ネパールのチトワン国立公園の中のガリアルというワニの保護施設で写真のような掲示板を見ました。“ATAGAWA ALLIGATOR GARDEN JAPAN “ とあります。調べてみると静岡県東伊豆町の熱川バナナワニ園でした。そこでこの園にネパールのワニの保護施設との関係について問い合わせ中です。返事をいただき次第このブログに紹介の予定です。ご期待ください。
なお、チトワン国立公園については後日紹介の予定です。
日本画壇の最高峰に位置する画家である平山郁夫さんについてはあまりにも高名で紹介する必要はありませんが、日中友好協会会長でもありシルクロードを長年に旅されておりウルムチの新疆博物館で写真のような横断幕を見ることができました。
なお、9年前に敦煌を訪れた時にも氏の名前が刻まれていた掲示板を見かけたことを思い出しました。
アンコールワットはあまりにも有名な世界文化遺産ですが、その参道脇にあった掲示板がこの写真なのです。そうなんです、この遺跡の保存、修復に重要な役割を果たした人物が現上智大学学長石澤良昭さんです。ごく最近NHK教育テレビでポル・ポト政権以前から現在に至る44年間の石澤さんとこの遺跡の保存、修復についての番組が放映されました。(1時間30分?)その中で感動的だったのは「現地の人たちの美意識によって保存、修復」という言葉でした。
以下、「アンコールと生きる」という写真展に後援者としての石澤さんの言葉がインターネット上に公開されているのでつまみ食い的に紹介しておきます。全文は「後援者の声:石澤良昭上智大学学長」をご覧ください。
「アンコール・ワットをはじめ、これらの文化遺産はカンボジア民族の誇りと伝統の象徴である。その保存修復と維持は、そこに住む人たちの手でなされることが必要である。この民族の固有な文化遺産を世界に向かって説明できるのは、誰よりも現地に暮らすカンボジアの人々である。しかしながらカンボジアではポル・ポト政権の時代(1975-79)に遺跡の保存修復の専門家36名がほとんど不慮の死に追いやられた。 私たちがこれまでの経験から得た結論は、「カンボジア人による、カンボジア人のための、カンボジアの遺跡保存修復」が必要であるということである。」
なお、ポル・ポト時代については、2005年12月21日、23日にすこし触れているので参照ください。
中国バインブルグのコンビニで見かけました。ちょっと見難いですが「さつまいも」と書いてあります。サツマイモの蜜付け?です。ご覧のように中国製のようです。鹿児島では「カライモ 唐芋」なんですが、中国語ではなんと呼ばれているのですかね。なぜ「さつまいも」なんですかね。
「ポーランドライフ」「MY 車暦」「鉄道で国内旅行」さん紹介いただきありがとうございました。
アイルランドのダブリンで見かけたものですが、いったいこれは何のビラですかね。良く判りません。
Tsunamiはかなり昔からの用語のようです。19世紀末ハワイの海底火山が爆発し津波が起きた時の新聞報道をNHKの教育TVで見たことがあります。そのときに映し出された新聞記事にtsunami とありヘエーと思ったことを思い出しました。
外国語になった日本語はたくさんあります。前々回紹介したrickshawもそうですが、最近インドネシアの地震で有名になった津波→Tsunami もその1つです。これは国際的学術用語だそうです。
写真はスロベニアのリュブリアナの市場で見かけたものです。kaki→カキ→柿ですね。そこで調べてみると柿の学名はDiospyros kakiなんですね。
著名な免疫学者で多彩な余技(本格的)をお持ちの多田富雄氏はその著「イタリアの旅から」(p274)で「シチリアにも柿もある。『カーキ』と呼ばれる柿の木は、19世紀の末に日本から持ち込まれたものである。明治政府が憲法を草案する際にイタリアから招いた法学者パテルノストロが、帰国の際に持ち帰った柿の苗が、いま各所に生い茂っている」と書かれています。イタリアでは「カーキ」というわけです。
