100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「ツアーコースにない所」チェルニフィツイのユダヤ人

2024年06月24日 07時56分07秒 | ツアーコースにないところ

チェルニフィツイはルーマニア、モルドヴァに近い国境の街です。歴史的には沢山の国がこの地を支配しました。(モルダヴィア公国→オスマン帝国→ポーランド共和国→ハプスブルク帝国→ルーマニア王国→ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国→1991年ウクライナ)
 したがって2001年の統計では65の民族の都市です。1930年の統計ではユダヤ人が最大で29%、ルーマニア人23%、ドイツ人21%、ウクライナ人19%の人口構成でしたが、現在(2012年)はウクライナ人80%、ロシア人11%になっており、Lonely planetの表現によればユダヤ人、ルーマニア人、ドイツ人の社会は今やghostly presence (幽霊のような存在?)になってしまいました。
 そのghostly presenceの一つがかつてのシナゴーグで1954年劇場になりました(冒頭の写真)。私には全然理解できませんがlonely planetによればアフリカ・中近東様式の建物だそうです。
 Lonely planetにも記載がありませんが、街でこのような建物を見ました。この地のユダヤ人の歴史・文化博物館と表示されています。中に入って見学をしたかったー!
 1908年に第1回イディッシュ世界会議が開かれていることからもこの地のユダヤ人の重要性は見てとれます。
 世界的に有名な詩人Paul Celan というドイツ系ユダヤ人の出生地です。私はこの人物を全然知りませんが、興味ある人がいらっしゃる、かもと言うことで紹介します。彼の記念館もあるようです。
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「ツアーコースにない所」リヴィウのユダヤ人

2024年06月21日 07時53分08秒 | ツアーコースにないところ

  リヴィウはポーランドに近いところに位置していていますが、現在ウクライナ民族意識の強い地域です。このリヴィウには第2次世界大戦以前には10万人のユダヤ人が住んでいました。大戦中にはドイツ、ポーランドからナチスに追われポーランド地域も含めてリヴィウ近郊のユダヤ人人口は60万になりました。そしてここに侵攻したナチスによって虐殺され生き残ったのは2名だけでした。(ウクライナ全体では90万人がナチスドイツに虐殺されました)現在のリヴィウのユダヤ人は約2000人です。
現在リヴィウには多くのユダヤ人に関係するところが残っていますが、訪れることができたのは市の中心部に残されていた14世紀(lonely  planetでは16世紀後半)に建設され1941年にナチスよって破壊されたGolden Rose Synagogueと呼ばれているシナゴーグ廃墟跡でした。繁華街の中心部にあり隣はレストランのオープンカフェで200坪ぐらいのフェンスで囲まれた廃墟でした。この地域のユダヤ人によるシナゴーグのレプリカ再建計画はあるとはLonely planet の記述です。ここでもその存在を知らない人が多くて同じ路を何度も行ったり来たりして尋ね歩き、歴史の移ろいを感じました。
 フェンスにはその歴史と往年の写真が置かれていました。
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「ツアーコースにない所」キエフのユダヤ人2

2024年06月18日 08時01分52秒 | ツアーコースにないところ

 冒頭の写真は玄関から入ったところです。ホロコーストで多くの人が殺害されましたがキエフでは現在6万人のユダヤ人が生活しています(2012年現在)。
 2階からの写真です。1階の大広間(?)は暗いので私のカメラでは撮影できませんでした。
  席にはこのようにキルル文字(ロシア語?ウクライナ語?)とヘブライ文字での聖書が置かれていました。各冊ともかなり読み込まれているようで汚れて?いました。
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「ツアーコースにない所」キエフのユダヤ人1

