100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「忘れられない」編 現地ガイド4 山崎さん1

2023年05月31日 07時52分35秒 | 忘れられない

 2010年3月17日~3月26日「祈りの聖地イスラエル周遊」に参加しました。
現地ガイドはスルー(全体を通じて)で日本人(国籍はイスラエル)の山崎さんでした。経歴が興味深く了解を得たので以下3回にわたって紹介します。
 28歳のとき(2010年65歳)日本の管理社会に嫌気がさし英語少々とヘブライ語(イスラエルの国語)皆無の状況でイスラエルに降り立ちました。すぐにキブツ(注1)に入り皿洗いから始め毎晩キブツの構成メンバーを回り一夜で三軒を訪ねヘブライ語などを教えてもらいました。3軒の家で出されるお茶で腹ががぶがぶになった思い出があるそうです。そのように懸命に働き、勉強して半年後にキブツの構成メンバーの90%以上の賛成で正式にキブツの構成員になることができました。(注2)その後ガイドの学校、神学校に通い正式にガイドのライセンスを取りました。(イスラエルのガイドのライセンスは難しいそうです)その間、イスラエルの国籍を取り(結婚した相手がユダヤ人であったため取得可能、結婚相手とその家族については次回紹介)1982年のイスラエル軍のレバノン侵攻にイスラエル軍の兵士として参加しました。その時の経験からアラブとユダヤの共存、共学を考えその運動を奥さんと共に現在もされています。
 彼のガイドとしての仕事も多岐にわたり我々のガイドの後はイスラエル人の日本観光の添乗員兼ガイドとして来日する予定だそうです。
(注1)
 20世紀初めに社会主義の影響を受けたユダヤ人がこの地に私有財産などを否定して一種の原始共産社会を目指した農業共同体をいいます。しかし現在は全くその性格は変質して資本主義的生産体になっています。多分山崎さんがキブツに入ったころから変質が始まっていたのだろうと思います。(この点は不正確)
(注2)
キブツで働いて半年後に構成員の75%以上の賛成で正式構成員として認められる



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「忘れられない」編 現地ガイド3 サムエルさん

2023年05月28日 07時53分57秒 | 忘れられない

  ウガンダ、ルワンダ、ブルンジの現地ガイド、サムエルさんを紹介します。彼はウガンダ人でカンパラ大学に在学中に日本の浜松医科大学の先生に出会い来日しました。スーパーの弁当の野菜切りなどをして4年間生活し帰国して旅行社を設立しました。したがって日本語はペラペラでした。来日以前の日本のイメージはトヨタやソニーなどの工場ばかりで畑や田んぼの緑があるとは思ってもみなかったそうです。
 出身民族はムギカ人で牛飼いが専業です。兄弟姉妹は28人です。お父さんの最初の奥さんが続けて女を産んだので、男がほしかったお父さんは奥さんの許可を得て第2夫人を娶りました。ところがそのあと第一夫人と第2夫人がほとんど同時に妊娠、出産してどちらも男子だったのでした。その時、第一夫人から生まれたのがサムエルさんというわけです。そこで彼の名前にはムギカ人の言語で幸運という意味のMugishaという名前もあります。
サムエルというのはお分かりと思いますが、旧約聖書のサムエル記からとったもので彼がクリスチャンであることがわかります。彼の宗派はセンブンデー・アドベンティストと言って1844にアメリカ合州国で生まれた宗派です。彼にその特徴を尋ねたところ、ユダヤ教に似ているとのことでした。私にはよくわかりませんが安息日がふつうのキリスト教と違ってユダヤ教と同じ土曜日のようです。またこの派は菜食主義のはずなので尋ねてみたところ、全く無視のようでした。
 写真はサムエルさん夫妻と愛娘の「アイコ」ちゃんです。お分かりのように日本を第二の故郷とする彼は娘に日本の名前を付けました。奥さんとの出会いは、ウガンダの大学時代で間もなく日本に来ることになりましたが、遠距離恋愛を続けて、帰国後、牛15頭の結納金で結婚したそうです。



