入沢康夫「詩と私」(思潮社「現代詩文庫 続・入沢康夫詩集」収録)。
短い文章だが、ここに入沢が詩について考えていることのエッセンスが書かれている。
詩について、私にはかねてから一つの思い込みがある。それを、以前には<詩は表現ではない>という、いささかならず奇異な言い方で表明したことがあったが、その真意は、<詩の作品は、作者があらかじめ抱いたしかじかの感懐や印象を、読者に伝達するための手段ではない>ということで、これを逆の方向から言うならば、<読者は、作品を通して、作者の感懐や印象を受けとるのではない>ということになる。
むしろ詩人は、詩を書くことを通じて、「自分の言いたいこと」を発見するのであり、読者は、詩を読むことを通じて、「自分の読みたいこと」を発見するのだ。
もちろん、入沢がこう書いているからといって、それがそのまま入沢の「思想」であると信じる必要はないかもしれない。しかし、私はここには入沢の本当に思っていること、考え続けていることが書かれていると信じる。(これまで「メモ」で書いてきたことは、この入沢のことばと矛盾しない。むしろ補いあうからだ。)
詩人は、詩を書くことを通じて、「自分の言いたいこと」を発見するのであり、読者は、詩を読むことを通じて、「自分の読みたいこと」を発見するのだ。
これは、「誤読」が生じる「原因」である。読者は「作者が言いたいこと」よりも「自分が読みたいこと」を優先する。その結果、「作者の言いたいこと」とは違ったことを読み取るという「誤読」が生まれる。
--もちろん、これも、私が「読み取りたい」と思っていることを読み取っただけのことであり、「誤読」の一つかもしれない。
入沢の本当に言いたいことは、そのあとに書かれていることがらかもしれない。
そして、この「言いたいこと」「読みたいこと」は、それぞれ、作者、読者の個人性を含みながらも、それを超えて、普遍的な「真実」に達しているのでなければならない。
この「普遍的な「真実」」は、たとえば「あの花は赤い」とか「花は美しい」といった「真実」とは違う。「A+B=C」というような「真実」とも違う。そういう「定まった状態にあるもの」とは違う。なぜなら、定まった状態にあるもの(こと)であるなら、それが「作者」と「読者」で違っていては「真実」とはなり得ない。作者が正しいのか、読者が正しいのか、二者択一のなかで、どちらかが「虚偽」になる。
「それぞれ」。
これが、入沢の「キーワード」である。
作者にも「真実」があり、読者にも「真実」があり、そして、それは「それぞれ」普遍的な「真実」に到達している。--ここに書かれていることは「真実は一つである」というごく一般的な定義に反する。矛盾である。
この「矛盾」を解消する方法がひとつある。(もっとあるかもしれないが、私が考えているのは「ひとつ」である。)
入沢が「真実」と読んでいるものは、ある一定の状態(もの、こと、名詞)ではない。あることへ向けて動くことばの運動である。ことばが、ことばをかき分けながら何かを「発見する」。その「発見する」という動き(動詞)が「真実」なのである。
「発見」の方法は一つではない。幾つでもある。そして、その「それぞれ」が皆、「真実」なのである。
入沢は詩の「構造」についても何度か書いている。「構造」とは、たとえば建築物の柱があって、壁があって、床があって、階段があって、というようなことがらではない。「構造」によく似たことばに「構成」があるが、「構成」とも違う。
「構造」は固定化しているが、入沢の言いたいことは「固定化した何か」ではない。動き続ける何か、動きをうながす何かである。動いたあとには「軌跡」が残る。その「軌跡」はたとえば階段をおりて地下室の扉を開けて、その壁を破ると宝石があるという形をとると、その「軌跡」そのもののありようとして「階段」「地下室」「壁」というような「構造」を残してしまうので、勘違いを引き起こしてしまうのだ。「発見」の「軌跡」を語るにはどうしても「建物の構造」を描かないことには語れない。だから「構造」を語ってしまうのだが、それは「副産物」なのである。入沢が「構造」ということばで浮かびあがらせたかったのは、「発見する」という行為、行動そのものである。
「それぞれ」と通い合う「キーワード」が「詩と私」のなかにはもうひとつある。最初に引用した部分の、
これを逆の方向から言うと、
「発見」の道筋はひとつではない。「それぞれ」にある。「逆の方向」からあることがらにたどりつくことも可能なのである。
「方向」とここでも入沢は「名詞」をつかって説明しているが、そこに読み取るべきものは「名詞」ではなく、「名詞」に隠れている「動詞」なのである。「名詞」を「動詞」として解きほぐす--そのとき見えてくるものが入沢の「思想」である。「逆の方向」とは「逆から動かしてみると」ということである。「逆からたどってみると」ということである。
「誤読」ということばも「名詞」である。これを「動詞」として解きほぐすとき、入沢がやっている試みが見えてくる。