2024年06月15日 07時55分01秒 | ツアーコースにないところ
 
 ウクライナのゼレンスキー大統領はユダヤ系であることをご存じの方は多いいと思います。
 ウクライナは古くから多くの民族が通過し、定住した地域です。その中でもユダヤ人は政治・経済・文化的にも世界史に多くの影響を与えてきました。しかし現在はポグロム、ホロコーストなどと呼ばれている虐殺などでその多くはアメリカ合州国、イスラエルなどに移住してその数は非常に少なくなっています。
たとえばオデッサでは20世紀初頭、市の人口の3分の1を数えるまでになっていました。ところがポグロム(1905年)、ホロコースト(1941年―ナチ)により10万人のユダヤ人はアメリカ合州国ニューヨークなどに移住しました。現在ニューヨークには“Little Odessa”(小オデッサ)と呼ばれている街があります。
そこでこの地のユダヤ人の痕跡を訪ねてみようと思いましたが、このツアーのコースには入っていませんし、日本で最も読まれているガイドブック「地球の歩き方」にはユダヤ人についての記述は全くありません。したがって?日本人観光者には興味がない人が多いようです。Lonely planet“Ukraine “ にシナゴーグ(ユダヤ教の教会)などがキエフ、リヴィウ、チェルノフッイにあると記述されていました。
そこであらかじめ添乗員の堤さんにlonely planet にある地図のコピーを渡して見学可能性を確かめてもらいました。そして幸いにも3か所とも見学できました。
キエフではホテルの近くにシナゴーグがあり見学できました。冒頭写真のように立派なシナゴーグでした。しかし、方向音痴のわたくしはこのシナゴーグにたどり着くまでは一苦労でした。「シナゴーグ。」と言って訪ね歩きましたが多くの人が首を振るだけでした。
最後に出会ったのが写真の人でした。道路の掃除をしていた彼は掃除道具をその場に放置したまま足早にシナゴーグまで連れて行ってくれました。ユダヤ人ですかと尋ねるとそうだと答えてくれました。
 写真はこのシナゴーグの標識です。キエフユダヤ人共同体センターと書かれていますね


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「ツアーコースにない所」編 煙突掃除組合

2024年06月12日 07時53分49秒 | ツアーコースにないところ

2001年、 オーストリアのウイーンでの昼食時に現地のガイドにウイーンでは煙突掃除士がいるそうですねと以前読んだ本を思い出して尋ねてみました。するとこの近くにその組合事務所があるとの返事なのでラッキーと早速出かけてみました。写真はその「ウイーン煙突掃除業者組合」の看板です。 
 堀野収氏の「ウイーン素描」JTB出版によって少し紹介しておきます。(p12~26) 人口160万人のウイーンに250人の掃除士がいるそうです。3年制の養成学校があり資格認定の試験があって合格者がこのウイーン市認定の組合(ギルド)に入ることが出来ます。このギルドに入らなくては煙突掃除の仕事は出来ません。ギルドといえば世界史に出てくる過去のものと思いますが、現在も約60のギルドが当局から認定されています。 煙突掃除士は法律と条例で防火の責任と義務が負わされています。煙突については警察のような強力な調査権を持ち、煙突掃除士の来訪を受けた家庭は、どんな場合でも入室を拒否できません。
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「ツアーコースにない所」編 マラケシュのユダヤ人居住区4

2024年06月09日 07時53分25秒 | ツアーコースにないところ

 墓地に行くことにしました。道はすでに分かっていたのですが、シナゴーグでのポン引きガイドがくっついて離れません。今回は入口は開いていたのですが、入ると同時に制止されました。またも怪しまれたのです。今回も他の団体と一緒になだれ込みました。ビックリしました。広大な墓地でした。警備のような人からは付きまとわれるし、約束の時間は迫っているし、慌てて撮った写真なので分かり難いかと思いますがとにかく広大な墓地です。肉眼、カメラの視界を越えて広がっていました。1537年以来の墓地ですね。
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「ツアーコースにない所」編 マラケシュのユダヤ人居住区3

