詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

奥山大史監督「ぼくのお日さま」(★★★★★)(3)

2024-09-24 06:49:37 | 映画

 ユーチューブ「シネマサロン、ヒットの裏側」批判のつづき。(この記事の下に、1、2があります。)
 https://www.youtube.com/watch?v=ywPcv9iU9LM

 美、純粋、透明などいろいろな「概念」が指し示すものをつかみとるには「直覚」が必要だ。美や純粋、透明といったものを「論理」で説明しても、それは単なる「論理」であって「本質」ではない。それは「論理」で説明してもしかたがないものである。直覚できるかどうかが問題である。
 こういうことを書きながら、「シネマサロン、ヒットの裏側」ユーチューバーの語っていることを、ことばで批判するのは、まあ、矛盾のようなものであるが、書いておく。
 「シネマサロン、ヒットの裏側」ユーチューバーは、簡単に言えば、透明、純粋、美に対する直覚が欠如している。彼らには、透明、純粋、美を理解することはできない。
 とりわけ「好き」ということがもつ純粋さ、透明さ、その美しさを直覚することができない。
 この映画「ぼくのお日さま」は別のことばで言えば、「ぼくは、ぼくのお日さまが大好き」である。大好きなものを「お日さま」と呼んでいる。好きな対象は「お日さま」であると直覚して、言っている。「お日さま」ということばを聞いて、あ、少年は「お日さまが好き」なんだと直覚できなければ、それから先は、何もわからないだろう。
 で、この「好き」ということば、それが何回この映画につかわれているか私は意識していないが、一回だけ、忘れられないシーンがある。
 少年がフィギュアスケートかアイスホッケーか、選択に迷ったとき、父が「おまえが好きな方にすればいい」という。この「好き」をどれだけ「実感」として直覚できるか。少年はフィギュアを選ぶが、その選択を後押しするのが少年の直覚であり、そこには少年自身が純粋な形で具体化されている。
 これは、たとえて言えば「リトルダンサー」の少年がボクシングではなく、ふと見てしまった少女たちのバレエからバレエに目覚めるような、直覚である。それは本能である。説明はできない。
 で、私は、最初の感想に、このとき父親が吃音であることがこの映画の唯一の欠点であると書いたのだが、吃音をとおして父が少年の「好き」を応援していることを強調するのが、なんともいえず「下品」に感じたのだ。ただ単純に、「好きにすればいい」の方が不純なものが混じらない。あ、父親も吃音なのか、というようなどうでもい感想が混じりこまないだろう。