フィンランドのヘルシンキの市場でsatsuma とあるので見ると「温州みかん」でした。satsuma→さつま→薩摩ですね。これは簡単な英和辞典にもありますが、フィンランドでもそうなんですね。
この写真は1980年代当時のままの様子を残した売店です。この「連帯」のプレートの近くにありました。写真が下手でよくわかりませんが、この売店には殆ど商品はなく、在るのはなぜか「酢」の入ったビンだけです。当時の物資の欠乏を象徴するものとして残されていました。
この写真のプレートは2004年にポーランドのグダニスクで見たものです。このプレートの送り主を「JRU」の文字をヒントに探したところ現JR総連副委員長・国際委員長の四茂野修氏に出会うことができました。そこで以下のような文章を寄稿していただきました。心から氏に感謝申し上げます。
なお、この文章の最後のある「久米美術館」は四茂野氏の追伸にもあったのですが、前回のこのブログで紹介した久米邦武、その息子の画家桂一郎の業績の記念館で、館長はその孫ということです。
「あの場所にはいくつもの思い出があります。1980年夏、当時はレーニン造船所と言っていた造船所でストライキが起き、たちまちグダニスク中の工場にそれが波及し、ついに独立自主管理労組「連帯」の誕生に至りました。81年のはじめに私は動労という国鉄の組合の代表団の一人として造船所を訪れました。そのとき、私たちを案内してくれたのはアンナ・ヴァレンチノビッチという女性です。彼女の解雇が前年8月のストライキのきっかけでした。 その年の暮、ポーランドには戒厳令が布告され、「連帯」労組の主要な指導者たちは逮捕されました。南部の炭鉱地帯では抵抗する労働者に軍隊が発砲し多くの死者が出ました。動労は全国で列車の汽笛を鳴らして弾圧に抗議しました。 それから8年後、不屈の抵抗はついに民主選挙を実現し、「連帯」派が圧勝します。それは東欧各国に波及し、ついにソ連の崩壊に至りました。1990年、国鉄の民営化で生まれたJR総連に所属していた私は再びポーランドを訪れ、「連帯」の仲間との交流を再開しました。そんななか、グディニアでは1970年に起きた12月事件の犠牲者のための慰霊碑建設への協力を、カトビツェでは戒厳令の際に9人の犠牲者を出したブエク炭鉱労働者の慰霊碑建設への協力を求められ、それぞれ立派な慰霊碑が完成しました。また、「連帯」の結成を描いた映画『鉄の男』をつくったワイダ監督と知り合い、クラクフに日本美術・技術センターを建設する計画にも協力しました。 1995年にJR総連はこれらの地とアウシュビッツを訪れて20世紀の歴史を学ぶツアーを募集し、2000人の組合員が自費で参加しました。その際、「連帯」の仲間たちと協力してグダニスクの造船所前に設置したのがあの銘板です。錨と十字架をかたどった巨大な慰霊碑の立つあの広場は、これまで何度となく訪れた忘れられない場所です。 なお、ワイダ監督からセンター建設などへの協力へのお礼にJR総連に贈られた映画・演劇の絵コンテを展示する展覧会が3月31日から5月13日まで東京・目黒の久米美術館で開かれます。」
coloさんコメントありがとうございました。幕末の人たちは私が考える以上に開明的だったのですね。
写真は何の変哲も無いポツダムにある風車です。日本にも直接には関係ありません。しかし私はドイツ旅行を決めたとき、もしこの風車がまだ存在していればぜひ見たいものだと期待しました。勿論観光コースに入っていませんので、現地のガイドに尋ねると現在も存在しているとして場所を教えてくれました。見たかった理由は今から約140年前に岩倉使節団(注1)の一員としてここを訪れた久米邦武(注2)が書いた「米欧回覧実記」という本の以下のような一節です。
(注1) 岩倉使節団は、明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合州国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団です。岩倉具視を正使とし、政府のトップ(実力者の半数)や留学生を含む総勢107名で構成されました。そのときの報告書が久米邦武による「米欧回覧実記」です。原文は和漢混交文で岩波文庫5分冊に収められています。ごく最近現代語訳(慶応義塾大学出版会)が出たので以下の引用文はそれによります。私の偏見?ですが欧米に出かける現代日本人の必読の書です。