2024年06月06日 07時54分55秒 | ツアーコースにないところ

シャバトで悔しい思いをしたのですが、マラケシュでは3日の滞在で最終日にこのシナゴーグの近くの観光があったのでその観光をから抜け出してもう一度出かけることにしました。ところが添乗員がこれを許しません。「駄目だ」と強い調子です。押し問答の末時間を厳しく制限されようやく許可が出ました。パック旅行のつらいところ。急いで前回の同行者と出かけました。ところが前日の入口は入れたのですが、中の肝心のシナゴーグは開いていなく管理人のような人物が(前日とは違う)カギを開けてくれません。押し問答をしていると忽然と現れたポン引きガイド(注)が間に立ってとりなしてくれたのですが駄目です。そうこうしいるうちに団体の観光客が入ってきました。彼らには入口をあけて入れました。そのどさくさにまぎれて一緒になだれ込みました。入口の道路には警察がいました。どうやら我々二人は怪しまれたようです。前々回紹介したようにモロッコは他のイスラーム圏に比してユダヤ教徒には寛容ですが、2003年にカサブランカでは爆弾テロ事件があり33名死亡100名の負傷者が出ています。
冒頭写真はこのシナゴーグの内部です。 
(注)モロッコにはこのようなポン引きガイドが古くからいるようです。古くは1939年に旅した山田吉彦の「モロッコ」(岩波新書)にはこのようなポン引きガイドとの交情が書かれていますし、角田光代の「いつも旅のなか」(角川文庫)では以前紹介したトドラ渓谷(2008年11月17日)でのポン引きガイドが紹介されています。いずれも個性豊かなガイドです。
 本がたくさんありました。旧約聖書、トーラー、タルムードなどでしょうか。
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「ツアーコースにない所」マラケシュのユダヤ人居住区2

2024年06月03日 07時53分28秒 | ツアーコースにないところ

次に案内されたのはユダヤ人の墓地でした。しかしここもシャバトで中に入れません。写真はその入口です。ヘブライ文字が書かれています。数字の1537はキリスト教暦(所謂西暦)の年号で建立時を表わしていると思われます。もう一つの数字5227はユダヤ暦だと思います。
この1537年という年号で以下のようなことが読み取れます。8世紀に始まり1942年に完了するイベリア半島(スペイン・ポルトガル)からのキリスト教徒によるイスラーム教徒駆逐の運動レコンキスタによりイスラーム教国で共存していたユダヤ人もイベリア半島から追放されました。これにより15世紀にモロッコに移住してきたユダヤ人は6~8万人といわれています。ということでこのレコンキスタによりこの地に移住してきたユダヤ人の墓であろうと思われます。なおスペインからの移住者については2007年7月4日でも取り上げています。
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「ツアーコースにない所」 マラケシュのユダヤ人居住区1

2024年05月31日 08時04分26秒 | ツアーコースにないところ

モロッコのマラケシュで自由時間があったのでメラー(ユダヤ人居住区)に出かけました。同行の1人が付き合ってくれたのでタクシーで出かけました。タクシーを降りるとき運転手がポン引きガイドを紹介してくれました。lonely planet にはシナゴーグに行くには現地ガイドが必要と書いてあったので好都合でした。現地ガイドが私に”Japanese Jew?”(日系ユダヤ人か?)と尋ねました。多分メラーやシナゴーグを訪ねる日本人は珍しいのでしょう。
 さてシナゴーグに到着したのですが入口には閉まっていて入れません。ごたごたしていると人が出てきて今日は「シャバト」(土曜日でユダヤ教徒の安息日)で見学はできないとのことです。あなたはユダヤ人ですかと尋ねるとそうだとの返事です。そういえば「キッパ」を被っていました。(キッパについては2005年12月7日をご覧ください)あなたと入口の写真を、と頼みましたが、拒否でした。そこでそこを遠くから盗み撮りしたのがこの写真です。狭い路地の左側に少し見える人物が彼です。この写真でも分かるとおりここのメラーは高い塀で囲まれていました。
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「ツアーコースにない所」ビーラー・ホラ(白山)の戦い

