはおそらく」は濁音なしで読むのだろう。そのとき、私に何が起きるか。次の部分も濁音なしで読んでしまう。そうすると、

あなたはおそらく 交歓している

 となる。直前の「している」が特に影響してくる。「している」というとき、セックスである。セックスとは「こうかん」である。交歓のほかに交感もいいし、交換でもいいなあ。愛液の交換。それは好感がないとできないかどうかはわからない。しているうちに、感じてしまうかもしれない。そのときの「感じる」は「好感」かもしれないなあ。
 もう、こうなると、ことばはことばではなくなる。ことばは声になる。声はことばとは別の何かを発する。「いや」は拒絶ではなく「もっと」であるときさえあるのだ。
 「ぼくが」なんて、冷静に濁音でことばを言っている内は「冷静」。感情は「高感」ではなく「低感」にすぎない。ことばをおきざりにして肉体が暴走する。これを「交歓」と呼びたいが「交歓」だから、ひとりだけ感じてもだめ。
 あえて感じまじりで、じゃなくて漢字まじりで書くと、逆に感じが出てくるかも。

ほ、僕か、夢中、手、し、野放し、していると、
あなだ、ば、おそらぐ 交歓している

 「ぼく」が興奮して「ほく」になってしまうなら、「あなたは」なんていう正確な音と助詞は不似合い。肉体の抑制がきかないから、「た」は「だ」になり、「は」は「ば」になる。ちょっと東北弁のような、くぐもった感じが、肉感的だ。いまは冬だから、布団なかにもぐりこんで、真っ暗な布団のなかで手さぐり。手は、野放し状態で、あっちこっち動き、それがねえ、思いもかけずに「感じる」部分に触れてしまう。いままで知らなかった部分。見えない、見えないままの、手さぐり。野放しの「野」は「野生」の「野」。そう、手が野生になって、いや「野性」かな?、何か知らないもの、そうではなくてもっともよく知っているものになって、なにかを「している」。それに女の野生、野性が目覚める。野生と野性の交歓。
 そうしたらさあ。

(きょうは けんきね こえのはりもいいし

 あらら、素直な感想。やっぱり、セックスは「声」が大事。とくに、真っ暗闇の中では「声」が興奮を呼び覚ます。
 あとは、もう、テキトウ、というか、「正確」な読み方なんか関係ないね。
 ことばを読むということは、ことばに読まれること。ことばに読まれて、私のことばがどこまで変わっていけるか。

僕が 夢中で詩の話を しているとき
あなたはおそらく こう感じている
(きょうは 元気ね 声の張りもいいし

 なんて読んでいると、山本の詩のことばを「文法」で修整して読むことになってしまう。ピカソの描いた、目があっちを向いたりこっちを向いたり、尻の丸みとヴァギナが正面から描かれた絵を、頭の中で修整するようなもの。そんなことをしていたら、ピカソの絵にならない。さっかく「書き方の文法」を破壊して書いてくれているのだから、いまこそチャンス。その破壊を借りて、どこまで私自身の「書き方、読み方の文法」を破壊して、山本が書こうとしていないことまで読み進めることができるか試してみたい。
 ことばは、一音ずつ正確にならんでいるのではない。見た瞬間、聞いた瞬間、子音も母音もいれかわる。濁音、清音の区別以上にね。

こんなにとしかはなれているのに

 なんて、「学校文法」にあわせて修整すれば「こんなに年が離れているのに」だけれど、それそそれでセックスのときおもしろいかもしれないけれどと脱線しながら、私は、

こんなことはしなれているのにね

 「セックスなんてし慣れているのにね」(もう十分知っているはずなのにね)と読んで、「こんなことで死なれては(こんなところで先に逝ってしまうなんて、だめだよ)」と読んで、さらに。

あなたは ほくの ことはの いみ
しゃなくて ほくの そんさい を
まること りかいして きたんたね

 これは「あなたは僕のことばの意味/じゃなくて、僕の存在を/丸ごと理解してきたんだね」ではなく、

あなたは 僕のことを 意味(精神)
じゃなくて ぼくの 存在(肉体/セックス)を
丸ごと 理解してきたんだね

になる。「ことば」なんか理解しなくて言い。「肉体」を丸ごと受け入れる。「意味」なんて、どうにでもなる。まず、その「肉体(存在)」を受け入れることが大事。「理解」なんて、あとからすればいい。
 「意味」なんて、だれかの都合にあわせてあとからつくられた「修整された形式」(共有を強要する形式)にすぎない。
 だから。
 いきなり知らない外国語を読むように、強引に、自分の知っていることばで読む。それは、自分のことばを読むこと。詩に対して、自分のことばを読ませることだ。
 ここから、ことばの「交歓」が始まる。「強姦」じゃないよ。「睾丸」に脱線して、「紅顔」でごまかさずに、「厚顔」で乗り切ろう。そういうことも「交歓」だからね。


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