BLACK SWAN

白鳥のブログ - 日々の世界を徒然と

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ 第5話 『赤い空の向こう』

2015-11-01 20:13:20 | Weblog
いやー、面白いね、このガンダムは!

もちろん、長井龍雪が監督で、岡田麿里がシリーズ構成というので、注目はしていたのだけど、この5話まで来て、これはかなりいいかも、と思えてきた。

先のファフナーのエントリーでもちょっと触れたとおり、ガンダムって、なんだかんだいって、第二次大戦や冷戦を模した国家間戦争がベースにある軍略ゲームと、その世界をベースにした上で、人間の革新というお花話的なニュータイプというオカルトないしスピリチュアル話を、手を変え品を変え延々と続けてきていて、正直、全く関心がなかった。たとえば、OOとか、そうした国家間紛争を超えて世界政府を作ろう!みたいな感じで、何だそれー、って感じ。

だから、ガンダムって全然関心がなかった、というか、物語としてはウザくてしかたなかったのだけど、いやー、このオルフェンズが違うね。まぁ、その分、このロボットがガンダムである必要はあるのか、という気はするけど、要するに、仮面ライダーが昭和と平成で、スタイルもそこで追求される正義も全く異なるものになったにも関わらず、とりあえずは、ライダーと名乗っているのとは同じことね。

そういう意味では、やっと、平成?のガンダムが登場したって感じ。

なにより、オルガたちが全くの民間部隊ってのいい。国家組織ではないところね。
その分、自由だし。最初の数回で、昔の流儀でボケまくってたおっさんやジジイたちをあっさり出しぬいたってのは、気分いいよね。

で、そこから、鉄華団がクーデリアの護衛を仕事として「契約」として受けるところもいい。

これ、単純にいえば、単なる仕事の依頼とその引受、でしかなくて、その意味では、極めてドライな関係のように見えるけれど、でも、中世のヨーロッパの、王様と諸侯の封建関係っても、まさに、相互義務の「契約」からなりたっていたわけだから。

なので、鉄華団とクーデリアの関係は、要するに、騎士団と姫様の主従契約に近いんだよね。まぁ、ざっくりいえば、Fateのマスターとサーヴァントの関係に近い。

なので、そうしてできた姫・騎士団としての、クーデリア・鉄華団の一行が、行く手を阻む他の諸侯ないしは騎士団であるギャラルホルンを相手にして、いかに姫の目的を遂行するか、という話といえる。

で、こうした世界には、全然、国家間の利害関係とか、政治家の陰謀とかは、直接的には影響してこない。

もちろん、クーデリアの目的自体は、火星と地球との、それこそ国家を超えた惑星間の関係の仕切り直しを目指すという点では、ガチに政治的なものだから、物語のバックグランドでは、もちろん、様々な既存勢力の各種利権を交えた権謀術数が働くのだろうけど、さしあたって、それらは、オルガや三日月たちにとっては、彼らが今後の意思決定をしていく上での、ゲーム盤の情勢でしかない。

だから、今回のように、 ギャラルホルンの追撃をかわすだけでなく、オルクス商会の嫌がらせというか、海賊まがいの裏切り行為にも出てくるわけど、そうした、正義に基づく追撃(ギャラルホルン)も、私益に基づく略奪(オルクス)も、オルガたちから見たら、ともに、姫の依頼を遂行する上での障害にしか見えない。その意味で、同等の排除すべき対象ということになる。

こういう、どこまでいっても、具体的な集団対集団の激突、というのはいいね。

この感じで行けば、多分、ガンダムもので常にウンザリさせられる、長口上の、人の行き方を説くお説教もなくなるんだろうな、と期待できていい。

ホント、なんで、戦闘中にあんな舌戦をするのか、全然わからなかったけど、それが無くなりそうなのはとてもいい傾向。

あと、ニュータイプ的なオカルト的な超感性がなりを潜めて、その代わりにきわめて即物的に「阿頼耶識システム」を導入しているのもいい。

それがどれだけ非倫理的なシステムかというのを描く一方で、その数回の手術に耐えたのが三日月だ、というのは、彼が一定のハイ・パフォーマンスをバルバトス登場直後から示せる理由としてちゃんと作中で機能しているのもいい。

要するに、マシンとの相性という点で、既にフィルタリングが終わった後の、その意味で三日月がエリートであることも示されているから。

まぁ、阿頼耶識、なんて名前をつけている時点で、既にオカルトやスピリチュアルは、思いっきり入っているわけだけど、でも、それがシステムとしてブラックボックスになることで、何か超常的なことが起こっても、システムに備わったポテンシャルの解放だ、という風に言えるところもいい。