2024年05月28日 08時00分24秒 | ツアーコースにないところ

2001年チェコを訪れた時、首都プラハの旧市街にフスの像がある広場でビーラー・ホラ(白山)の戦い(1620年11月)で破れ処刑された27人のプロテスタント貴族の碑銘を探しました。
 1人の自由時間での行動で現地ガイドも、添乗員もいなく(あとで聞くと添乗員も知りませんでした)よくわかりません。近くの高校生らしき集団に尋ねました。知りませんでした。あきらめて引き返そうとした時、引率の先生らしき人が慌てたようにやってきて、「ここです」と教えてくれたのが、冒頭の写真です。27個の十字架の石碑が写真のように埋められていました。
 ビーラー・ホラの戦いは1618年に勃発した30年戦争(1618~1648)の初期に起き、チェコ(当時ボヘミアと呼ばれた)が完全にオーストリアハプスブルグ家の直轄支配に組み込まれることになる事件です。チェコ人はスラブ系の民族で、オーストリア人はドイツ人です。
 ヨーロッパ全体を巻き込みドイツでは人口が30%減少したといわれる30年戦争はこのチェコのプラハから始まりました。1618年プラハの王城でチェコ人のプロテスタント貴族がカトリックの信仰を押し付ける皇帝の代官を窓から突き落とすことから始まりました。(この部屋を見たかったのですが私たちの観光コースに入っていないということで見学できませんでした) 
 前述のようにプロテスタント貴族は敗北しこの十字架石板のあるところで処刑されました。 集合場所がこの近くだったのでこの場に添乗員、同行の人たちを案内して私がコウシャクをタレルということになりました。こういうことをするから私は添乗員から嫌われます。
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「ツアーコースにない所」 ユダヤ人のお墓

2024年05月25日 07時54分24秒 | ツアーコースにないところ

ヨーロッパの小国アンドラ公国にあるこの国で一番古いサンタ・コロマ教会を訪れた時の話です。
教会内部の観光をして、 外に出てキョロキョロしていると、このようなもの(写真)に出会いました。現地ガイドも添乗員からも案内がないので尋ねました。現地ガイドの返事はナチに追われてここに落ち延びてきたユダヤ人女性のお墓という説明でした。詳しく聞きたかったのですが時間がなく残念でした。帰国して何かの本でこの地に落ち延びたユダヤ人の話を読んだような気がして私の貧弱な書棚を探しても見つかりません。図書館から借りた本からかと思い幾冊かの本を再度借り出してもよくわかりませんでした。ご承知の方がいれば教えてください。「地球の歩き方」にはこの教会の紹介はありません。Lonely planet にはこの教会の紹介はあるのですが、このお墓の話はありません。ネットをいろいろ検索してもこのお墓の話はありませんでした。
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「ツアーコースにない所」 サヴォナローラ追悼碑

2024年05月22日 07時53分23秒 | ツアーコースにないところ

1996年5月フィレンツェのシニョーリア広場で私はサヴォナローラが火刑された場所を探していました。なかなか見つかりません。
 団体旅行ですから時間制限があります。慌てて現地ガイドをつかまえてその場所を聞きました。その円形の石版は雑踏の観光客の足元にありました。
 ドメニコ派の修道士であったサヴォナローラは15世紀後半フィレンツェの享楽と堕落を非難し、その中心であったロレンツォ・ディ・メディチや時の教皇を罵倒しました。 そのため1498年この広場で彼は火刑に処せられました。この有様をボッティチェリ、マキャベリー、ミケランジェロが見ていました。
 フィレンツェへ旅行の機会があればイタリア・ルネサンスの別の一面に想いをめぐらし、観光客の足元で今では殆ど振り返られることもないこの石版をご覧になることをお勧めします。 
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「ツアーコースにない所」キューバでのシナゴーグ