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「忘れられない」編 現地ガイド2 テオドラさん

2023年05月25日 07時56分34秒 | 忘れられない

 ブルガリアを通じての現地ガイドは24歳の美人のテオドラさんでした。(写真)元駐日大使の娘さんでブルガリア語(当たり前)、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、ギリシア語がペラペラで日本語も少し分かる才女でした。(なお旧社会主義国では現地ガイドが大学教授のアルバイトであったことがよくありました) 
 テオドラという彼女の名前を聞いて私は「ローマ法大全」で有名なビザンツ帝国の皇帝ユスチアヌス大帝(在位526~565年)の后テオドラ(注)を思い出し尋ねると、にっこり笑って「そうです、同じ名前です」と答えてくれて自分の母親がギリシア人であると教えてくれました。(ギリシアではテオドラという名前はポピュラーのようです)しかし次の私の質問が良くありませんでした。「テオドラはprostitution(売春) に関係ある人と聞いていますが」彼女はやんわりとそれを否定しましたが。 
  (注)彼女(?~548年)はサーカスの踊り子から后妃になりました。彼女を一躍有名にしたのは532年のことでした。この年増税への不満が爆発し、反乱が起きユスチアヌスは追放されそうになりました。絶望した彼は逃亡を決意しその準備をしました。そのときテオドラは次のような演説をしてユスチアヌスをいさめました。「たとえそれによって命ながらえるとしても今は逃げる時ではありません。****そこまでして生きながらえたところで、果たして死ぬよりよかったといえるでしょうか。私は古の言葉が正しいと思います。『帝衣は最高の死装束である』」この演説でユスチアヌスは逃亡を思いとどまり反撃に出て専制皇帝への道を歩むことになりました。

 ブルガリアのプロヴディフ民族博物館で奴隷が描かれている壁画を見た時、ふとスパルタクス(注)の故地がブルガリアではなかったかと思いテオドラさんに確認しました。すると彼女は誇らしげにそうだと答えモニュメントは何処そこにあり、その他詳しく話してくれました。(英語なので殆ど理解不能)そこで私は今の話を同行の皆さんにも話してくださいと頼みました。彼女答えて曰く「日本人観光客はパチパチ(写真を写す格好)とショッピングだけに興味があるようなので」ということで話してくれませんでした。これにはひどく傷つきました。この一言で彼女は私の忘れえぬ人になりました。旅行するたびにこのことを思い出します。

(注)ブルガリアの地の先住民トラキア人の剣闘士奴隷で古代ローマを震撼させた奴隷反乱(BC73~71)の指導者。ハリウッド映画にもなっていて、確かカークダグラスが主演。
なお剣闘士奴隷について余談話を少しだけ。彼らは奴隷の中でも最下層とされていましたが、一面、現代のアイドル的な存在でもあリました。有名なポンペイの剣闘士訓練所の遺跡に貴婦人の遺体が発見されています。(未公開)アイドルとのデイト中にヴェスヴィオ火山が噴火したのです。
 「プロヴディフを見ずしてブルガリアを見たことにならない」という現地英語版観光小冊子に次のような文章がありました。
   The Thracian tribes would die rather than be slaves and it is little wonder that the legendary Spartacus , the leader of one of the biggest uprisings of slaves in Antiquity was a Thracian .
(トラキア人は奴隷になるくらいならばむしろ死を選びました。古代最大の奴隷反乱の有名な指導者スパルタクスはまさに1人のトラキア人であったことは疑いありません)(私注 実は古代ローマでの剣闘士奴隷にはトラキア人がかなり多かったようです)

