100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「伊藤氏寄稿文」 中国結婚式1

2008年05月11日 08時15分18秒 | 伊藤氏寄稿文

 中国は陝西省のとある田舎の結婚式に遭遇した。田舎の結婚式は大体お昼前ぐらいに始まってみんなで集まって一緒にご飯食べてその席で新郎と新婦が披露されてご飯が終わるとお開きになる。 みんなだらだらと帰っていく。 なかには酒がまわって残って飲み明かすグループもいる。花嫁が用意した嫁入り道具はレストランの前に陳列されていた。田舎だからけっこう素朴、、。

 また田舎には聴房という風習もあるらしい。これは結婚式の最初の夜に2人が寝室に入ったときに新郎の友人とかがその寝室の外に潜んで中の物音を聞くというもの。 平たく言えば夫婦の営みの最中に漏れ出るもの音を聞くと いうものです。張芸某監督の作品にもこの光景を描いたものがあったな。 ガイドの職さんが言うには西安ではもうこんなことをしてないけど陝北地域ではまだこの習慣があるそうです。昔はこれが未婚の若者への性教育?だったそうです。


「伊藤氏寄稿文」編 ブータン最新情報3

2008年02月24日 08時45分05秒 | 伊藤氏寄稿文

 アメリカの大統領選挙が話題になっている。こんどの大統領は99%民主党の候補だろうと思って見ている。民主党となるとヒラリーさんかオバマさんだろうな。 どっちがなっても歴史的な大統領。 初の女性大統領か初の黒人大統領。 個人的にはオバマさんを応援しています。 初の女性大統領も面白そうだけどでもヒラリーはオバサンをとっくに通り越してお婆さんに近くなっているから。それにクリントン夫妻は好きでないからね。 やはりリーダーは40代から50代の若いリーダーのほうがいいと思う。 

  前置きが長くなったけどたまたま12月31日に居合わせることになったブータンの選挙です。 ブータンでは4代目のイケメン前国王が君主制から立憲君主制に体制を変換することに決定。 しかし06年、07年は黒い年で縁起が悪いから選挙は先送りされていて07年の年の瀬に一回目。 そして今月1月に二回目、その後に確かもう一回の計3回の選挙で上院と下院の候補者を決めるって聞いたな。 全部で40人ぐらい国会議員が選ばれるんだけどそのうちの5人はオオサマが任命する。 国の歴史始まって以来の選挙だからかなり気合が入っていて07年に2回予行演習をやって31日にホンバン。大きな混乱も不正もなく無事に終了。インドと国連らか派遣された選挙監視委員会もTVでフェアーな選挙だったと言っていた。 選挙前日の30日18:00から選挙翌日の朝06:00まで許可を受けた外人用ホテルと食堂以外は閉店してお休みにしないといけない。 違反すると罰金。 31日はインドとの国境は封鎖される。

 選挙は以外にもほとんどの投票所で電子投票が行われた。 ちなみに投票所はお寺かその村長さんの自宅のお庭。 投票率は55%ぐらい。 以外に低いのは本籍地でないと投票できないから。 ちなみに世話になったガイドさんは実家が東ブータンで首都ティンプーからバス2日、そのあと更に歩いて1日かかる。

 投票は正装で!! 男性は民族衣装の ゴ 着用。 女性は民族衣装の キラ 着用。 投票所にケータイ持込禁止。 ケータイは不謹慎らしい。 ← 確かにケータイの出会い系が大流行で離婚の増えているからね、、、。 投票前に酒を飲んではいけない。 候補者は、大卒でないといけない。 女性の国会議員数にはノルマがあった。 サイテーでも5分の一ぐらいは女性の国会議員をと。 なるべく若者を選ぼう。 国会議員は60歳定年。 ← どっかの国も絶対そうしてほしい。

 投票は友達、知り合い、家族、親戚でなくて本当に国のため自分達のためになる人に投票しましょう。 ← ごもっとも!! さすが電子投票だけあって翌日には当選者が新聞に出ていました。

(管理人から)