あとは、そのマシンやシステムが示すポテンシャルに、三日月らがどこまで対処できるのかということだ。

このあたりは、むしろ、ガルガンティアのチェインバーに近いかな、と。

チェインバーは、パイロット支援啓発システムとして、それこそ一挙手一投足までパイロットを教導したわけだけど、モノ言わぬシステムである阿頼耶識×バルバトスは、あくまでも可能性を示唆するだけの存在だと思えるから。

まぁ、こう書いたことも、今後の展開の中で、あっさり裏切られる可能性はあるけどね。

なにせ、シリーズ構成が、あの岡田麿里なのだから。
当たり外れの差が大きい人だからね。

でも、それを監督の長井龍雪がうまく舵取りしてくれるんじゃないかな、と思っている。


そういう意味では、この作品の場合、ガンダムという名はあくまでも作品スポンサーの会社名が付いているようなもので(いわば「ソフトバンク」ホークスみたいなもの)、実質的には「バルバトス」というロボの物語と捉えればいいかな、と思っている。ガンダムというのは、(既に多くのガンダム作品がそうだけど)あくまでもシステムのコードネームでしかないと思えばよい。


あと、最近気づいたけど、細谷佳正というのは、兄貴分をやらせたら、もはや右に出るものがないくらいしっくりしてきたね。ビスケットに花江夏樹というのも上手い。そういうキャスティングでもこの作品はいい。

いやー、この先、どう展開していくのか、ホント楽しみだよ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蒼穹のファフナー EXODUS 第18話 『罪を重ねて』 新OP/EDと「存在と無の地平」

2015-11-01 16:21:10 | ファフナー
改めて思ったけど、このファフナー、「存在と無の地平」が最終的な主題となるのだろうな。

で、そう考えた時、面白いなーと思ったのは、新OPのタイトルが「DEAD OR ALIVE」なのに対して、新EDのタイトルが「ホライズン」。

いやー、まんま、OPで「存在と無」を扱って、EDで「地平」を名乗ってるわけで。

そうなると、やっぱりOPの映像は、生者か死者かによらず、これまでの竜宮島に関わった人びとの記憶が映像化されたものという位置づけなのだろう。でないと、幼少期の、確かアイルランドにいたはずのカノンの姿なんて映しだされるはずがないよね。

くわえて、翔子や保、甲洋らの姿も一期のままで映されるのは、ある意味で彼らが再び何らかの形で現れるかも、という予感でもある。翔子はカノンとともに新たなドライツェンに現れるのもかもしれないし、保は広登とともにミミカのコクピットに現れるのかもしれない、ゴーバインのメット繋がりでね。

というのも、OPの途中で、エミリーと美羽が互いに頭を垂れて祈っている姿があるけど、あれがきっと、ゴルディアス結晶に情報として蓄積された「記憶」を呼び起こしている姿なのだろうから。そして、そこから画面は代わって、現在の一騎、総士へと転じていく。

新OPで象徴的なのは、第1クールのOPの最後のザインとニヒトが天空に向けて登ろうとしているカットから更に進めて、蒼穹の空そのものを捉えたところで終わっていること。そこに希望が込められている。

で、一方、新EDの方は、タイトルからすれば、まさに、存在と無の地平=ホライズンに立ち続ける存在としてのファフナーの世界。それゆえ、ザインとニヒトだけでなく、ドライツェンとフィアーが背中を預けながらフェストゥムと戦う姿が描かれる。最後には、竜宮島の変形形態も現れて。

だから、新EDは新OPからの流れで解釈したほうが面白いのだろうな、と思うし、そのように見ることで、今後の展開や先行きの示唆にもなっているのだと思う。

しかし、こう見てくると、竜宮島側の動きはベタに北欧神話、派遣組というフェストゥムの世界の話はベタに聖書の世界。そこに、動的自律系として生物を捉える視点から、フェストゥムも人類も同列に扱おうとするのだから、ホント、よく考えられているなぁと。

完全に、二項対立に基づく、善悪の対決、というシナリオから逸脱しようとしている。そこに物語の新たな挑戦を試みているように思えて凄い。

なにより、いわゆるガンダム系列の冷戦的対立構造という軍略ゲームや、エヴァンゲリオン系列の自分探しでグルグル周りの自家中毒症、といった、もういい加減かんべんしてよ、という物語群とは、全く異なる「地平」にある物語を語ろうとしているのが素晴らしい。

ホント、この先の物語の収束が楽しみ。

それにしても、アルタイルが来るところまで描ききれるのだろうか。

なんか今の感じだと、アルタイル降臨は、また劇場版に持ち込まれな気がしてならないのだけど。。。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする