100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「海外で出会った日本」編 原爆追悼碑

2024年10月30日 07時55分07秒 | 海外で出会った日本

 私はナショナリストではありませんが旅行中に思わぬ所で思わぬ日本と出会うとなんとなく嬉しい感じがします。
 アイルランド旅行(2003年)に出かける前にガイドブック「LONELY PLANET Ireland」 を見ていたらコークの市内地図に“Hiroshima & Nagasaki Monument “ と書いてありました。説明はありませんでした。日本語のガイドブック「地球の歩き方 ダイヤモンド社」にはありませんでした。このパックツアーの観光コースにも入っていません。そこで宿泊のホテルの近くだということを確認して早朝出かけることにしました。 しかし私は稀代の方向音痴(この時ダブリンで集合場所を間違えて皆さんにご迷惑を掛けました)なのでホテルの受付で場所を尋ねました。係りの人は暫し首を傾げていましたがようやく分かったか説明してくれました。しかし方向音痴と英語力の不足のためよくわかりません。ままよ、と出かけ途中でたずねましたが殆どの人は知りませんでした。地図を示しながら尋ね歩きました。一人の中年の男性が私の唐人ぶりをすばやく察知して非常に丁寧にゆっくり話し教えてくれ、最後には彼から握手まで求めてきてくれました。
ようやく目的地に到達しました。3メートルほどの石碑が建っていました。しかしよく見ると「小さな国の自由のために第一次第二次世界大戦で戦った人のため」といった内容のものでした。アレッと思ってキョロキョロと周りを見渡すと1メートルもない石の碑がありました。そこには 
”IN MEMORY OF THE VICTIMS OF HIROSHIMA & NAGASAKI . It must not happen again . 1984 “(広島、長崎の犠牲者を追悼。二度と再び起きてはならない。1984)
という文章が刻まれていました。花束も供えてありました。感動しました。  日本に帰ってから、日本原水協に問い合わせてみるとその存在を知らないということなので、上記の文章と写真を送りました。「原水協通信」第717号にこの文章と写真がそのまま載りました。また広島市にも知らないということなので送りました。記念館にこの写真が飾ってあるかも。  
その後別の旅行時に添乗員伊藤さんに何故このような追悼碑がコークにあるのかその由来が知りたいのでコーク市に尋ねたいのだが英語ができないので残念ですと話したところ、それでは私がコーク観光案内所に聞いてあげましょうと言ってくださいました。以下は伊藤さんあてのコーク観光案内所からの返事です。
「コークのこの地域は平和公園と呼ばれて1次、2次世界大戦の犠牲者の栄誉を称える二つの記念碑があります。これらの戦争が恐ろしいもので、アイルランドでは核戦力に対して強い反対の意思があること以外に特別の理由はないと私は思っています。我々は核施設を持っていないし、イギリスのように我々が核を持つべきかどうかの議論は多くありますが、いかなる核戦力施設を持ちません。今後私がこれ以上の情報に接すれば、貴殿にお伝えします               
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「出会いふれあい」編 シリア・ヨルダン・レバノンの旅から4

2024年10月26日 07時54分53秒 | 出会いふれあい

レバノンの現地ガイドは女性のエリッサさんでした。(写真=背景はキリスト教徒が住むカディシャ峡谷)ヒジャブをつけていませんね。同行の方の一人が非イスラームの客に遠慮してつけていないのだろう話されました。違いました。彼女はイスラーム教徒ではなくマロン派のキリスト教徒でした。
 外貌は全くヨーロッパ人でした。目もブルーで、髪の毛はブロンドと黒のまだらでしたが、子供のときは完全にブロンドだったそうです。マロン派のキリスト教徒でした。(注1)毎日曜日ではないが教会に時々行くそうです。フェニキア人(注2)の末裔かとの質問にフェニキア人の遺伝子を持っていると答えてくれました。十字軍の遺伝子もあるのではないか、という質問をすべきであったと今になっては思っています。
 日産自動車のカルロス・ゴーン元社長の父親がレバノン人であることも知っていました。
 彼女にもローレンスを尊敬していますかという同じ質問をしてみました。ヨルダン、シリアのムスリムガイドとは違って、積極的な感じはありませんでしたが、イエスの返事でした。サラディーンに関しても勿論肯定的でしたがあまり関心があるようには感じませんでした。
 同行の1人がレバノン内戦(注3)について質問しましたが彼女は答えませんでした。彼女が心に深い痛みを抱いていると私は推測しました。

