1996年にイタリア旅行をしたときローマで半日自由時間があったのでかねてから行きたいと思っていたアッピア街道を歩きました。そのとき人がたくさん集っているので野次馬の私は近寄ってみると「カタコンベ」(カタコーム)観光のグループでした。その時点での私の「カタコンベ」への知識は「キリスト教徒は、ローマ皇帝の迫害に対し、カタコンベ(地下墳墓)にかくれて信仰を守った」(三省堂世界史{B}2003年版p40)でした。
視界が広がり街道の脇に人が集まっていました。近づいて見るとカタコンベの入口でした。勉強不足のためここにカタコンベがあるとは予想していませんでした。そのとき昔学校で習ったカタコンベについて思い出していました。
当時の高等学校の世界史教科書では
「キリスト教徒は、ローマ皇帝の迫害に対し、カタコンベ(地下墳墓)にかくれて信仰を守った」(三省堂世界史{B}2003年版p40)、
「ローマ帝政時代に迫害されたキリスト教徒の地下の墓所兼礼拝所」(三省堂 詳解世界史p81 平成5年版)、
「このような地下墓所は、禁圧されたキリスト教徒の集会場」(山川出版社 詳説世界史p39 2003年版) と記述されています。
私が調べたかぎりでは一冊だけカタコンベに触れていない教科書を見つけました。「実教出版 高校世界史B 平成14年版」でした。そこでは迫害についても「ローマ帝政は宗教にがいして寛容でキリスト教は下層民や奴隷のあいだで信者を獲得し、上層民の信徒もしだいにふえていった」(P24)どうもこれが真実に一番近いようです。
ついでに当時の「広辞苑」5版を見れば「古代の地下墳墓。特に、ローマの初期キリスト教徒のものが有名で、迫害を避けてここに集まり祈ったという」と書かれていましたが、現在の7版では「古代の地下墳墓。特にローマの初期キリスト教徒のものが有名」迫害以下の箇所が削除されていますね。ひょっとして私のこのブログが?
ついでにもうひとつ。130年前の岩倉使節団の「米欧回覧実記」(岩波文庫四p309~310にも関連性が紹介されています。
いずれも「迫害」と「カタコンベ」との関連性が述べられています。この時点での私の理解もこの程度でした。しかし、このとき何かおかしいな、とも思いました。というのは、アッピア街道という日本では東海道に相当する交通量の多いいところ、気づかれ易いところにわざわざ隠れ場所を作るはずがないということです。目立たない人里はなれたところに作るはずだと。中に入って説明を受けたのですが英語だったので殆ど分かりませんでしたが、迫害の話はなかったような気がしました。写真下はカタコンベ内部での説明会。
中に入っての説明(英語なのでほとんどわかりませんでしたが)に迫害の話は無かったようでした。しかも考えてみると日本で言えば東海道という人の行き来が激しいところで「かくれて」というのもおかしいと思いました。
そこで帰国後調べてみると迫害とカタコンベには関係の無いことがわかりました。そのことをこのブログに書いたところ以下のようなコメントが入りました。
そのほうが納得できます (colo)(元高校世界史教諭)
「ウーン、そう言われればその通り、なぜ今まで教科書を鵜呑みにしていたのかと我ながら可笑しくなります。人間はだまされやすい・・・」
納得できません (bosch)
「キリスト教徒はローマのネロ帝による、ローマの大火の責任転嫁ややディオクレティアヌス帝によって大迫害を受けました。事実、ペテロ、パウロは殉死しています。カタコンベは本来墓地ではなく、迫害されたキリスト教徒が地下に作った信仰の場所です。303年以降キリスト教の大迫害はなく、その後何度もの会議が重ねられて少しずつ認められていきましたが、キリスト教成立初期の頃はローマの全ての皇帝が寛容だったわけではありません。」
そこで次回は「カタコンベ」と「迫害」とは無関係だということを紹介したいと思います。