100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「忘れられない」編 ガンディー1

2023年04月28日 07時53分42秒 | 忘れられない

  ガンディー(1859~1948)は非暴力の抵抗でインドの独立を勝ち取った人としてインド建国の父として世界的にも著名な人物であるかとは常識ですね。その彼の火葬場がデリー郊外に残されていて(写真)インド人の礼拝の場となっています。ヒンズー教は墓を作りません。したがって彼の墓もありません。
ついでの話ですがヒンズー教の親戚の仏教徒にも墓はありません。日本では「仏教=墓」というイメージがありますが、日本だけが特殊で日本以外の仏教徒は墓を作りません。
「お墓があるのは、仏教国では日本だけである。日本人は仏教と言えば、お墓を連想するほど、仏教にとっては不可欠なもの、仏教の一部だと思い込んで、お墓のない仏教など夢想だにしない。しかし、現在仏教が信奉されているアジアの各地を訪れれば明らかのようにお墓はどこにもない」(今枝由郎著『ブータンから見た日本仏教』p115)
もひとつ余談話。最近遺骨の取り違えが話題になっていますが、本林靖久氏はその著「ブータンと幸福論」(p135)で「(日本人は)葬送儀礼においても骨に対する執着が強すぎ、死者の儀礼の行きつくところが、遺骨の処理や保存に囚われすぎではないかと思う」と述べています。
 ガンディーの話に戻ります。彼はイギリス留学を終えてアフリカに行ったとき差別を受け、始めてインド人意識に覚醒して、そこからインド独立を考え始めます。
 このガンディーのインド人意識の覚醒の時、南アフリカ原住民への差別についてガンディーはどう考えていたのかが、わたくしの長年の疑問でした。1999年に大阪外国語大学助教授秋田茂氏の論文「植民地エリートの帝国意識とその克服」(「大英帝国と帝国意識」の内の論文)に関連して秋田氏に質問をしました。以下氏の回答文の一部
 「***ガンディーの関心は、もっぱら在住インド系住民の権利擁護に向けられており、現地人については、意識的に無関心を装っていた。あるいは、関心を振り向けるだけの余裕はとてもなかった、というのが実情ではないでしょうか。私も今回の論文では、ご指摘の点は少し意識しておりましたが、十分にフォローできませんでした」

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「忘れられない」編 アンベードカル

2023年04月25日 07時53分11秒 | 忘れられない

インドムンバイ(旧称ボンベイ)の街中をバスで走っていると銅像が見えたので現地ガイドのセチさんに尋ねるとアンベードカルという人でインド独立後初代の法務大臣という説明でした。慌ててバスの中から写真を撮りました。私が写真を撮った理由は彼が法務大臣であったからではありません。彼は不可触民出身でその解放に一身を捧げその方法について、かのガンディーと鋭く対立しヒンドゥー教を捨て、最晩年に仏教徒へ改宗しました。それが理由でした。
 不可触民についてはご承知の方が多いと思いますので簡単に説明しておきます。ヒンディー語でアチュート(触ってはいけない)が英語のuntouchable になりそれが日本語訳で「不可触民」になったようです。ガンディーが名づけたハリジャン(神の子)は当該の人たちには不評のようです。彼らはインド独特のカーストの最下層というよりはアウトカーストと呼ばれるように制度の外に存在し「穢れ」て、いるとされ差別を受けてきました。現在は法的には差別はなくなりましたが社会的には強く残っています。数は全人口の約15%で1億5000万人になるとされ、日本の被差別民に比べて非常に多いのです。
 15日間通じての現地ガイド、セチさんはこの存在について最後まで言及しませんでした。彼は最上層のバラモン(ブラーフマン)の出身でした。余談ですが彼の毎日読むのはヒンディー語新聞ではなく英字新聞だそうです。わたくしが夜警の仕事をしていたと話して以後セチさんのわたくしへの態度が一変しました。(説明省略)
 アンベードカルとガンディーとの対立について少し紹介しておきます。「ブッダとそのダンマ」(山際素男訳、光文社新書)というアンベードカルの著書に寄せた山崎元一氏の解説(p397)に次のような簡潔な文章があります。
  「ガンディーが不可触民制はヒンドゥー教そのものとは関係なく、その廃絶はカースト=ヒンドゥーの懺悔・改心を通じてもたらせると主張したのに対し、アンベードカルは、不可触民制の廃絶はカースト制度とヒンドゥー教を打倒することによって、また不可触民自身の自覚と向上によって得られると唱える」
このようにしてアンベードカルは早くからヒンドゥー教から決別していましたが正式に仏教徒への改宗宣言は1956年のブッダ生誕2500年祭でのことでした。その年12月に享年65歳で「ブッダとダンマ」の最終稿に目を通しつつ世を去りました。この著書で彼は仏教が神と霊魂の存在を否定する宗教であることなど主張しています。
この本以外に彼の業績とカースト制について興味のある方は少し古くなりますが(1979年)「インド社会と新仏教」(山崎元一著 刀水書房)が参考になると思います。
また、日本からインドへ国籍を移し彼の衣鉢を継ぎ彼のこの新仏教の布教に奮闘している佐々井秀嶺氏が以前TBS系テレビの「不思議発見」で紹介されました。その後、彼の著書「必生 闘う仏教」が集英社新書で出版されました。2023年現在も活躍中です。