  • 典礼はギリシャ正教会と同じで、ローマカトリック教会に属し全人口の21%を占めます。その他キリスト教徒には、ギリシャ正教会、ローマカトリック教会、アルメニア教会、プロテスタント教会などに属する人たちがいて全人口の14%を占めます。したがって全キリスト教徒は35%ということになり、その他はスンニ派、シーア派、ドルーズ派のイスラム教徒になります。ただしこれらの数字は政治的、宗教的対立の問題があり1932年以来国勢調査が行われていないため不正確です。ここに記した数字は“lonely planet “ の”Lebanon” によっています。
  • フェニキア人は、紀元前15世紀頃から紀元前8世紀頃にティルス、シドン、ビュブロス(現在のレバノン)などの都市国家を形成して海上交易に活躍し、のちにはカルタゴなどの海外植民地を建設して地中海沿岸の広い地域に広がった。
フェニキア人は系統的には様々な民族と混交していたが、アフロ・アジア語族セム語派に属するフェニキア語を話し、言語的に見ればカナン人の系統にある民族である。彼らがフェニキア語を書き表すために発明したフェニキア文字は、ギリシャ文字・アラム文字・アラビア文字・ヘブライ文字など、ヨーロッパ(英語などのアルファベット)・西アジアの多くの言語で用いられる文字の起源となった。(ウイキペディアよりの転載)
  • 1975年から17年間続いた内戦
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「出会いふれあい」編 シリア・ヨルダン・レバノンの旅から3

2024年10月22日 07時57分33秒 | 出会いふれあい

 シリアの現地ガイドはアブドゥラさんでした。
 ムスリムですか、との質問に彼は、ハーフ(半分)と答えてくれました。その意味するところは二つあったようです。ひとつは仕事の関係もあってきちんとしたお祈りなどができないことでした。そして”moderate”(穏健な) なムスリムだということでした。彼が本当に言いたかったのは”moderate”というコトバに象徴されることだったようです。彼の説明に”moderate” という言葉が盛んに出てきました。イスラームを皆さんはすべて過激派と考えているようだが、そうではなく大多数は”moderate” なんだということをハーフというコトバで説明したのだと私は理解しました。
 彼は出来るだけ客観的にものを考えようとしているように感じました。パルミラの最後の女王ゼノビアの末路について彼は私の質問に答えて、アラブではこう考え、ヨーロッパではこう考えられているという説明をしてくれました。(注)
 彼にもローレンスついて尋ねました。他の外国の観光客がいたためか、声を潜めて私の耳元でスパイ、” faker “(詐欺師)とささやいてくれました。サラディーンについても勿論尊敬の返事でしたが、同時に彼よりもfavourite(好きな)な人物がアサド大統領と言ったのには少し驚きました。大統領は自転車で買い物に出かけるような気さくな人物だと話してくれました。
 (注) パルミラはシルクロードの要地として特にBC2世紀からAD3世紀にかけて繁栄しましたが、クレオパトラの末裔と称した女王ゼノビアは属領でありながらローマ帝国に反旗を翻しAD272年ついに滅ぼされます。その後パルミラは廃墟と化し現在巨大な遺跡として繁栄の跡がしのばれるだけです。敗れたゼノビアは捕虜になりましたがローマに送られる途中で毒を飲み死んだという説(アラブ側説)とローマにまで連れて行かれ余生を平穏に過ごしたという説(ヨーロッパ側説)があります。塩野七生氏は「ローマ人物語ⅩⅡ」で「ヨーロッパ側説」よって説明していますが、牟田口義郎氏は「物語 中東の歴史」で両方の「ローマ帝国衰亡史」で「ゼノビアは黒い肌、真珠のような白い歯を持ち、大きな黒い瞳は火のように輝いており、その男性的な知性は学習によっていっそう強化されていた」(lonely planet “Syria” p258からの孫引き)と叙述しています。
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「出会いふれあい」編 シリア・ヨルダン・レバノンの旅から 2