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「忘れられない」編 現地ガイド1 ハーカーンさん

2023年05月22日 07時57分20秒 | 忘れられない

 私は言語音痴のため現地の人たちとの接触は少なく薄いものになります。一番近いには現地ガイドさんですが、それもなかなかです。その中で日本語を話す現地ガイドさんの場合は積極的に話しかけるよう努力しました。というわけでわたくしの乏しい英語でコミュニケートした人を含めて忘れられない現地ガイドさんを幾人か紹介しようと思います。
 2000年10月2日〰16日「トルコ物語」というツアーに参加しました。
今回の15日間のトルコを通じての現地ガイドはハーカーンさんでした。写真左上はエフェソスの遺跡で説明しているハーカーンさんです。写真左下はハーカーンさんの名刺です。「波歓」の印鑑はカッコいいですね。
  最近になって知ったのですが、「ハーカーン」は北アジア史の文脈で伝統的に使用されてきた由緒ある最高支配者の称号「可汗」に由来する称号****オスマン帝国の支配者使用(岩波講座 世界歴史09 p84)
イスラーム教の信者ではなくトルコでは珍しい存在だと自分で説明していました。なかなかのナショナリストでビザンチン帝国を1453年滅ぼしたオスマン帝国の征服王メフメトⅡ世(在位1951年~81)を尊敬していました。また4世紀にエジプトのカルナック神殿から運ばれてきた(合法?非合法?)オベリスク(写真右)がイスタンブールにありますが、これを見て私がハーカーンさんにからかい気味に「エジプトが返してくれといっているよ」というと絶対に返さないと本気でいきまいていました。
 彼の日本語は完璧でした。バスの中で日本からの添乗員が日本語に詰まった時すかさず助けを出した時は全員拍手喝さいでした。日本人よりも上手な日本語の使い手でした。その彼は日本語を始めてから5年くらいで、英語は子供の時からでペラペラのようでした。英語のガイドもするそうですが、日本語の方が疲れないそうです。語順が同じからだそうです。
 ちなみに、トルコでは半分以上の大学に日本語学科があるそうです。
 彼の祖父は現在のギリシャ領に住んでいたそうです。第一次世界大戦でトルコが破れ当時ギリシャに住んでいたトルコ人は現在のトルコ領に戻り、トルコに住んでいたギリシャ人はギリシャに戻りました。

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「忘れられない」編 カタコンベ(カタコーム)5

2023年05月19日 07時53分01秒 | 忘れられない

  最初にカタコンベが単なるお墓と書いたとき、以下のようなコメントをいただきました。
納得できません (bosch)
「キリスト教徒はローマのネロ帝による、ローマの大火の責任転嫁やディオクレティアヌス帝によって大迫害を受けました。事実、ペテロ、パウロは殉死しています。カタコンベは本来墓地ではなく、迫害されたキリスト教徒が地下に作った信仰の場所です。303年以降キリスト教の大迫害はなく、その後何度もの会議が重ねられて少しずつ認められていきましたが、キリスト教成立初期の頃はローマの全ての皇帝が寛容だったわけではありません」
 わたくしは最近までこのコメントは普通のキリスト教徒(会)の普通のカタコンベ理解だと思っていました。ところがそれは全くわたくしの誤解、勉強不足でした。
 いくつかのキリスト教会に電話をしました。鹿児島のカトリック教会の方はカタコンベと迫害は全く関係ないと話していただきました。プロテスタント教会の方も同じでした。「ものみの塔」も同じでホームページを見てくださいとのことで拝見しました。ホームページにはかなり詳しくカタコンベについての記述がありましたが迫害については一言もありませんでした。
 日本バプテスト鹿児島基督教会の牧師田淵さん(65歳)の話が面白かったので紹介します。最初に電話をした時の回答は「高等学校の教科書で迫害とカタコンベについてそう習い今もそのように思っています。神学部時代にもそう習ったような気がします」そこで私が「神学部時代の資料があれば教えてください」とお願いしました。その後お便り(写真公開了承済み)をいただきました。神学部時代の教科書には記載がなかったのですね、迫害とカタコンベについての知識は山川出版の「世界史教科書」のみだったのですね。なんだか変な話ですね。
 ますますわたくしの疑問は深まるばかりです。なぜ高等学校の歴史教科書が誤った記載をしたのか? 田淵さんの神学時代の本には1957年出版(翻訳本なので原著はそれ以前)というかなり古い本があります。最近になって迫害とカタコンベの関係が否定されてきたという言い訳は甚だ疑問ですね。
 なぜこのような間違いが教科書などにあるのか私の年来の疑問です。最近の私の妄想ではどうも「米欧回覧実記」が元凶ではないか。日本にカタコンベが最初に紹介されたのはこの「米欧回覧実記」(4巻p310)の記述からと考えれば腑に落ちるような気がしています。
 「米欧回覧実記」について紹介しておきます。「岩倉使節団は、明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合州国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団です。岩倉具視を正使とし、政府のトップ(実力者の半数)や留学生を含む総勢107名で構成されました。そのときの報告書が久米邦武による「米欧回覧実記」です。原文は和漢混交文で岩波文庫5分冊に収められています。私の偏見?ですが欧米に出かける現代日本人の必読の書です。このブログでも幾度か紹介しています。最近出版された。ジャレド・ダイアモンド著「危機と人類」上」(p152)には「欧米への視察旅行に参加した日本人が、外国を観察して借用したものが多い。その中でも非常に重要な一歩になったのが****岩倉使節団である」と紹介されています。
 以上で1996年のイタリア旅行で疑問を感じたカタコンベ問題は2020年のバプテスト教会の田淵さんの話で一応終結しました。
   

