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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「ブルガリア編] ソフィア2

2021年05月30日 07時52分46秒 | ブルガリア
 
写真右上は旧共産党本部です。こんなところが観光スポットになっているのが面白いですね。
 写真左は聖ニコラス・ロシア教会です。カトリックの場合世界中のカトリックをヴァチカンが一元管理していますが、ロシアやブルガリアなどの東方正教会は同じ宗派でありながら国ごとに独立した自治を持ちます。ロシア正教会のアイデンティを守ろうと、1913年ロシアの外交官、セモントフスキ・クリロの命により建設されました。大使館員と少数のロシア人のため。現在信者はごく少数のようです。
 2010年のモンテネグロ旅行の時の現地ガイドマリアさんの話を参考のため紹介しておきます。ガイドブックにモンテネグロ人の70%がセルビア正教徒であると書かれています。そこで彼女にセルビア正教徒であるかを尋ねました。イエスと答えて注釈が入りました。モンテネグロは2006年にセルビアから独立しばかりなので今はまだセルビア正教徒ですが、間もなくモンテネグロ正教徒になるはずです。
 写真右中は国会議事堂前にあるロシア皇帝アレクサンダル2世(1818~81)の騎馬像です。解放者記念像と呼ばれています。というのはアレクサンダル2世は、露土戦争の勝利でブルガリアをオスマントルコから解放した英雄というわけです。台座には「我が兄弟、解放のため」という碑文が刻まれています。しかしロシアでは専制君主であったことは間違いなく、ヴ・ナロード(人民の中へ)を合言葉に生まれた「ナロードニキ」と呼ばれた革命派の一派のテロリストの一人27歳の女性ペトスカヤに1881年に暗殺されました。
 写真右下は5000人を収容するバルカン半島最大の寺院といわれているアレクサンドル・ネフスキー寺院です。ブルガリア独立のきっかけとなった露土戦争で戦死したロシア兵のために建てられた大聖堂です。1882年から40年の歳月をかけて建設されました。


「ブルガリア」編 ソフィア1

2021年05月27日 07時52分06秒 | ブルガリア

 モスクワ経由でブルガリアの首都ソフィアが最初の観光地でした。
写真上は「聖ペトカ半地下教会」です。オスマントルコ(イスラーム教国)時代の14世紀建設の教会です。以前は屋根だけが見えていたのが今は少し姿を現し周りには土産物屋さんなどがあります。なぜ半地下なのか、イスラーム時代なのでモスクより高い教会を作ることができなかったという説もあるようですが、よくわかりません。中には入りませんでしたが、内部装飾は素晴らしいそうです。
写真中は4世紀ローマ帝国時代建設の「聖ゲオルゲ教会」です。
  ちょっと注を入れておきます。現在のブルガリアの宗教は、キリスト正教会の一員であるブルガリア正教会が82,6%、イスラーム教が12,2%、その他です。
 写真下は国会議事堂です。

「ブルガリア」編 現地スルーガイドのテオドラさん

2021年05月24日 07時52分57秒 | ブルガリア

 1999年9月28日〰10月12日「ルーマニア、ブルガリア物語」というツアーに参加しました。その時のルーマニアについてはすでに紹介済みなので今回は未紹介のブルガリアの紹介です。ただブルガリアのスルーガイドのテオドラさんについては紹介済みですが、今回一部省略して再録します。それから未紹介部分を始めます。
 ブルガリアを通じての現地ガイドは24歳の美人のテオドラさんでした。(写真)元駐日大使の娘さんでブルガリア語(当たり前)、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、ギリシア語がペラペラで日本語も少し分かる才女でした。(なお旧社会主義国では現地ガイドが大学教授のアルバイトであったことがよくありました) 
 テオドラという彼女の名前を聞いて私は「ローマ法大全」で有名なビザンツ帝国の皇帝ユスチアヌス大帝(在位526~565年)の后テオドラ(注)を思い出し尋ねると、にっこり笑って「そうです、同じ名前です」と答えてくれて自分の母親がギリシア人であると教えてくれました。(ギリシアではテオドラという名前はポピュラーのようです)しかし次の私の質問が良くありませんでした。「テオドラはprostitution(売春) に関係ある人と聞いていますが」彼女はやんわりとそれを否定しましたが。 
  (注)彼女(?~548年)はサーカスの踊り子から后妃になりました。彼女を  一躍有名にしたのは532年のことでした。この年増税への不満が爆発し、反乱が起きユスチアヌスは追放されそうになりました。絶望した彼は逃亡を決意しその準備をしました。そのときテオドラは次のような演説をしてユスチアヌスをいさめました。「たとえそれによって命ながらえるとしても今は逃げる時ではありません。****そこまでして生きながらえたところで、果たして死ぬよりよかったといえるでしょうか。私は古の言葉が正しいと思います。『帝衣は最高の死装束である』」この演説でユスチアヌスは逃亡を思いとどまり反撃に出て専制皇帝への道を歩むことになりました。