2024年05月19日 07時53分43秒 | ツアーコースにないところ

 ガイドブックlonely  planet(p79)を見てみるとシナゴーグがハバナにあるということなのでツアーコンダクター(添乗員)の東山さんに頼んで現地会社と交渉してもらい、行くことになりました。Lonely planet によればキューバには約1500人のユダヤ人がいてシナゴーグは3つあり、ハバナのシナゴーグが一番大きく図書館などもあるという記載もされていました。そしてフレンドリーなスタッフがキューバでのユダヤ人の興味ある歴史を説明してくれると書かれおり非常に楽しみにしていました。ところが直前になってなぜか訪問が中止になりました。
 旅行4日目サンティアゴ・デ・クーパでこの地にもシナゴーグがあるということで訪問しました。冒頭写真は入り口のプレートで非常に見難いですが5689-5760という数字は聖書の神の天地創造の日(西暦紀元前3761年)を1年とするユダヤ暦の年号です。
 内部の祭壇です。残念ながらこの日は土曜日でユダヤ人にとっては安息日(シャバト)にあたり一切の労働は禁止されています。したがってこの地のユダ人の歴史などの説明を期待していましたが駄目でした。教会のカギを開けてくれたのもユダヤ人ではない近所の人でした。
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「ツアーコースにない所」モラエスの生家

2024年05月16日 07時53分06秒 | ツアーコースにないところ

 ツアー客もめったに訪れないというポルトガルのリスボンにあるモラエスの生家を自由時間に訪れました。 モラエス(1854~1929)はポルトガルの海軍士官、外交官で小泉八雲と共に日本文化をヨーロッパに紹介した人として知られています。1898年神戸総領事になり日本人と結婚しそのまま日本にとどまり徳島で亡くなります。彼の総領事中にポルトガル植民地東チモールの反乱鎮圧に日本から鉄砲を調達したことがありました。歴史の皮肉ですね。100年前にポルトガルから鉄砲を学んだ日本がその鉄砲をポルトガルに輸出するとは。
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「ツアーコースにない所」プラハのシナゴーグ

2024年05月13日 07時53分55秒 | ツアーコースにないところ

 2004年、ウズベキスタンのブハラにユダヤ教の教会シナゴーグあるというガイドブック・ロンリープラネットの指摘で自由時間を利用して出かけて見ました。ユダヤ人は12,3世紀からブハラに住むようになりヘブライ語を話さないディアスポラ(離散民)ということです。根深い制度的な差別を受けながらブハラでは商業面で重要な役割を果たしてきました。ソビエト連邦崩壊後、イスラエル、アメリカ合州国に移住する人たちが急速に増えブハラの人口の7%を占めていたものが現在2%以下になっています。そして100年前までは七つあったシナゴーグは1920年以降一つになりました。(以上ロンリープラネットCentral Asia p60,314による)
 人口数の実際は2%(5000人)よりももっと減少して600人になっているとはこのシナゴーグでの話です。2007年NHKで「新シルクロード」が放映されました。それによれば150人まで減少してとのことです。現在は0? 又、この放送ではアメリカ[百山1]合州国元国務長官オルブライトがここを訪れたと紹介されていました。彼女はカトリック教徒でユダヤ系アメリカ人です。
 訪れてまず最初にびっくりしたことは受付の女性がイスラーム教徒だったことです。ついでに余談話ですが、キリストのお墓のあるとされている聖墳墓教会の出入り口の管理はキリスト教徒の各宗派の争いにならないようにイスラーム教徒の人にゆだねられています
ここは学校でもありました。現在ラビの資格を持つ人がいなくなり代理の人が旧約聖書を教えていました。生徒数は10数人でした。現在生徒の総数は160人だそうです。写真はナゴーグで勉強している生徒さんたちです。ユダヤ帽子(キッパ)をかぶって勉強の邪魔をしているジジイは私です。
ここを出たところでもう一つシナゴーグがあるので案内するという人(イスラーム教徒)が現れました。そこで時間を気にしながらいくことにしました。
 そこにもう一人「この地域のユダヤ人に関する文献に興味がないか」という人物が現れました。時間もなかったので一応断りましたが、あとで考えると少し残念。こちらのシナゴーグのほうが立派でした。イスラエル国旗が飾られていました。したがってロンリープラネットの現在一つというのは間違いのようです。
イランからやってきた(迫害?)という高齢の女性がいました。帰り道同じシナゴーグを訪ねるというイスラエル人に出会いました。 冒頭写真は最初のシナゴーグの祭壇です。


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