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「忘れられない」編 カタコンベ(カタコーム)4

2023年05月16日 07時54分06秒 | 忘れられない

山川出版社にも連絡(電話)をしましたが電話であったせいかクレーマー扱いで「ケンモホロロ」の応対でその後連絡ももちろんありませんでした。
その後2019年8月出版(山川出版社)の「本書は、わが国の高等学校世界史教科書としてもっとも定評のある、山川出版社の『詳説世界史』を英訳したものです」という「英文 詳説世界史 World History for High School」という本に出合いました。この本のp47にcatacombの説明として”a place of refuge and clandestine worship durそこで今度は手紙でそのことを連絡しました。今回は返事があり、間違いを認めて訂正の回答がありました。写真はその手紙の主要部分です。写真は少し見にくいので主要部分を転記します。

 頂戴したご質問は、47頁「catacomb」の解説について、「place of refuge and clandestine worship during the persecution」とあるが、この記述は誤りではないか、とのことでしたかと存じます。 
 このたび、本書のもととなる『詳説世界史 改訂版』の執筆者に確認しました所、確かにご指摘のように、キリスト教徒のカタコンベは迫害がない時代から造られており、またキリスト教に限らず「異教徒」のカタコンベもローマから延びる街道沿いによく造られたことから、「迫害されたから地下墓地に難を逃れてそこでひそかに礼拝していた」という理解は、現在では適切ではないだろうとのことでございました。つきましては、『詳説世界史』並びに『英文詳説世界史』の該当部分は、執筆者と相談の上、今後修正をさせていただきます。ご迷惑をおかけしたこと、深くお詫び申し上げます。

 この後「こうした記述にいたった背景は***」との説明がありますが、わたくしにはよく理解できなかったので省略します。しかし、私とってなぜこのような間違った記述が長い間高校教科書にあったかの疑問は残ったままです。したがって、帝国書院の釈明の冒頭の「近年では」、同じく山川出版社の「現在では」には引っ掛かりがあります。

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「忘れられない」編 カタコンベ(カタコーム)3

2023年05月13日 07時54分00秒 | 忘れられない

そこで、いくつかの教科書出版社には連絡(電話)をしました。そのうち一社(帝国書院)から回答をいただきました。(写真)
写真が見難いかもしれないので主要な部分を転記し、私の意見を述べておきます。
「***この件につきまして、著者に確認いたしましたところ、カタコンベを迫害されたキリスト教徒の避難所とする学説は、近年では否定されつつあるということでございました。つきましては、「迫害」「避難所」といった記述を、平成31年度版より「初期キリスト教徒の地下共同墓地として使用された。」といった内容に変更する方向で検討します。なお、教科書の記述を変更するためには、文部科学省に申請を行い、承認を受ける必要がございます。***」
 この文章で「近年では」と書かれていますが、ちょっと引っかかりました。というのは私がそれに気づいたのは1996年のイタリア旅行のときでこのブログに書いたのは2005年と2006年でした。前回紹介した欧州共通教科書「ヨーロッパの歴史」で当時に日本でも話題になりました。その出版は1992年のことでした。同じく前回紹介した「キリスト教史」は1977年です
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「忘れられない」編 カタコンベ(カタコーム)2

2023年05月10日 07時53分07秒 | 忘れられない


 手元にある書物などから。
1 最初に世界宗教史叢書「キリスト教史1」
カタコンベについての記述はありません。
迫害については「帝国の迫害は伝えられるほど継続的でもなければ凄惨なものでもなく、一方,教会側は多くの背教者の群れを出した」(p116)
ネロについては「キリスト教徒であること自体を処罰の対象とする一般法が確立され、これを発動した迫害であった、と断定することは困難」(p129)
ディオクレティアヌスについては「全治世22年間のうち20年近くもキリスト教に対して寛容政策とってきたディオクレティアヌスが、なぜ治世もおわりに近い303年に突如身を翻して迫害に転じたのか、その理由は必ずしも明らかでない。ディオクレティアヌスの宮廷、側近にはキリスト教徒が多く登用されていたし、皇妃と皇女もキリスト教に接近したといわれ、属州官僚にも軍隊にもキリスト教徒の存在は許されていた」(p171~172)