 ブルガリアのプロヴディフ民族博物館で奴隷が描かれている壁画を見た時、ふとスパルタクス(注)の故地がブルガリアではなかったかと思いテオドラさんに確認しました。すると彼女は誇らしげにそうだと答えモニュメントは何処そこにあり、その他詳しく話してくれました。(英語なので殆ど理解不能)そこで私は今の話を同行の皆さんにも話してくださいと頼みました。彼女答えて曰く「日本人観光客はパチパチ(写真を写す格好)とショッピングだけに興味があるようなので」ということで話してくれませんでした。これにはひどく傷つきました。この一言で彼女は私の忘れえぬ人になりました。旅行するたびにこのことを思い出します。

(注)ブルガリアの地の先住民トラキア人の剣闘士奴隷で古代ローマを震撼させた奴隷反乱(BC73~71)の指導者。ハリウッド映画にもなっていて、確かカークダグラスが主演。
なお剣闘士奴隷について余談話を少しだけ。彼らは奴隷の中でも最下層とされていましたが、一面、現代のアイドル的な存在でもあリました。有名なポンペイの剣闘士訓練所の遺跡に貴婦人の遺体が発見されています。(未公開)アイドルとのデイト中にヴェスヴィオ火山が噴火したのです。
   「プロヴディフを見ずしてブルガリアを見たことにならない」という現地英語版観光小冊子に次のような文章がありました。
   The Thracian tribes would die rather than be slaves and it is little wonder that the legendary Spartacus , the leader of one of the biggest uprisings of slaves in Antiquity was a Thracian .
(トラキア人は奴隷になるくらいならばむしろ死を選びました。古代最大の奴隷反乱の有名な指導者スパルタクスはまさに1人のトラキア人であったことは疑いありません)(私注 実は古代ローマでの剣闘士奴隷にはトラキア人がかなり多かったようです)


「ロマンチック・ドイツ」編 ミュンヘン

2021年05月21日 07時53分11秒 | ドイツ

 今回の旅行の最終地はミュンヘンでした。今回の旅行でずっと気になっていたことの一つに写真左中のようなヨーロッパで珍しい物貰いの人たちでした。特にミュンヘンで多かったような気がします。”Ich habe Hunger”(わたくしは飢餓状態です)と書いた札を掲げていました。教会の前が多かったようです。どうやらトルコ人のようでした。1998年ことですが今は?
 街をぶらぶらしているとこのような日本語での案内の店がありました(写真左下)
 写真左上は1972年のオリンピック競技場です。
 写真右下の中ほどの建物はBMW本社です。
 写真右上はミュンヘン郊外にある1869年から17年にかけて建てられたノイシュヴァインシュタイン城です。
 今回で「ロマンチック・ドイツ」編を終了します。次回からは?
 

「ロマンチック・ドイツ」編 ロマンチック街道4 アウグスブルグ フッゲライ

2021年05月18日 07時51分35秒 | ドイツ

 わたくしたちのロマンチック街道の旅はアウグスブルグが終着点でした。この地での観光はなぜか「フッゲライ」だけが記憶に鮮明であとは忘却(1998年のことですから)(以下2008年9月15日の修正再録)
 このフッゲライは通常たいていのパックツアーでは観光コースに入っていません。 このときも予定には入っていませんでしたが、私がしつこくバスの運転手を巻き込んで頼み込み、行くことができました。通常はこのような変更を旅行業者はしません。
 しかしアウグスブルクを観光される方には必見のところです。                                      
そのフッゲライというのはドイツ後期中世の大富豪フッガー家(注)が貧民救済のため1517年~1525年に建てた「世界最初の社会福祉集合住宅」です。現在も入居者は年に日本円にして約100円というウソのような家賃で55歳以上のアウグスブルク市民で既婚者、双方がカトリックという条件です。

(注)フッガー家は有名なイタリア フィレンツェのメディチ家の数倍の資金力を持つ大富豪で当時のヨーロッパの政治を左右できるほどの力がありました。宗教改革の発端となった贖宥状(免罪符)の販売はフッガー家がカトリック教会に貸し出した資金の回収のためでした。また神聖ローマ帝国皇帝カール5世選出の買収資金もフッガー家から出ていました。

通常は一部屋が一般公開されていますが、このときはなぜか公開されていなく見学できませんでした。文献によれば間取りは3部屋、台所、風呂場つきで60平方メーターです。部屋数は文献によって多少の差が有りますが大体100室程度のようです。
 ここで見かけた仲のよい幸せそうな老夫婦の姿が、一生の殆どをひとりで生活してきた私には23年(1998年)経過した今でも忘れられません。 
私たちが訪れた時、キリスト教の儀式が行われていました



