同じ首都アシュガバットの近くにアナウという城塞都市の遺跡があります。1948年の地震で崩壊しましたがそこのモスクが信仰の対象になっていて写真のように布切れなどいろいろなものを捧げ女性が「子授け」を願います。
このニサの遺跡で馬を見ました。(写真)漢の武帝が渇望した「汗血馬」はこの地の馬でした。現在のトルクメニスタンの名馬アハル・テケ種というのはこの「汗血馬」の子孫といわれています。ニヤゾフ大統領の肝いりで競馬が復活しました。
トルクメニスタンの首都アシュガバット(12月29日の地図参照)の近くにニサの遺跡(写真)があります。ここはパルティア帝国(BC3~AD3)初期の首都だったところです。塩野七生さんの「ローマ人の物語」にもかなりの分量で登場する東方でのローマ最大の敵でした。 その遺跡からのアラム語のオストラコン(陶片)が国立博物館にありました。アラム語はこのパルティア王国の言語であり当時中央アジアを中心に広く使用されていました。
アラム語はイエス・キリストの母語でもあることを思い出しました。キリストの最後の言葉「エロイ、エロイ、レマ、サバタニ」(マルコ15の34)は彼の生の声アラム語だったのです。現在のヘブライ文字もアラム文字に由来するそうです。(「書物としての新約聖書」p204 田川健三)
colo さんコメントありがとうございました。本年もよろしく。
トルクメニスタンのメルヴ(前日の地図参照)にはすこし奇妙な城跡があります。キズ・カラです。7世紀ササン朝時代に造られ,後のセルジューク朝(11~12世紀)には儀式用の会場として使用されました。(function room )
このメルヴはアフガニスタンからエジプトまで支配したセルジューク朝の首都で「千夜一夜物語」の舞台にもなったところです。1221年のモンゴルの来襲ですべてが破壊されました。このとき100万の人が殺されたという説があります。(通説・私はあまり信用していません)
地図は旅程図です。(ユーラシア旅行社のホームページからの転載)これを見れば前回紹介したアムダリア河がアラル海に注いでいることが分かります。アラル海の旱魃、縮小が日本でも話題になっています。撮影禁止のアムダリア河渡河付近で以前2kmあった川幅が現在800mになっているという説明を受けました。しかし砂漠の中をアムダリア河からの水を引いた運河が滔滔と流れているのを見るとその功罪をどう考えるのか分からなくなりました。
トルクメニスタンの現地ガイドのマヤさんを紹介しておきます。推定年齢26歳?の独身女性でした。(写真)父親がトルクメニスタン人、母親がロシア人で日本語は出来なく添乗員の斉藤さんとの会話はロシア語と英語だったようでした。彼女の家庭での共通語はロシア語で、英語とフランス語が出来るそうです。トルクメニスタン語はあまり出来ないそうです。しかし弟はトルクメニスタン語も出来るそうです。多分彼はソ連崩壊後の新しいトルクメニスタンの教育を受けたためでしょう。
ちなみにトルクメニスタンの民族構成はトルクメン人77% ウズベク人9% ロシア人7% カザフ人2% で総人口は430万人です。ロシア人は減少傾向のようです。
トルクメニスタンでは公共の場所での写真撮影は禁止でした。バザールでも禁止でした。アムダリア河を渡るとき橋が危険だということで乗客はバスから降りましたが、私は体調不良ということでバスにいました。そこからこっそりと撮影禁止のアムダリア河と橋を盗撮しました。というわけでこの写真は貴重品というわけです。
トルクメニスタンでびっくりしたのは現地通貨との両替でした。USドルとの交換で公式レートと闇市とでは4倍の差がありました。公式レートで1$=5200マナット、闇市では1$=2.3000マナットというわけです。このことが経済的に何を意味するのかは私には分かりませんが、国境ではトルクメニスタンから大量の物資を仕入れて持ち帰り商売をしようとするウズベキスタンのオバチャンたちの姿を多く見かけました。
首都アシハバードのホテルでは伊藤忠商事の人に出会いました。天然ガスその他の地下資源の豊富な国だとの話でした。そのための商売で来ているようでした。
博物館には日本のODAからの大型テレヴィが置かれていましたが全然機能していませんでした。
写真はこの国特産のブランディですが、やはりニヤゾフ大統領が。現地ガイドが日本に来るときの土産はこのブランディだそうです。