 ことばに関して言うと。

 「シネマサロン、ヒットの裏側」は脚本について、いろいろ難癖をつけているのだが、そのひとつひとつがあまりにもばかばかしい。たとえば、スケートのコーチが仕事をやめてどこかへ引っ越すのだが、その直前の会話から「客(教えている生徒)がたったひとりなのか」(ひとりの客、少女を失っただけで、仕事がなくなるのか)というようなことを言う。しかし、「生徒がひとり」とは、どういうことだろうか。映画では、生徒がひとりとはどこにも描かれていない。だいたい、コーチは、少女と少年のふたりを教えている姿をとおして描かれているが、生徒がふたりだけかどうかわからない。ほかの部分は「省略」されている。スケート場の他のスタッフが登場しないことについても疑問を語っているが、そういうものを描く必要を感じていないから映画は省略しているだけである。
 省略に関して言えば、たとえば少女の家庭はどうなっているのか。父や兄弟はいないのか。少女のかわりに母親がコーチに対して、コーチの解任を伝えるのだが、父親が登場しないことを理由に、少女は「母子家庭」のこどもであり、ひとりっこであると言えるか。
 あるいはコーチの連れ合いが「家業をつぐために北海道に帰って来た」というが、そのとき彼の両親は、あるいは兄弟はどこにいるか説明がないから、彼がガソリンスタンドを経営していることになるのか。そんなことはないだろう。映画に限らず、どんな作品でも、その作品が必要としないものは省略する。
 映画には描かれていないが、北海道の小さな街で(といってもスケート場がある大きな街だが)、その小さな街で「スケートのコーチはゲイである」ということが知れ渡ったら、それを嫌って生徒を引き上げさせる両親というのはいるかもしれない。ひとりの客を失ったのではなく、多くの客を失ったのかもしれない。そう考える方が自然だろう。舞台になっている北海道の街をゲイに対して不寛容な街であるというわけではないが、少数派を受け入れない(歓迎しない)という雰囲気は、どこにでもある。日本政府からして、同性婚を認めていないではないか。コーチは「ひとりの客」を失ったのではなく、その「ひとり」を含む多くの客(生徒)を失ったのである。その結果として、少年をも教えることができなくなった。でも少年がフィギュアが好きなことを直覚しているコーチは、少年にスケート靴をプレゼントして立ち去る。少年にフィギュアが好きなままでいてもらいたいと思うから靴を残していく。その悲しい美しさ。そこにはフィギュアを愛しているコーチのこころも描かれている。
 映画で説明していない部分は「存在しない」のではなく、単に「省略」されているにすぎない。コーチが、最初は「靴はやるんじゃない、貸すんだ」と言ったことを思い出すがいい。そして、そこから靴を残していく気持ちを想像すればいい。また、それを受け取る少年の気持ちを想像すれば、彼がその後なにを選択するかがわかる。想像できる。説明がないものを想像できないのは、想像力の欠如である。
 コーチと連れ合いの関係をゲイの関係である、ふたりは同性愛者であるということを、ユーチューバーは語っているが、映画のなかで二人がセックスをするわけではない。ひとつのベッドに寝ているが、ひとつのベッドに寝ればかならずゲイであるとは言えないだろう。それなのに、ゲイであると断言する。登場人物がゲイであることは想像できても、映画に登場しない人物が彼らの周りには存在するということを想像する能力が、彼らには欠けている。
 テーマではないことがらに関することは想像しても、テーマについては想像しない。簡単に言えば、彼らの想像力は「下品」である。「品がない」。
 想像力の欠如はラストシーンについても言える。ここでは具体的なことばは何一つ明確になっていない。だから、そこから何を想像するかは観客に任されているのだが、彼らがハッピーエンドを想像できなかったからといって、ハッピーエンドではないとは言えない。すでに書いたように、あれ以上のハッピーエンドはない。描かれていない部分から何をつかみ取るか。何を直覚するか。それには、そのひとの「品」が影響する。私は私に品があるとは思わないが、彼らは「下品」だと思う。
 少年と少女が、コーチから「フィギュアが好き」という気持ちを引き継がなかった(受け取らなかった)と想像してしまうのは、あるいはコーチから「フィギュアが好き」という気持ちを引き継いだと想像できないのは、「シネマサロン、ヒットの裏側」のユーチューバーに、何かが「好き」になった経験がないからだろう。あるいはそういう経験があったとしても、そのときの気持ちを自分自身でしっかり確かめ、確実にするという意識がないからだろう。自分、そして生活を見つめなおさないことを「品がない」というのである。

 脱線するが。
 「世界のおきく」を批判して、地主農家(?)が主人公たちに対して怒ったとき、肥だるを手で持って、糞尿をぶちまけるというシーンがある。そのシーンに対して「シネマサロン、ヒットの裏側」のユーチューバー「手で持つなんて汚い。不自然。足で蹴れ」というような批判をしていた。このことについては「世界のおきく」について書いたときに触れたが、肥だるは貴重品である。大事な道具である。そういうことを理解している農家のひとが、いくら怒ったからといって足で蹴ったりはしない。壊れたら大変である。そういう配慮をするのが「品」というものである。問題のユーチューバーには「生活の品」というものがない。「生活」が反映されていない。「きちんとした生活」が反映されれば、そこにおのずと「品」あらわれる。

 「品」とたぶん関係すると思うが。
 この映画の映像の美しさは10年に一作の美しさである。10年に一本の映画である。この映画以前に、10年に一本の映画と書かずにはいられなかった作品は「長江哀歌」である。あの映画も、映像が透明だった。どこにもゆるぎがなく、人間をしっかりととらえていた。人間に密着している。壁にのこる雑巾の痕、壁に密着したテーブルを雑巾で拭くと、そのときの「拭き痕」が壁にのこる。毎日、テーブルを拭いていたから壁に拭き痕が残ったのだ。その美しさ。毎日テーブルを拭いているという生活の品、暮らし方の品がのこる映像が象徴的だが、どの映像も、それをみつめる人間の生活に密着している。落ち着いている。けっして作為的ではない。「品」というのは、そういう形であらわれる。
 柳宗悦やバーナード・リーチが言った「民芸の品」に通じるかもしれない。
 きちんと暮らしていれば、おのずと「品」はあらわれる。
 少年は、アイスホッケー、フィギュア、野球をやる。そのなかで、彼は何を選んだか。ラストシーンには、それが描かれている。何を選んだと想像するかは、観客の「品」によって違うだろう。その選択を「好き」と思うかどうは、観客の「品」によって違うだろう。

 書いてはいけないことまで書いたかもしれないが、思ったことは書いておくしかない。「シネマサロン、ヒットの裏側」の「批評」があまりにもむごたらしいので、書かずにはいられなかった。


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