2024年10月18日 07時55分32秒 | 出会いふれあい

ヨルダンのガイド、ジャミールさんは浅黒い肌の典型的な中東の人でした。  
 彼は豚肉を食べないし、ラマダンも行う敬虔なムスリム(イスラム教徒)でした。奥さんは1人だそうです。彼にローレンス(アラビアのローレンス)(注1)を尊敬しているかと尋ねてみました。彼はスパイでcheater(ペテン師)だとの返事でした。サラディーン(注2)について同じ質問をしてみました。勿論尊敬しているとの返事なので次の質問をしてみました。バイバルス(注3)についてはどうかと。この質問は牟田口義郎の「バイバルスはサラディーン**より今でも庶民の間で人気があり」(「物語 中東の歴史」 p221中公新書)を確認したかったからです。ところが期待したような強い返事が無く牟田口氏の説を確認できませんでした。これはシリアのガイドの場合も同じでした。
 (注1)イギリスの軍人・考古学者。1914年~18年、オスマン帝国の支配に対するアラブ人の反乱をイギリスの工作員として支援。アラビアのローレンスと呼ばれました。(1888~1935)
(注2)十字軍と戦い勝利したイスラム軍の将軍で後にエジプトのアユーブ朝の建設者。アメリカのブッシュ大統領がイラク侵略戦争をする時に十字軍を引き合いに出し、これに対して当時のイラクのフセイン大統領がサラディーンの名前で対抗したしたので一躍有名になりました。ところがサラディーンはフセインが抑圧したクルド人出身であったことは皮肉でした。(1138年~1193)
最終的に十字軍をこの地方から追い出し、またモンゴル軍にも勝利した奴隷上がりの将軍でマムルーク朝のスルタンになりました。トルコ系遊牧民クマン人出身。(1228年頃~1277年)クマン人は現在、他民族に同化し殆ど消滅しましたが、ハンガリーの傭兵として現在のハンガリーに定住した人たちがマイノリティーとして残っています。ブタペストの北東100kmにある木造建築(世界文化遺産)で有名なホローケー村がそうです。(NHKのスペシャル番組「ドナウ河紀行」でここが紹介されましたが、クマン人の末裔の住む村であることに触れられなかったのは残念でした
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「出会いふれあい」編 シリア・レバノン・ヨルダンの旅から1