 1 写真は選挙ポスター掲示板です。国語である「ゾンカ」と英語が併記してあることにご注目ください。

 2 2007年12月15日の朝日新聞の記事を紹介しておきます。 「泣きながら王政の存続を直訴する各地の国民に『悪い王の時にも国が存続できる仕組みが必要だ』と懸命に説得する前国王の姿が人々の心に焼き付いているという。」

 3 fengさんコメントありがとうございました。ブータンの民族構成はチベット系が3分の1、ネパール系が3分の1です。宗教はご指摘の通り国教がチベット仏教です。ヒンヅー教徒もいるそうです。


「伊藤氏寄稿文」編 ブータン最新情報1

2008年02月22日 08時45分54秒 | 伊藤氏寄稿文

 高校の社会科の授業ではGNP(国民総生産)と言う言葉を習った。 GNP:gross national production 最近はGNPは使われずGDPが経済指標に使われる。 このGDP:gross domestic production の方がもっと適切らしい。 GNH:gross national happiness これは国民総幸福量と訳すらしい。

 これは南アジアの小国ブータンがそして国連が提唱するあたらしい指標。 これをみると日本を始め東アジアの国々中国とか韓国はのきなみものすごく低い。ストレス溜まるしね。それに東アジアの人は楽観主義よりちょっと悲観主義を好むようだしそのほうがインテリに見えるからね。

 東アジアでも日本はダントツで悲観主義だと思う。まっ、毎日の新聞とニュース、週刊誌を読んでいればその気持ちもわからないでもないけど、、。

 ブータンは今年から君主制から立憲君主制に移行する予定。 06年にもう60過ぎている当時のオオサマの4世が退位していまのオオサマの5世に王位を譲った。前代の4世はなかなかの開明君主でいろいろな改革をオオサマ主導で行ってきた。08年からの民主化も4世がレールをひいてきた。 でも近隣国のネパールの状況を見れば民主化は早いほうがいいというのもうなずけるけどね。 そのオオサマが提唱しているのが国民総幸福量のGNH。 あまり国際的な地位の向上とか経済発展とかにこだわらずに国民の幸福感の向上に努めましょうと、、。

 ブータンは人口がなんとたったの92万人(東京と人口の10分の1以下)で首都のティンプーも伊豆あたりの小さな温泉町といった感じで国全体が自分が生まれる前のテレビかなんかで観た日本の昔の田舎って感じ。 とてもよかったです。 こんどはプライベートで行きたいと思っています。 みんな幸福なんだろうなーと思っていた矢先に気づいたこと。 ケータイがものすごく普及していてみんなノキアのけっこういいケータイ使っています。もちろんケータイでネットもできる。 ケータイが普及してから離婚も普及したらしい。 なぜならケータイの人気サイトは出会い系だから。 ガイドで友達のツェリンさんも離婚の危機、、、彼の場合は仕事が忙しすぎるのとちょっとした浮気がばれたから、、、、。

 インターネットやケータイが普及する前は半鎖国状態だったブータンにも国際化の波が押し寄せ、大人は外国文化の流入によってブータンの良さが失われると危惧している。 子供(ティーン)はインターネットで外国の情報がたくさん入ってきて自分達のアメリカのキッズみたいになりたいと思っている。 ティンプーで行ったクラブでタイガーネスト(虎の巣 or 虎の穴??)ではhiphop や R&B系の音楽ががんがんにかかり民族衣装のゴやキラを着ている人は誰もいなかった。

  ブータンでは去年まで民族衣装のゴやキラを着るのが提唱され、公務員は民族衣装が義務だった。 08年から全国民が民族衣装の着用を義務付けられるらしい、、、。 ホテルのレセプションのオニーさんとオネーさんは一緒にクラブに行ってビール飲んだときにブータンは退屈だと文句をいっていた。 天国やパラダイスは死なないと行けないものなんだね。多分。