2  インターネット上の百科辞典wikipedia(日本語版、英語版)では墓地であるとしか書いていません。
3 ノーマン・デイヴィスの膨大なヨーロッパ史全4巻(各冊500ページ以上)
「 死者の復活に対する信仰は、初期キリスト共同体の中で埋葬に特別な意味を与えた。*****42のカタコンベのうち3つはユダヤ人の墓である」(ヨーロッパ1 p364~365)とあります。
⓸欧州共通教科書「ヨーロッパの歴史」(写真)
ヨーロッパでは共通の歴史認識を共有しようということで1992年に15歳から16歳を対象として欧州共通教科書「ヨーロッパの歴史」が作られました。筆者はイギリス、ドイツ、フランス、アイルランド、デンマーク、オランダ、ベルギー、イタリア、スペイン、ポルトガルから選ばれた10人です。そこにはカタコンベの内部に描かれた「初期のキリスト教の芸術」として壁画が紹介されているだけです。(p89)迫害、避難などとの関連記述はありません。日本の世界史の教科書とはえらい違いです。またこの本はキリスト教徒迫害については以下のように記しています。
「迫害が組織的に行われたことはまれで、決して一般的現象ではなかった。キリスト教の殉教者をたたえる物語は数え切れないほどあるが、これは聖者伝作家の大げさな熱狂によるところが大きい(eager exaggeration of hagiographers)
」(p88)
⓹ 秀村欣二論文
ネロについては古代ローマ史の専門家秀村欣二氏の論文「ネロのキリスト者迫害は、その動機と性格に不明な点があり、またそれはローマ市に限定され属州に及んでいない」(岩波講座 世界歴史3 p59)に注目したいと思います。
 



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「忘れられない」編 カタコンベ(カタコーム)1

2023年05月07日 08時07分20秒 | 忘れられない

 1996年にイタリア旅行をしたときローマで半日自由時間があったのでかねてから行きたいと思っていたアッピア街道を歩きました。そのとき人がたくさん集っているので野次馬の私は近寄ってみると「カタコンベ」(カタコーム)観光のグループでした。その時点での私の「カタコンベ」への知識は「キリスト教徒は、ローマ皇帝の迫害に対し、カタコンベ(地下墳墓)にかくれて信仰を守った」(三省堂世界史{B}2003年版p40)でした。
視界が広がり街道の脇に人が集まっていました。近づいて見るとカタコンベの入口でした。勉強不足のためここにカタコンベがあるとは予想していませんでした。そのとき昔学校で習ったカタコンベについて思い出していました。
 当時の高等学校の世界史教科書では
 「キリスト教徒は、ローマ皇帝の迫害に対し、カタコンベ(地下墳墓)にかくれて信仰を守った」(三省堂世界史{B}2003年版p40)、
 「ローマ帝政時代に迫害されたキリスト教徒の地下の墓所兼礼拝所」(三省堂 詳解世界史p81 平成5年版)、
 「このような地下墓所は、禁圧されたキリスト教徒の集会場」(山川出版社 詳説世界史p39 2003年版) と記述されています。
 私が調べたかぎりでは一冊だけカタコンベに触れていない教科書を見つけました。「実教出版 高校世界史B 平成14年版」でした。そこでは迫害についても「ローマ帝政は宗教にがいして寛容でキリスト教は下層民や奴隷のあいだで信者を獲得し、上層民の信徒もしだいにふえていった」(P24)どうもこれが真実に一番近いようです。

