「このシチュエイションは気に入ってたんだけどな。
だって、夫の愛人の娘が正体を隠しながら身近にいて、
わたくしを憎んでるなんて、
なかなかロマンチックで素敵じゃない」
カナコがこう最後に語ったことが全てなのだ。
そう全ては演目であり舞台なのだ。
そうして、ようやくこの物語がわかった気がしてきた。
*
今回の雰囲気はフランソワーズ・サガン。
『悲しみよ、こんにちは』とか。
カナコの豪華客船でわかるけど、
要するにこの島は、南仏なんだ。島ではなくて。
そして、それが舞台。
芝居=劇が、幾重にも重なっているのが、この世界。
(だから、ロボットものとして弱い、と言ってる人達は、
残念ながら、この物語の最も素敵なところを見過ごしていることになる。)
特に、ミズノが登場し、彼女がサカナちゃんから、
コーラスのバトンを受け取ってから、明確になってきた。
全ては舞台。
シモーヌからすれば、全てはカナコの手のひらの上で行われていた。
ミズノの歌=コーラスによって、ゼロ時間の舞台の幕が上がるのも、
そういうことだ。
「夜間飛行」が演劇集団=舞台であることは間違いないとして、
タクトらが今いる島も、一つの舞台であり、
ゼロ時間も一つの舞台だ。
舞台装置が何重にも組み合わされた世界。
そこから全ては舞台、ということになる。
ゼロ時間に、皆、集まって観戦しているのも、
むしろ、これは観劇なんだ、きっと。
オペラやバレエを観るのに近い演出。
要するに、世界はすべからく劇なのである、
演目は、限られた舞台の上でこそ上演されるのだ。
わかりやすい、私怨や愛情が、さしあたっての
私闘の動機になるのもそういうこと。
仮面で、偽名の、綺羅星十字団、なんて、
演劇集団みたいな名前もそのものズバリ。
*
最初は、この物語は、いつ、この島から皆が出ていくかが、
物語の転機だと思っていたのだけど、
どうやら違う。
むしろ、この島=南仏の、クローズドな世界で、
いかにして、異なる生のあり方を示していくか、がお話の中心になるのだろう。
だから、この舞台演出をしばらくは楽しめばいい。
で、事態は、このゼロ時間がはじけるところで、
日常とつながってしまうあたりから、変わっていくだろう。
結局、これは子どもたちの姿をした大人の物語を舞台として行おうとしている、
という解釈をしたほうが良くて。
それはカナコとミドリの対比というか、混在・併存がそれを示している。
大人が子供であり、
子どもが大人である。
であれば、サン・テクジュペリの世界そのものではないか。
そうして、サガンよろしく想像的ロマンにカナコ自らがしびれる今回の最後に繋がる。
だから、そうした外連味を楽しまないと。
それにしても、ミズノは、毎回、バスに飛び乗って歌うのだねw
あの歌、透き通った感じがして、とてもいい。
でも、夏の風が来た、とミズノが言ってるところからすれば、
春夏秋冬で、四人の巫女が移っていくのだろうな、きっと。
その意味で、ミズノとマリノの夏物語編には期待大なのだ。
だって、夫の愛人の娘が正体を隠しながら身近にいて、
わたくしを憎んでるなんて、
なかなかロマンチックで素敵じゃない」
カナコがこう最後に語ったことが全てなのだ。
そう全ては演目であり舞台なのだ。
そうして、ようやくこの物語がわかった気がしてきた。
*
今回の雰囲気はフランソワーズ・サガン。
『悲しみよ、こんにちは』とか。
カナコの豪華客船でわかるけど、
要するにこの島は、南仏なんだ。島ではなくて。
そして、それが舞台。
芝居=劇が、幾重にも重なっているのが、この世界。
(だから、ロボットものとして弱い、と言ってる人達は、
残念ながら、この物語の最も素敵なところを見過ごしていることになる。)
特に、ミズノが登場し、彼女がサカナちゃんから、
コーラスのバトンを受け取ってから、明確になってきた。
全ては舞台。
シモーヌからすれば、全てはカナコの手のひらの上で行われていた。
ミズノの歌=コーラスによって、ゼロ時間の舞台の幕が上がるのも、
そういうことだ。
「夜間飛行」が演劇集団=舞台であることは間違いないとして、
タクトらが今いる島も、一つの舞台であり、
ゼロ時間も一つの舞台だ。
舞台装置が何重にも組み合わされた世界。
そこから全ては舞台、ということになる。
ゼロ時間に、皆、集まって観戦しているのも、
むしろ、これは観劇なんだ、きっと。
オペラやバレエを観るのに近い演出。
要するに、世界はすべからく劇なのである、
演目は、限られた舞台の上でこそ上演されるのだ。
わかりやすい、私怨や愛情が、さしあたっての
私闘の動機になるのもそういうこと。
仮面で、偽名の、綺羅星十字団、なんて、
演劇集団みたいな名前もそのものズバリ。
*
最初は、この物語は、いつ、この島から皆が出ていくかが、
物語の転機だと思っていたのだけど、
どうやら違う。
むしろ、この島=南仏の、クローズドな世界で、
いかにして、異なる生のあり方を示していくか、がお話の中心になるのだろう。
だから、この舞台演出をしばらくは楽しめばいい。
で、事態は、このゼロ時間がはじけるところで、
日常とつながってしまうあたりから、変わっていくだろう。
結局、これは子どもたちの姿をした大人の物語を舞台として行おうとしている、
という解釈をしたほうが良くて。
それはカナコとミドリの対比というか、混在・併存がそれを示している。
大人が子供であり、
子どもが大人である。
であれば、サン・テクジュペリの世界そのものではないか。
そうして、サガンよろしく想像的ロマンにカナコ自らがしびれる今回の最後に繋がる。
だから、そうした外連味を楽しまないと。
それにしても、ミズノは、毎回、バスに飛び乗って歌うのだねw
あの歌、透き通った感じがして、とてもいい。
でも、夏の風が来た、とミズノが言ってるところからすれば、
春夏秋冬で、四人の巫女が移っていくのだろうな、きっと。
その意味で、ミズノとマリノの夏物語編には期待大なのだ。