(注2) 久米邦武(1893~1931)佐賀藩出身。1881年東京帝国大学史学科初代教授。論文「神道は祭天の古俗」で1892年辞職。
「宮殿の西に1つの風車がある。フリードリッヒ・ウイルヘルム(大王)が宮殿の修築を行った際、このあたりの土地を買い増したところ、そこに風車があって庭園の風景の邪魔になるので、風車の持ち主に命じて取り壊させようとした。ところが風車の持ち主がこれを聞き、ベルリンには法律家は1人もいないのかと言って、返事をせず、取り壊そうとしなかった。このことがついに政府の問題となったが、国王の権限でも、個人財産を除去することはできないという結論が出て、とうとうそのまま取り除けずに済んだ。このことは今も美談として伝えられ、風車はその子孫に相続され今なお、屹立しているのである。」(3巻p402 岩波文庫3巻p356)
フリードリッヒ大王は専制君主ですがその「専制」前に啓蒙的と付くのでなるほど納得しました。しかし人権は当然尊ばれるとされる現代日本(現実は?)と違った明治初期の日本人がこのエピソードを書き残していることに私は一種の感動を覚えました。幕末→維新期→明治初期にかけての私の歴史認識に一定の修正を迫る一節でした。ドイツを旅行する機会があれば現地ガイドにでも聞いてぜひこの風車を見てきてください。パックツアーでは行きません。
ついでにこの本の中からちょっと面白い話を1つだけ紹介しておきます。(同じドイツでの話) 「淫蕩な風儀が年々盛んになっていることは、政治家たちもおおいに心配しており、その抑制のためのよい方法を世界各国を訪問しながら検討をしたことがあり、わが国が寛永年間に江戸の吉原を設けて規制の実を挙げたことを称賛し、それを真似して適宣な公娼設置法を作ろうという議論を行ったことがあるという。****写真屋に行ったところ、店の者が酔って秘戯の写真を公然と売りつけようとしたことがある。ヨーロッパ諸都市で春画を公然と売るのに出会ったのは、この街(ベルリン)だけであった。」(3巻p342 岩波文庫3巻p305)
まだまだ面白い話がたくさんあります。この本は世界的にも著名になり英訳本もできました。
「このミュンヘンの博物館には日本に関係するものもありました。何だと思いますか。面白いものですよ。それは後日『世界で見た日本編』で紹介します。お楽しみに」と2006年1月18日に予告したものを今回紹介します。世界最大規模の自然科学、産業技術などの大博物館です。ここは観光コースには入っていませんが、写真も自由に撮れこの方面に興味のある人には必見のところです。
時間も経過し安いプリントで見にくい写真ですが拡大してみてください。そうなんです、人力車です。人力車は日本人が発明(明治2年「1869年」)したもので東南アジア、インドなどで現在も活躍しており、英語にもなっています。Rickshaw 簡単な英和辞書にも載っています。
人力車と並んで日本的なものとされている乗り物が「駕籠」です。歴史学者田中彰氏はその著「岩倉使節団『米欧回覧実記』」(p179)で「回覧実記」がコペンハーゲンの国立博物館で「日本ノ物件モ頗ル備リ、大ナルハ駕籠に至ルマデ陳列せり」(岩波文庫四p147)と書き記しているとし、氏は「この駕籠はいまもある」と述べています。(米欧回覧実記については次回紹介の予定)
駕籠は日本「特有のもの」ではないそうで(以下は板倉聖宣「日本史再発見」がネタ本)1623年ロンドンで発明されました。西洋の場合「椅子駕籠」なのでラテン語の「腰掛ける」と意味のセダンと呼ばれそれが現在の自動車のセダン型の名前になったそうです。
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