2024年10月14日 07時55分09秒 | 出会いふれあい

 2006年にシリア・レバノン・ヨルダンを旅しました。現在はダメですね。この地は多種多様の民族、宗教の人々が暮らし、その対立と共生の国々です。この時の旅ほど多種多様な人たちと出会った旅行はありませんでした。観光に訪れていた人たちもまた多様でした。しかし、いつもは多いアメリカ人だけは一家族に出会っただけでした。圧倒的に多かった観光客はラテン系の人々、特にこの地がフランスの委任統治領であったことからフランス人が目立ちました。
 行き帰りのエミレーツ航空(アラブ首長国連邦)からして多民族構成でした。客室乗務員14名、コックピット内3名全員の国籍が違うことがあるそうです。
 ちなみに、帰りの飛行機では客室乗務員はイギリス人、インド人、チェコ人、フランス人、南アフリカ人、エジプト人、フィリッピン人、シンガポール人、韓国人、日本人、コックビット内はドバイ人(アラブ首長国連邦)、カナダ人、フランス人でした。
写真は帰りの飛行機での客室乗務員で右から日本人、インド人、中国系シンガポール人です。
 狭い飛行機の中で民族対立があれば飛行機は墜落ですね。狭い地球も同じですよね。
 帰りの飛行機にエミレーツの客室乗務員で15日の休暇で日本に帰る人がいました。(居住地はドバイ)彼女は「日本路線に乗りたいのですが、ヨーロッパ路線ばかり」と不平を言っていました。 
  観光客の国籍、民族も多様でした。キプロス共和国の人に出会いました。北か南かと尋ねると、憤然とした様子で勿論「南だ!」との返事でした。 
 南といえば韓国の人と旅行中始めて親しく言葉を交わし握手までしました。初め韓国の人はわからず、 いつもの私の馬鹿の一つ覚えの“Where are you from?” で始まり “ Korea” (韓国)(日本では「北朝鮮」「韓国」ですが英語では"North Korea " "South Korea"   です)との返事でしたが、そのあとすぐに” South Korea “と 追加したのが印象深く感じました。彼らは全員クリスチャンでダマスカスの「目からウロコ」で有名なパウロゆかりの聖アナニア教会で賛美歌を歌っていました。どうやらパウロの跡をたどる旅のようでした。
  どこか忘れましたがバスク人(スペインに住む少数民族、スペインからの独立運動が盛ん)に出会いました。私の例の質問に「バスク」と答えましたが聞き取りにくかったのでもう一度尋ねると「北スペイン」と答えたのがこれまた印象深く感じましました
レバノンでイラク人にも出会いました。レバノンのベイルート近郊のジェイタ鍾乳石洞窟(今まで見た内で最も繊細で美しいー撮影禁止)で出会ったのはキリスト教徒のイラク人一家でした。イラクには平和がないので近々アメリカに移住すると話していました。もう一組のイラク人は同じ洞窟の入口付近にいた2人のムスリム、シーア派(イスラーム教徒)の青年でした。観光に来ているのかと聞くとそうだと答えてくれましたが。
 ヨルダンのペトラ遺跡ではアラブ系イスラエル人に出会いました。Arabic Hebrew (アラブ系ユダヤ人)か、と確認したところイエスと答えたのですが。
 前述のようにアメリカ人は殆ど見かけなかったのですが、観光中の一組の子供づれの夫婦をレバノンで見かけました。アメリカのシアトルということなのでイチローを知っているかと尋ねるとにっこり笑ってバットを振るしぐさをしました。城島についてはいまいちの反応でした。

 
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「出会いふれあい」編 You look like *****

2024年10月10日 07時52分08秒 | 出会いふれあい

私にはいろんな悪い癖がありますが、其の一つに海外旅行中に”You look like ****”
と言うことがあります。大失敗のことがあります。アゼルバイジャンの飛行機の中でのことでした。”You look like Gorbacheh (ゴルバチョフ)“とやったとたん、相手は血相を変えて怒り出しました。英語でしたが英語の苦手の私には良くわかりませんでしたがどうやら「ゴルバチョフはソ連邦を崩壊させた元凶だ!」と言っているようでした。怖かったです。(妄想、ひょっとして、この人はプーチンだったかも)53回の旅行で2番目に怖かった[百山1]事件。
 これに対してアフリカでは何処でも”You look like Mandela”は大好評でニコニコして握手をしてくる人もいました。皆さんアフリカで試してください。

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「出会いふれあい」編 イスラームの女性5

2024年10月06日 07時57分43秒 | 出会いふれあい

2008年のイランでは女子高校生、女子大学生の元気な姿が非常に印象的でした。実際に大学で女子の占める割合が63%(2003年)にも及びます。彼女たちに囲まれて「どこから来ました?」「名前は?」などの質問攻めに遭いながら、私のほうはもっぱら「大学での専攻は何ですか?」の質問をしました。驚いたことにその答えの多くが理科系だったことです。コンピュター、化学、数学、原子物理と答えてくれました。私は出会いませんでしたが、医学専攻では女性が70%を超えています。
 しかし彼女たちの就職率(以下lonely planet  Iran による)はわずか11%だそうです。それでも彼女たちは戦力であることが充分に認識されていて3ヶ月間習得できる妊娠休暇時は通常の67%の給与が保障されています。
 なぜか男子大学生との出会いはなかったような気がします。 大学は男女共学です。
 2024年の現在はどうなっているのでしょうか。
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「出会いふれあい」編 イスラームの女性4