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「忘れられない」編 インドの子供 2

2023年04月22日 07時52分21秒 | 忘れられない

 写真上は前回紹介の子供の仕事です。遊びではありません。下の写真はデリーでの撮影ですが、これも遊びではありません。大道芸人です。
 エローラの観光後ホテルに帰ると強烈な下痢がはじまりました。翌日まで続きその日のアジャンタの観光を取りやめホテルで休みを取りました。部屋のトイレのペイパーは2,3回使用するとなくなるなど不便がありました。その時このホテルの従業員(中高生ぐらいの男の子)がいろいろと世話をしてくれました。翌日ホテルをバスで出発するときこの少年は手を振って見送ってくれました。その時初めて気が付きました。なぜお礼を言ってチップを渡さなかったのかと。27年たった今も胸が痛み後悔反省をしています。ごめんなさい。
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「忘れられない」編 インドの子供たち 1

2023年04月19日 07時53分00秒 | 忘れられない

 私はこの写真の撮影後に起きた事柄を27年たった今も忘れることは出来ないし、一生忘れないでしょう。
 この写真はインドのジャイサメールというところのキャラバンサライ(隊商宿)がホテルになった、そして多分その昔、隊商たちのラクダを繋いだと思われる中庭でのものです。私と同行の1人とその中庭のテーブルでビールを飲んでいました。と見ると庭の片隅に父子が地べたに座ってみやげ物らしきものを広げていました。そこで私たちは子供にはつまみ、お父さんにはビールを勧め椅子に座るよう言いました。ところが二人とも椅子に座ろうとしません。地べたに座り込みました。どうやら彼らは不可触民(次回紹介)で同席は出来ないと思ったようです。
 同行の人が写真を撮りお父さんに送るから住所を書いてくださいといいました。お父さんは書けません。ホテルの人に書いてもらいました。そのときです。ホテルの人が住所を書いている手元に子供は食い入るような視線を投げかけていました。文字を知りたい、学校へ行って文字を習いたい、学校で勉強したいという強烈な眼差し、顔つきでした。多分プロの写真家であればその一瞬を切り撮っていたでしょう。私には出来ませんでした。しかし私の脳裏には強く焼きつき消えることはありません。今こうしてこの文章を書きながら老いの眼から涙が止まりません

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「忘れられない」編 最初の海外旅行3 ツアーのあり方

2023年04月16日 07時54分04秒 | 忘れられない

最初のツアーは40人くらいの大人数でした。そのためトイレ休憩などで時間を無駄にしました。しかもお土産屋さんにかなり時間を使いました。その時はこれが普通かなと思いました。土産物屋さんに連れて行くのは旅行業者へのバックマージンが理由のようです。時には添乗員の判断で行くことがありますが、これは添乗員個人のバックマージンのようです。帰国後調べてみると「最大募集人員25名」「土産物屋さんにはいかない」という旅行社を見つけました。それ以後この二つを売りにしている旅行社で行くようにしています。正確なことは知りませんが大手の旅行社は「多人数」「土産物屋」のようです。したがって53回の旅行で最初だけが大手で後の52回は中小の旅行社です。
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「忘れられない」編 最初の海外旅行3 景観

2023年04月13日 07時51分42秒 | 忘れられない


ルクソールからカイロへの機中から見た景観は今もわたくしの脳に鮮明に残っています。です。なぜか写真がありません。この旅行で使用したカメラはインスタントカメラで40枚ぐらいしか撮影でなかったことも関係していることもあるかもしれませんが、それでもなぜ撮影をしなかったかと28年たった今も後悔しています。
 それはナイル河、その沿岸に緑があり、その外には広大な砂漠が広がっていました。これがエジプト文明だと叫びたくなりました。感動のひと時でした。この景観は知識としては知っていましたので、あらかじめ添乗員に窓際の座席をお願いして嫌われましたが。
 写真は砂漠地帯でラクダに乗って喜んでいるわたくしです。髪の毛は黒いですね。