 (管理人から) 写真は首都ティンプーから東のブナカへ向かう途中の風景です。撮影は勿論伊藤さん。


「伊藤氏寄稿文」編6 ビストローロシア

2007年09月10日 08時50分20秒 | 伊藤氏寄稿文

 ビストロというとパリとかの食堂を連想していたんだけど今回訪れたサンクトペテルブルグで面白い話をガイドのアレクサンドルさんから聞いた。

 彼は50代のいかにもロシア人って感じの大男で大学でも非常勤の講師をやっている人でとても知的な人だった。

 アレクサンドルさんいわく、ナポレオンのロシア遠征を挫いたのがアレクサンドル1世、ロシアではこの戦争を祖国戦争と呼んでいる。 ナポレオンがロシアから撤退したあとロシア、英国、ハプスブルグオーストリアを中心とする反ナポレオンの包囲網ができてナポレオンは退位してエルバ島に流される。 このあとしばらくロシアを含む連合軍がパリに進駐したことがあったんだけどそのときにできたフランス語の新しい言葉がビストロなんだって。

 ロシア語で「速く!」または「急いで!」はビストロ!っていうんだって。パリに進駐したロシア軍の将校はパリのちっちゃい食堂に入ると腹が減っているし忙しいしでロシア語で「ビストロ、ビストロ」叫んでいたらしい。 ロシア人がいなくなったあともこの“ビストロ”という言葉だけはパリに居座っていて、主にパリのちっちゃい食堂(日本の定食やみないなところ)の代名詞になったんだって。 

 写真はサンクトペテルブルクのネフスキー通りの夜景です。


「伊藤氏寄稿文」編5 エチオピアコーヒー2

2007年08月11日 09時08分24秒 | 伊藤氏寄稿文

 伊藤さんからはたくさんの写真をいただいていますがその一枚を紹介します。正装した?エチオピア人です。 

 なお余談ですが、エチオピア人の多くはこの地域では珍しくキリスト教徒ですAD451年のカルケドン宗教会議でアルメニアと同じく異端(以前このブログでも紹介)とされたコプト派です。1992年~1996年国連事務総長のガリはコプト派キリスト教徒でした。また意外に知られていませんがユダヤ教徒もかなり存在しています。そこでイスラエルにイスラエル国民として移住する人もかなりいます。というわけでイスラエルには肌の黒いユダヤ人がいるというわけです。


「伊藤氏寄稿文」編4 エチオピアコーヒー1

2007年08月11日 08時49分41秒 | 伊藤氏寄稿文

 ユーラシア旅行社の現役添乗員である伊藤さんは繁忙期でとんぼ返りの忙しい中以下のようなレポートを送っていただきました。写真はコーヒーでくつろぐエチオピアの人たちです。

 この間エチオピアに行ったときにガイドのエンダルクから聞いた話をふと思い出したのでここにメモしておこうと思う。

 エチオピアは、いわずと知れたコーヒーの原産地で数品目しかない輸出品目のうち一番重要なものがコーヒー。 コーヒーは、ほんと旨かったね。 アディスアベバの有名なコーヒー屋さんにはアメリカンロースト、フレンチロースト、バーロースト、なぜかノルウェイアンローストってのもあった。そのうち一番の売れ筋はアメリカンローストらしい。 現在アメリカ発のコーヒーチェーンで一番知名度があるのはス○ーバッ○スコーヒーだと思う。このス○バがエチオピアでオーガニックコーヒー農園を経営している。 もともとおいしいコーヒーを最新式の管理方式で栽培するためすごくいいコーヒーができていて出荷額はうなぎのぼり。 ここまで書くといいことずくめなんだけどね、、。 しかしエチオピア人はス○バの成功にはあんまりハッピーじゃないみたい、、かなりビミョーな心境らしい。 なぜかというとアメリカを始めとする国々でエチオピアのコーヒーがけっこういい値段で売られているのにエチオピア人のコーヒー農園の農夫がえる賃金はひくいまんま、、、。成功の果実はみんなス○ バの本部が持っていってしまってエチオピアにはまったく残らないと。 でもいくらいいコーヒーでもちゃんとマーケティングして、おしゃれに包装して、スムーズな輸送チャンネルに乗っけて、プロモーションして、はじめてビジネスになるわけだしこれがアメリカ人のいう知的財産でエチオピアコーヒーの成功がこの知的財産に負っている部分は大きいのだというのがス○バの主張。最後にはエチオピア政府とス○バが話し合ってオーガニックコーヒーの農園で働く農夫の賃金を引き上げることで合意したと。