2024年10月02日 07時54分11秒 | 出会いふれあい

 ヨルダンのネボ山(注)で先生に引率されたベールを被った女子高校生(1人例外)の大群?に取り囲まれ“Where are you from? “ “What’s your name?” などと質問攻めにあいました。ちょっといい気分になりましたが攻撃を転じて彼女たちの名前をラテン文字とアラビア文字で書いてもらいました。
ところが彼女たちの写真[百山1]を撮ろうとすると拒否されました。彼女たちの先生がいないところでは、と考えてやってみると成功しました。それが冒頭の写真です。好奇心いっぱいの高校生たちでした。
(注)ネボ山は、神がイスラエルの民に与えられた約束の地をヘブライ人の預言者モーセに眺望させた場所とされる モーゼの埋葬の地でもあります。イスラーム教徒にとっても預言者の一人なので聖地とされています。

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「出会いふれあい」編 イスラームの女性3

2024年09月28日 07時53分40秒 | 出会いふれあい


 ヨルダンで水タバコを吸っているイスラームの中年女性に出会いました。私には珍しかったので、許可を得て撮影しました。
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「出会いふれあい」編 イスラーム女性たち2 ヘンナ

2024年09月24日 07時56分11秒 | 出会いふれあい


 レバノンで新婚さんに出会いました。結婚式当日友人から写真のよう新妻の手に花などの絵を描いてもらいます。1週間ぐらい消えないそうです。この風習を「ヘンナ」というそうです。全身の写真撮影は拒否されました。
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「出会いふれあい」編 イスラームの女性たち1

2024年09月20日 07時55分15秒 | 出会いふれあい

  ヨルダンのペトラ遺跡を一日観光した後、美しい夕日を見ようということでひとりでタクシーで出かけました。そこで家族連れ(女性だけの)に出会いました。お母さんはかなり好奇心いっぱいのようで色々話しかけてきました。彼女の手作りのお菓子までいただきました。夕日のことは忘れていました。そこで写真を撮らせてくださいと頼みました。ところが隣にいた姑(母親?)がきつく拒否しました。(イスラーム圏では女性の写真は通常タブー)私はいったんはあきらめました。ところが彼女は姑の意向を無視して私に写真を撮るようにと言いました。
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「出会いふれあい」編 タイのアイドル候補

2024年09月16日 07時53分13秒 | 出会いふれあい

 ラオスのルアンプラバンで街が見渡せるというプーシの丘(仙人の丘という意味)に登りました。(写真上はプーシの丘から眺めたルアンプラバンの町)観光客がたくさん来ていました。そこでタイから来ていた二人の少女と仲良くなりました。二人の中年の男性も一緒でした。宿泊のホテルも同じでした。夕食後彼女たちはディスコに行くというのでついて行きました。(日本ではディスコに行ったことはない)
 驚いたことにディスコに入るとすぐに舞台に上がり歌いだしました。疲れていたので彼女たちの活躍を最後まで見届けないまま、テーブルに10ドルを置いてホテルに帰りました。翌朝朝食に出かけると彼女たちもいました。一緒にいた初老の男性が待ちかねたようにやってきて昨日の10ドルのお釣りだといってお金を渡そうとしたのでいらないといいました。するとお土産にしてくださいといって新札のタイバーツ(タイのお金)数種類差し出しました。せっかくの好意なのでいただきました。 
話を聞くと彼女たちはタイの新人歌手でこの地で反響を見るために来ていたようです。男性は歌事務所の人であったようです。 このラオスではタイからの観光客が目立ちました
 写真下は彼女たちのディスコでの舞台です。
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「出会いふれあい」編 マサイ人の怒り

2024年09月12日 08時05分52秒 | 出会いふれあい

マサイ人はケニアとタンザニアに居住する牧畜民で人口約60万人と推定されています。男子は長槍を持ち牛、ヤギ、羊を遊牧し農耕,狩猟を行わない誇り高い民族です。彼らが槍を持ち牛などを放牧している風景はマサニ絵になります。しかし彼らは誇り高い民族で写真に撮られることを嫌います。この写真は2007年ンゴロンゴロ自然保護区(タンザニア)に向かう途中で車の中から牛を追っているのを隠し撮りしたものです。それをすばやく見た彼が抗議で怒っている写真になりました。
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「出会いふれあい」編 語学音痴の会話2