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「忘れられない」編 最初の海外旅行2 日本人女性の活躍

2023年04月10日 07時51分49秒 | 忘れられない

この最初の「古代文明ロマンの旅」(1995年10月26日~11月4日)で日本女性に対する見方が変わりました。カイロ空港に降り立ち汚染された空気のいやなにおいを感じていた時、我々の添乗員(女性)の声が突然聞こえました。「なぜですか?女性にだけ荷物を運ばせて。男性のあなたは手ぶらとは。それだから日本の男性はダメなんです」。夫婦の女性か懸命に荷物を運んでいるのに、男性は手ぶらで後を、でした。びっくりしました。(感想省略)
ギリシアで一日のクルーズをしました。乗船人員400名ぐらいの船で日本人は100名ぐらいの国際的なクルーズでした。そこで総指揮をしていたのが日本人女性でした。
ギリシアでの現地ガイドも日本人女性でした。
 いずれも写真がないのが残念。

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「忘れられない」編 恥かしくて怖い話

2023年04月07日 07時51分48秒 | 忘れられない


 1年ほど前からこのブログのネタ切れと私の寿命切れのどちらが先かと思っていました。ブログのネタ切れの方が早かったようです。もっとも未紹介のところもいくつかあるのですが、時間の経過に伴い老化、ボケの深化により紹介済みの部分を含めて忘却の彼方ということで紹介不能になりました。
 しかし、ボケてきた今も鮮明に残っていることもあります。それはたぶん地獄の閻魔さんへの土産話になるでしょう。
 そこで今回より今も忘れられない旅行の思い出を修正再録、紹介をしたいと思います。
 最初の旅は「古代文明ロマンの旅」(1995年10月26日~11月4日)というトルコ・ギリシア・エジプトの旅でした。61歳の時でした。
この旅の最初の観光はトルコのイスタンブールでの「ベリーダンス」(注)でした。写真はベリーダンサーと脂下がった私です。そこでかなりのアルコール(種類は記憶喪失)を飲みホテルへ入りました。そこでちょっと外に出たところ「マイフレンド・マイフレンド」と叫んで近寄ってきたポン引き(イタリア人)と酔っ払った勢いで片言の英語のやり取りをしました。そのうちに自分のホテルへの帰り道もホテルの名前も忘れていました。そこで彼に近所のホテルの名前を挙げてもらいました。さすがにいくつかの名前の中から思い出しました。そこで義理を感じた私は「テンダラーズオッケー」という所に行くことになりました。そこでウクライナ出身のミニスカートの美女二人に挟まれてお酒を飲みました。
 オスマントルコ時代の宮廷ではウクライナ美女がたくさんいたことを思い出し歴史は繰り返すなどと暢気に思っていましたが、少し正気に成りヤバイと思い帰ろうとしました。やはり巨額な請求書が付きつつけられました。テンダラーズだったはずと抗弁しましたが、当然のことですが了解されるはずもありません。屈強な男4,5人に取り囲まれ小さな部屋に入れられました。そこでいくつかのやり取りがあって正気になった私はあきらめかけていました。とするとボスみたいな人が現れ首を部屋の入り口のほうに向け「帰れ」のサインをしたようでした。そこテンダラーをおいてすばやく?脱出しました。なぜ助かったのかはいまだに謎です。考えられるのはトルコが親日国であるということしか考えられません。
 危機を脱してもその後もいけません。さすがホテルの名前は覚えていましたが帰り道がわかりません。通りがかり人に尋ねると親切に教えてくれるのですが、まったく方向違いばかりです。ホテルに帰ったのは空が明るくなってからのことでした。
(注)日本べリ-ダンス連盟「世界最古の踊りと言われるベリーダンスは、女神崇拝のための儀式として巫女たちが踊ったのがそのはじまりだと言われています。そして、豊穣を祝うための踊りとして、脈々とアラブの女性たちに受け継がれていきました。
広辞苑「(bellyは腹部に意)腹部をひねったり腰を振ったりする女性の踊り。西アジアやアフリカ北岸で行われる」

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「マレーシア・ブルネイ」編 コタキナバル4

2023年04月04日 07時52分23秒 | マレーシア・ブルネイ


 救命胴衣を着用してクリアス川をクルージング。目当てはボルネオ島にしかいないテングザルです。しかし、残念ながら遠くに子ザルがかすかに見える程度でわたくしのカメラには収めることはできませんでした。
 翌日、キナバル国立公園へ。東南アジア最高峰キナバル山(4096m)が見えました。その後植物園に向かいましたが、わたくしにはさっぱりわかりません。
 今回で「マレーシア・ブルネイ」編を完結します。
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「マレーシア・ブルネイ」編 コタキナバル3

2023年04月01日 07時54分19秒 | マレーシア・ブルネイ


 ちょっとかっこいい州立博物館ですね。そこでわたくしにはこの絵が一番記憶に残っています。多民族の紹介ですね。
 街中でこんな掲示を見ました。北朝鮮の飢えた子供を救おうという表示ですね。
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