男と女が一緒になりたいと思うことは昔から当たり前であると思われていました。しかし現代に至ってこの感覚がすこし分かりにくくなった。少子化もこの現象に関係するかもしれない、となるといささか心配です。
現代人は自分のこの身体が自分だと思っています。この身体が自分の意志で動いて自分の利益のために必要な目的を実行していく、と思っています(拙稿36章「目的の起源」)。 たしかにその通りですが、昔の人はこれほど自分中心ではなかった。神仏に導かれているとか運命に従うとか思っていたようです。つまり自分の利益ばかりが自分の行動の目的ではありませんでした。
自分より家族のほうが大事であるとか、御家が大事とか、お国のために働くとか、神に仕える、とか多様な価値観がありました。もちろん昔の人はきれいごとが好きであったし嘘も偽善も横行していました。しかし純粋な本心も本物だったと思われます。芸術家は芸術に殉じた。ロミオとジュリエットは愛のために死んでいきました。
現代人の功利主義的価値観はこれらを理解できません。損得は分かるが恋愛は分からない、となる。時代は進んだが人間の価値観は単純を好む方向へ退化したといえます。産業革命で人々は豊かになったがその分マネーゲームが楽しすぎて功利主義的になった。感情も感覚も自己利益に集中するだけになりました。権力と金銭以外は価値がない、という方向に進みました(一九一一年 夏目漱石「道楽と職業」)。
ちなみに、人生の価値観を幻想という語でまとめた昭和の大思想家は、共同体に殉ずる共同幻想、あるいは恋愛に殉ずる対幻想という語を使っていました(一九六八年 吉本隆明「共同幻想論」)。
自分のために生きる自分というものはいわば幻想です(拙稿12章「私はなぜあるのか」、拙稿22章「私にはなぜ私の人生があるのか」)。もちろん、家族のために生きる自分も幻想であるし、国のために生きる自分も幻想にすぎません。
しかしそれらの幻想に生きる人間たちを組み上げて現実の社会が構成されているのも事実。一対の男女として生きる自分たちという幻想(二〇一一年 石川晃司「対幻想の含意」)もまたこうして現実の社会における構成要素になっています。実際、現実の社会を認める限りこうした幻想の存在を認めないことはできないでしょう。
一対の男女の関係、つまり対幻想というものは性行為を媒介するものです。しかしその逆ではない。人間は行為の幻想を持つことによって現実の行為から疎外されているという理論があります(共同幻想論)。
人間以外の動物はもちろん盛んに性活動はするが、対幻想は持ちません。身体の行動から疎外されていない。猫の恋であるとか、動物の交尾行動をロマンチックに恋と呼ぶのは古く素朴な比喩から始まっていますが、その概念をマスコミもユーモアとして便利に使っているうちに本気にしている感があります。
言語を持たない動物は自我を持たないし幻想を持たない。したがって人生(動物生?)を持たない(拙稿22章「私にはなぜ私の人生があるのか」)。したがって対幻想も共同幻想も持っていません。恋愛もしないが戦争もしません。人間だけが言葉で愛を語り、付き合いという幻想を求める。
![自然科学ランキング](https://blog.with2.net/img/banner/c/banner_1/br_c_1910_1.gif)