 そういえばなんかの雑誌か新聞に載っていたけどコーヒーは貧しい人々が栽培し豊かな国々の人々が消費する農産物の典型的な例とか。


「伊藤氏寄稿文」編3 ヨルダン・コーヒー・結婚

2007年06月30日 08時44分02秒 | 伊藤氏寄稿文

中近東ではすっかりチャイに取って代わられたコーヒーですが、 ヨルダンではコーヒーではならないシチュエーションがあります。 以下はヨルダンのガイドJさんの物語です。

  2001年9月11日以降の01年、ヨルダンでは海外からの観光客がほとんどなくなってしまいフリーランスで仕事をしているプロのガイドの多くが仕事がなく厳しい日々をすごしていたそうです。 そんなとき風邪をひき泣きっ面に蜂の状態で会社の近くの薬局に行ったJさんは薬局の彼女に一目惚れしてしまった。 毎日毎日風邪薬を少量だけ買いに通った2週間後とうとう彼女がJさんに“もう治ったはずよ。そんなに毎日毎日薬を飲むのは身体によくないのよ。”とやさしく諭してくれたそうです。 そのときにJさんは自分の思いを伝えて次の週にデートすることを約束して付き合いが始まり1年後に結婚を考えるように、、。 

 まだまだ結婚に両親の関与が多く見られるイスラム圏での恋愛結婚は珍しいようです。  ご両親への挨拶は、先ず男性側が女性側にします。しかし本人が直接出向くのではなく、Jは一族で一番権威のある叔父に代理を頼みました。叔父さんは数人の代表団を結成して彼女の家に、、、。もちろん彼女側の家族もこの訪問がどんなものかは分かっています。 代表団が彼女の家について応接間に迎えられると着席。そこに必ず出されるのがアラブ式コーヒーなのだと。 コーヒーが出されると叔父さんは厚く礼を述べ、しかし厳かな口調で、来訪の意図を話し、自分たちの望みが受け入れてもらえないままではこのコーヒーを飲むわけにはいかないと伝えます。彼女のご両親も押し黙ってしばらく熟考したあと厳かに、代表団の望みを了承したことを伝えると、叔父さんは破顔して満面の笑みとともにおいしそうにとっくに冷てしまったアラブコーヒーを飲み干したあとすぐに新しいコーヒーがいれられたそうです。 現在2人には2人のかわいい子供がいてお父さんのJさんは転んでくじいた足を引きずりながらもがんばって仕事をしていました。

 (管理人)写真はヨルダンのアカバで伊藤さんが撮影したものでアラブコーヒーを入れているところ。2007年5月11日に紹介したようにここのコーヒーもトルココーヒー同じですが(こちらが元祖)トルココーヒーというと叱られるそうです。ヨルダントラディショナルコーヒーだそうです。


「伊藤氏寄稿文」編2 イエメンの初恋物語

2007年05月13日 08時43分19秒 | 伊藤氏寄稿文

 伊藤さんから興味深くほのぼのとした初恋物語の寄稿文が入りました。なお写真は話の中のムハンマドの結婚式のではなく今回イエメンのサナアというところで偶然出会った時の結婚式(男女別々)だそうです。

 

 イエメンでお世話になったガイドのムハンマドの話。

 彼は32歳で物静かなおんこうな青年で奥さんとの間に5人の子供がいる。イスラム圏にいくとお客さんはムスリムの結婚とかにすごく興味をもつので彼に結婚のいきさつを話してもらった。 彼の奥さんは、幼馴染。 幼少のころはよく一緒に遊んだ。とてもかわいい女の子でその思い出はずっとムハンマドの胸のなかで生きていたそうです。 イエメンでは小学校に上がるころには、兄弟以外の異性は一緒に遊んだりすることはなくなる。ムハンマドはいつしか彼女と一緒に遊ぶことはなくなったそうです。 小学校にあがると彼女はアバヤという身体をすっぽりとおおう服をきて顔にはスカーフをつけるようになりムハンマドは彼女の顔を直接見ることはなくなった。