2024年09月08日 07時52分19秒 | 出会いふれあい

ついでに中央アジアでの私の接したコトバ事情(2004年当時)について紹介しておきます。ガイドはいずれもロシア語が堪でした。3人いましたが、ひとりについては不明ですが、他の二人はいずれも母国語(ここではあえて母語でなく母国語とします)がやや不自由でした。トルクメニスタンのガイド、マヤさんの弟は母国語に堪能だそうです。これはソビエト連邦崩壊後の教育だということは容易に考えられるところです。すなわち、現在各国政府は自国の民族語教育に力をいれていることは明らかです。
 今回挨拶に、この地域の共通語であるロシア語を最初に用いました。もっとも知っている単語は(ありがとう)「スパシーバ」と(さようなら)「ダスビダニア」だけなのですが。これは知識層と見える人たちには良い反応が見られるのですが、一般庶民の反応はいまいちという感じでした。その後現地語を使うようになって反応がよくなりました。「アッサラム・アクイレム」(丁寧な?「こんにちは」に相当するアラビア語起源で原義は「平和があなたと共にありますように」)が一番でした。なお、この「アッサラム・アレイクム」はイスラーム圏では共通語です。この挨拶をすると必ず握手を求めてきました。というわけで、もともとあった民族語への敬意がソ連邦崩壊後強くなっているのではないかと思いました。そのことを強く印象付けたのが帰りのタシケント(ウズベキスタンの首都)空港でのやり取りでした。パスポートチェックの時係りの女性に「スパシーバ」(ロシア語)というと彼女は間髪を入れずに、しかし、にこやかに「ラフマット」(ありがとう)(ウズベク語)と訂正してくれました。次の「ダスビダニア」にも、「ハイール」(さようなら)(ウズベク語)とすばやく、毅然として、笑みを浮かべながら、訂正してくれました。
(注)1995年まではロシア語とウズベク語が公用語。以後ウズベク語だけが公用語。

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「出会いふれあい」編 語学音痴の会話1

2024年09月04日 07時52分38秒 | 出会いふれあい

1998年 ミュンヘンでの自由時間にはドイツ博物館へ行きました。ガイドブックによれば世界最大の規模を持つ自然科学、産業技術などの大博物館だそうです。 そこで母子三人に出会いました。いつもはカメラをかざしてOK?などといって撮影するのですが、今回はNHKラジオドイツ語講座で覚えた「写真を撮っても良いですか」というドイツ語で許可を求めました。(いまはもう忘れました)岸田今日子さんに似たお母さんが“Natürlichナテュアリッヒ”(勿論いいですよ)と答えてくれました。覚えたてのドイツ語が通じたのでうれしくなり感激の一枚でした。(冒頭写真)
 外国でコトバが通じたときのうれしさは私のような語学音痴にとっては大変なものです。逆に通じなかった時は悲惨です。初めての海外旅行のエジプトで”water”(水)が通じなく紙に“water”と書いた想い出があります。ロンドンでは集合場所のピカデリーサーカスを警官に聞いて通じないのでやけくそで「ピカデリー」と声を張り上げて通じたことがありました。どうやら「ピ」にアクセントがあるのですね。
 同じミュンヘンの別の博物館でのことです。入口でガードマンらしきオジサンに“Grüß Gott“ グルスゴットと挨拶しました。(ドイツでは普通「こんにちは」は”Guten Tag“グーテンタークなのですがミュンヘンなど南ドイツとオーストリアではこのグルスゴットが喜ばれる「ようです)このオジサン一瞬きょとんとしていましたがすぐに分かったのか 、私のグルスゴットの発音を直してくれました。数回の練習の結果「“Sehr Gut“ゼアーグート 大変よろしい」とほめてもらいました。ここを出る時このオジサンは私のところまでわざわざ来てお互いに「“Auf Wiedersehen“アウフヴィーダゼーエン さよなら」を言い交わしました。あの時のオジサンの笑顔は忘れることができません。 
このGrüß Gottにはもう一つ思い出があります。ウィーンからルフトハンザ航空に乗った時のことです。客室乗務員にGrüß Gott と言ったところちょっと驚いた表情で「あなたはオーストリア人?私もオーストリア人よ」と反応がありました。すぐばれましたけどね。
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