 ついでに当時の「広辞苑」5版を見れば「古代の地下墳墓。特に、ローマの初期キリスト教徒のものが有名で、迫害を避けてここに集まり祈ったという」と書かれていましたが、現在の7版では「古代の地下墳墓。特にローマの初期キリスト教徒のものが有名」迫害以下の箇所が削除されていますね。ひょっとして私のこのブログが?
 ついでにもうひとつ。130年前の岩倉使節団の「米欧回覧実記」(岩波文庫四p309~310にも関連性が紹介されています。
 いずれも「迫害」と「カタコンベ」との関連性が述べられています。この時点での私の理解もこの程度でした。しかし、このとき何かおかしいな、とも思いました。というのは、アッピア街道という日本では東海道に相当する交通量の多いいところ、気づかれ易いところにわざわざ隠れ場所を作るはずがないということです。目立たない人里はなれたところに作るはずだと。中に入って説明を受けたのですが英語だったので殆ど分かりませんでしたが、迫害の話はなかったような気がしました。写真下はカタコンベ内部での説明会。
 中に入っての説明(英語なのでほとんどわかりませんでしたが)に迫害の話は無かったようでした。しかも考えてみると日本で言えば東海道という人の行き来が激しいところで「かくれて」というのもおかしいと思いました。
 そこで帰国後調べてみると迫害とカタコンベには関係の無いことがわかりました。そのことをこのブログに書いたところ以下のようなコメントが入りました。

そのほうが納得できます (colo)(元高校世界史教諭)
「ウーン、そう言われればその通り、なぜ今まで教科書を鵜呑みにしていたのかと我ながら可笑しくなります。人間はだまされやすい・・・」

 納得できません (bosch)
「キリスト教徒はローマのネロ帝による、ローマの大火の責任転嫁ややディオクレティアヌス帝によって大迫害を受けました。事実、ペテロ、パウロは殉死しています。カタコンベは本来墓地ではなく、迫害されたキリスト教徒が地下に作った信仰の場所です。303年以降キリスト教の大迫害はなく、その後何度もの会議が重ねられて少しずつ認められていきましたが、キリスト教成立初期の頃はローマの全ての皇帝が寛容だったわけではありません。」
 そこで次回は「カタコンベ」と「迫害」とは無関係だということを紹介したいと思います。


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「忘れられない」編 サティーとダウリー

2023年05月04日 07時54分42秒 | 忘れられない

写真はインドのジョードプルで見た城塞の門です。ジョードブルは1459年マルワール王国の首都として建設され1947年インド独立まで藩王国の主都として機能しました。この写真は王国メルハンガル城塞の鉄鋲の門にある女性の殉死(サティー)の手形です。 インド(ヒンドゥー教徒)ではつい(最近まで)、夫に先立たれた妻は、夫を葬る荼毘の火中に身を投じて殉死することが美徳とされました。これをサティーといいます。19世紀以来たびたび禁止命令が出されましたが最近では1987年のサティーが話題を呼びました。賛美者が毎日数千人参拝に訪れました。賛成派、反対派で議論が沸騰しました。私は今でも非公然の形で行われているのではないかと疑っています。
  ついでにインドの女性に関する風習を紹介しておきます。結婚時に、花嫁の家族から花婿および花婿の家族に対して支払われる持参財をダウリーといいます。この持参財の額が桁外れで花婿の年収の数倍から数十倍になります。嫁入り先で持参財が少ないため追加要求され、いびられ自殺したり、殺されたりする例が1961年に「持参財禁止令」が出されたにもかかわらず年々増加しています。
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「忘れられない」編 ガンディー2

2023年05月01日 07時53分21秒 | 忘れられない

ガンディーは世界的な人物でした。例えばアメリカの黒人牧師、人種差別撤廃運動家、ノーベル平和賞受賞者のキング牧師(1929~1968)も彼に強く影響を受け尊敬していました。彼の記念館にはガンディーの銅像があります。(2017年9月23日に紹介)
 ガンディーの遺灰は世界各国に分骨されました。その一つをアフリカ・ウガンダのナイル河源流のヴィクトリア湖畔に見ました。写真はその記念碑ですが、ちょっと見にくいのでその英文を転記します。
             MAHATMA GANDHI (2 10 1869 –30 11 19489)
Universal  apostle of peace and non-violence whose ashes were immersed in the River Nile in 1948.
*****************
Unveiled by H.E Mr . Ik Gujral the prime minister of the Republic of India on 5th October1997
Lonely planet によればガンディーはここで筏遊びをしていたと書かれており、現地ガイドによればアフリカの独立を鼓舞するためにここに遺灰を流したと説明してくれました。、遺灰は1948年にナイルに流され1997年に当時のインド首相Gujral がこの碑の除幕式を行ったと書かれています 。
 この地はウガンダのインド人の巡礼地になりつつあるそうです


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