 時が過ぎて彼が一人前になり独立して結婚を考えるようになるとすぐに思い浮かんだのが彼女だった。 しかしもう20年近く彼女の素顔を見ていない、、、大きくなって変わってしまっていたら、、、彼はちょっと不安になった。そこで彼は一計を案じる。 妹に頼んで彼女のいまの素顔がどんなか確かめてもらうことにした。

 妹は、彼女が通うハマム(共同浴場)にいきさりげなく彼女の姿をたしかめてムハンマドに話した。ムハンマドの心配は、結局杞憂で彼女はとても美しい大人の女性になっていた。 そこでムハンマドは、彼の母親にそろそろ妻を迎えてひとり立ちするときがきたこと、彼には意中の人がいることを伝えた。 そして母親は彼女の家に赴き、息子の現状(息子がどんなに立派に成長したか、また彼の現在の経済状況)を説明したあとムハンマドの意向を伝えた。 彼女の母親は、彼女にムハンマドの話をした。 彼女もムハンマドと一緒にすごした幼少の思い出を大事にしておりムハンマドと一緒になりたいと母親に伝えた。 ここまでのいきさつを両家の父親も追認した。 ムハンマドと彼女は晴れてみんなから祝福されて一緒になることができた。

(写真は) イエメンの結婚式の様子。結婚式は男女が席をあわせることがない。


「イエメンとサダム・フセインについての伊藤さんからの寄稿」

2007年04月25日 09時15分14秒 | 伊藤氏寄稿文

 も一つは、以前紹介した「ユーラシア旅行社」の添乗員で私が中米でお世話になった伊藤三智夫さんからの寄稿と写真です。新聞社の特派員も書かない(書けない)貴重なイエメンの話です。

 なお、文中の人名については私の判断でAさんと変更しました。今後とも堪能な語学力、豊富な知識、あくなき好奇心でこのような話を寄稿していただけることになっているのでご期待ください。

 なお、2005年11月11日のアイルランド原爆追悼碑について当局への照会していただき、その返事を2007年2月26日に記載しています。またエルサルバドルでのデモ隊のビラの翻訳、アメリカ合州国のヒスパニック化についてもコメントをいただいています。(2007年2月4日、2007年2月10日) 伊藤さんありがとうございました。今後ともよろしく。

 「昨年末、イラクで起こったサダムフセイン前イラク大統領に対して執行された突然の死刑には驚かされたけど、イエメンでのサダムフセインの人気にはもっと驚かされた。

 中近東ではどこの国でも自国の大統領であったり、首相であったり、国王であったりの写真を町で見かけることがあるけどイエメンではサダムの写真をいたるところで目にした。 イエメンはアメリカとは友好関係にあるので政府はサダムに対して冷淡だけど一般庶民のサダムに対する同情はとても大きかった。

 乗用車のウィンドウ、お店の壁などにサダムのニコニコした顔のポスターが貼ってありサダムのポスターやプロマイドみたいなものを売る店まである。  

 今回同行してもらったAさん(50歳、7人の子持ちで一番上の娘さんは今年結婚孫が最近生まれた。リベラルなミドルクラス。)に質問してみた。 イエメンの庶民はAさんもふくめサダムには深く同情している。サダムはアラブ人で最も偉大な英雄の一人だそう。なぜならアメリカに異をとなえて、しかも戦ったから。他のアラブの政治家がアメリカに文句ひとついえないなかサダムだけがアメリカにノーを突きつけた。またパレスチナの難民を支援している。

 イエメン人に言わせると、サダムが評判悪いのは欧米のプロパガンダ(悪宣伝)のせい。 イエメン人の多くは、2001年9月11日のNYのテロもアメリカとイスラエルの自作自演と信じている人が多い。新聞でそんな記事を目にしたことがあったけどまさか自分の耳で聞くとは思っていなかった。

  こんなこと書くとイエメンは理解しがたく怖いようだけど、イエメン人はとても親切でフレンドリーな人ばかりだった。イエメンから帰ってきても彼の国に対する印象はものすごくいい。Aさんとチャイを飲みながら話したことが非常に印象に残っているのでここで思い出してみました。 」