「ロマンチック・ドイツ」編 ロマンチック街道3 ディンケルスビュール

2021年05月15日 07時52分47秒 | ドイツ

 ディンケルスビュールも中世の面影を強く残す城壁と濠に囲まれた町でした。写真右上は城門です。ここから入ります。写真左は15世紀創建の聖ゲオルグ教会です。この塔に上りみた市街地風景が写真右中です。濠にも囲まれているディンケルスビュールです。(写真右下)

「ロマンチック・ドイツ」編 ロマンチック街道2 ローテンブルク

2021年05月12日 07時52分30秒 | ドイツ

 ロマンチック街道次の訪問地はローテンブルクでした。観光はフリーでした。街をぶらぶらしました。「全ドイツを通じて、これほど中世都市の姿の姿を今日再現できた町はない」(ブルーガイド・ワールド ドイツP15 )と記述されてように町は中世的雰囲気を漂わせていました。(写真下)街頭でリンゴジュースを売っていました。ノンアルコールで濃厚ビタミンと書かれていますね。いただきました。美味しかったです。(写真下右) 
 「中世犯罪博物館」を訪れました。しかしなぜかアルバムに写真が一枚もありません。というわけで、ここでいただいたリーフレット日本語版の一部を紹介します。(写真上)左は責め道具です。「1」木のカラー;服装規定違反女性のため 「2」辱め用のマスク;おしゃべりの過ぎる女性用 「3」大きなロザリオ;不熱心な信徒用 「4」辱めのマスク;長い鼻付き 「5」飲んべえ用の樽;居酒屋の常連の大酒のみを懲らしめるため 「6」辱め用のマスク;豚のように振る舞う男性用 「7」貞操帯;既婚女性の貞操のため 「7」 二輪首かせ;ふたりのいがみ会う女性用
 厳しいですね。この件に関して「ドイツ歴史の旅」(坂井栄八郎著)は以下のように叙述しています。
 「中世の諺に『都市の空気は自由にする』(Die Luft der Stadt macht frei)というのがある。***これは領主に隷属する農奴身分の者も、都市に逃げ込んで無事に逃げこんで無事に1年と1日を過ごせば、農奴身分から解放されて市民の仲間にいることができる(という意味) ***ここで勘違いして、領主の法はきびしく、都市の法はあまかった、などと考えてはいけない。***都市というのは***同格者のヨコの連帯を組織原理している***これを破れば***きびしく罰せられる。***いまは観光用の見世物になっているが、(この博物館のこと)都市当局の拷問のすさまじさはほかの権力に劣るものではない」(p120)


「ロマンチック・ドイツ」編 ロマンチック街道1 ヴュルツブルク

2021年05月09日 07時51分38秒 | ドイツ

 ヴェルツブルグ〰フッセンまでの350㎞の道がロマンチック街道と呼ばれています。わたくしたちの旅は途中のアウグスブルグまでで東のミュンヘンに向かいました。写真左の地図をご覧ください。(ルフトハンザ航空案内パンフレット日本語版から)
 まずはこの街道の出発地ヴェルツブルグから。写真右上は12世紀から18世紀まで大司教の居城マリーエンブルク要塞です。現在ブドウ畑に囲われた博物館になっています。わたくしが購入したフランケンワインはこの畑のブドウかな?中世ヨーロッパ特にドイツではカトリックの大司教と世俗の領主を兼ねているところがありました。
 18世紀になりこの世俗の領主と大司教を兼ねた領主は町の中心に移りました。レジデンツ(宮殿)と呼ばれています。写真右中はその内部です。ここの天井フレスコ画は世界最大だそうです。
 写真右下はこの町で出会った親子です。赤ちゃんは泣いているかな 笑っているのかな。

「ロマンチック・ドイツ」編 バンベルク

2021年05月06日 07時53分40秒 | ドイツ

 バンベルクでの一番忘れられないものは、燻製ビールとフランケンワインです。自由時間に一人で出かけて燻製ビールの操業1678年の醸造元の酒場でいただきました。写真右上はその時のコップのコースタ―です。フランクトゥールというドイツ文字で読みにくいですが、操業1678年とRAUCHBIER(英語でsmoky bier、燻製ビール)とありますね。その由来などについては2021年2月3日に紹介しているのでご覧ください。
 フランケンワインはこの町のメッサーシュミット(ヒットラー時代の戦闘機の名前―わたくしの軍国少年時代の懐かしい名前)という店で比較的安い値段で自分用の土産として3本購入。わたくしは安いワインしか飲んだことがないのですが、少なくとも今までのわたくしの経験で一番美味しかったワインです。フランケンワインの白のtrocken(辛口)です。2012年10月5日に紹介しています。
 写真左上は市街地展望です。
 この街の真ん中をレグニッツ川が流れているのですが古くは左岸が司教区で右岸が商人漁民区でした。そこでその中間すなわちレグニッツ川の中洲に市庁舎ができました。写真右下はその中州にある旧市庁舎です。
 この街は西ヨーロッパでは珍しく鯉料理が名物です。旅行社の案内では夕食に出る予定でしたが季節外れということでダメでした。
 写真左中下はレグニッツ河です。