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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ」編 ナショナリズム・言語 ウクライナ6

2012年06月28日 08時44分39秒 | ベラルーシ・ウクライナ・マルドヴァ

 

 リヴィウ夜ホテルでの夕食を終え一杯機嫌で散歩に出かけました。ホテルにほぼ隣接する市民の憩いのリノック広場がありました。多くの市民が夜の憩いを楽しんでいました。写真のような若い家族連れに出会いました。ウクライナ語の挨拶言葉を書いたメモを見ながら挨拶を交わし後は片言の英語でおぼつかない会話を交わしました。彼らはウクライナナショナリストであることが分かりました。ロシア語でなくウクライナ語での挨拶でよかったと後で思いました。その時以前ソ連邦の一員であったウズベキスタンの首都タシケント空港でのことを思い出していました。

 パスポートチェックの時係りの女性に「スパシーバ」(ロシア語のありがとう)というと彼女は間髪を入れずに、しかし、にこやかに「ラフマット」(ウズベキスタン語のありがとう)と訂正してくれました。次の「ダスビダニア」(ロシア語のさよなら)にも、「ハイール」(ウズベキスタン語のさようなら)とすばやく、毅然として、笑みを浮かべながら、訂正してくれました。

fengdanさんコメントありがとうございました。同じロシア様式なんですかね。

 


「ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ」編 ナショナリズム・言語 ウクライナ5

2012年06月28日 08時39分44秒 | ベラルーシ・ウクライナ・マルドヴァ

 

写真はリヴィウにあるユニエイトの元本部の聖アンドレア教会の内部です。2005年に本部はキエフに移されました。したがって5月14日の地図の説明は間違っています。「旅のデザインルーム」には訂正の申し入れをしておきました。

 私には建物の説明はできませんが、添乗員の堤さんによれば正面の作りは東方正教会と同じで、少し見にくいですがベンチがあるのがカトリック様式だそうです。折衷ですね。


「ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ」編 ナショナリズム・言語 ウクライナ4

2012年06月28日 08時35分28秒 | ベラルーシ・ウクライナ・マルドヴァ

 

 リヴィウは5月14日の旅程図でも分かる通りポーランドに近くウクライナでは地理的には辺境になりますが、最もウクライナ色が強くロシア語が通じにくい地域とされています。ウクライナ民族主義の拠点とされています。その象徴的な存在がユニエイト教会です。ポーランド・リトアニア共和国に支配されていた1596年にカトリックとロシア正教会の妥協の産物として成立し、東方正教会の典礼(儀式)を守りながらローマカトリック教皇の権威に従うという珍しい宗派です。ウクライナ・カトリックとかギリシア・カトリック、東方カトリック教会などとも呼ばれており今ではロシア正教会とは一線を画しウクライナ民族主義の一端を担っています。

 このリヴィウでのガイドのテイニアさん(写真)はやはりユニエイトでした。


「ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ」編 ナショナリズム・言語 ウクライナ3

2012年06月25日 08時30分09秒 | ベラルーシ・ウクライナ・マルドヴァ

 

シェフチェンコの像の向かいにシェフチェンコ記念キエフ国立大学があります。1834年の創立以来ウクライナ民族運動の拠点になりました。建物が赤いのはロシア皇帝ニコライ1世が徴兵拒否運動を起こした学生たちへの罰として、建物を血の色で塗り潰すように命じことにあります。

というわけで、ここでのガイドがロシア人とアフガニスタン人では「ガッカリ感」という前回の話しは理解していただけると思うのですが。

 


「ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ」編 ナショナリズム・言語 ウクライナ2

2012年06月25日 08時26分32秒 | ベラルーシ・ウクライナ・マルドヴァ

 国民的英雄シェフチェンコ(1814~61)の像は今やレーニン像に代わって(まだ少し残っていました。後日紹介)ウクライナのほとんどの都市で見ることができるとはlonely planetの記述です。

 彼は農奴の子として生まれ友人のカンパによって領主に金を支払い自由身分になることができました。ウクライナ文学史上最大の作品とされる農民の口語・方言と古代教会スラブ語を統合したウクライナ語による詩集「コブザーリ」を出版しました。彼によってウクライナ語がロシア語と対等な言語として認められるようになりました。47年革命運動に参加したため逮捕10年間流刑生活を送ることになりました。

 写真はキエフにある彼の像です。


「ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ」編 ナショナリズム・言語 ウクライナ1

2012年06月22日 08時22分29秒 | ベラルーシ・ウクライナ・マルドヴァ

     

  全行程のガイド(スルーガイド)はファティマ(仮名)さんでした。オデッサから来たという彼女に「ウクライナ人?ロシア人?」と尋ねるとアフガニスタン人と答えたのにはビックリしました。添乗員の堤さんも以前から仕事を一緒にしていたにもかかわらず知らなかったようです。彼女の父親は1979年にソビエト連邦に助けを求めた当時のアフガニスタン政府の軍人だったようです。その後事実上敗北したソ連軍は1989年にアフガニスタンから撤退します。その時ソ連邦に亡命したのが父親で彼女が2歳の時でした。多分現在はウクライナ国籍を持ち、もちろんウクライナ語もロシア語もペラペラです。そこで万一を考慮して仮名にし、写真にはモザイクを掛けました。もちろんブログに紹介すると言って了解してもらったつもりですが。

 隣の人はウクライナの首都キエフの現地ガイドのナターリアさんです。彼女はロシア人でした。家庭ではロシア語ですが、もちろんウクライナ語も解するバイリンガルです。そのキエフでの最初の観光がウクライナ民族主義運動の英雄であるシェフチェンコ(1814~61)に因んだ場所でした。この写真の背後はシェフチェンコの銅像がある広場で、正面はシェフチェンコの名前のついたシェフチェンコ記念キエフ国立大学です。この時私には何となく、違和感とガッカリ感がありました。ウクライナ民族主義の英雄を二人の外国人?に紹介してもらうことに。もちろんドナルド・キーンさんから日本文学の講義を聞くことには違和感はありませんが、しかし、この場合は偏狭ではないウクライナ人のナショナリズムによるシェフチェンコの熱い話を聞きたかったのですが。

 なお、シェフチェンコについては次回に紹介します。                                                                                                         


「ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ」編 ナショナリズム・言語  ベラルーシ3

2012年06月19日 08時36分47秒 | ベラルーシ・ウクライナ・マルドヴァ

 

 写真はベラルーシのブレストのガイド、ニーナさんです。彼女の日常会話はやはりロシア語だそうですが、両親はベラルーシ語だったそうです。彼女にあなたの母語はと尋ねた場合「ベラルーシ語」と答えたような気がします。ロシアとの統合は反対であるとの返事でした。そして若者は反対の傾向が強いと付け加えてくれました。

 


「ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ」編 ナショナリズム・言語  ベラルーシ2

2012年06月19日 08時32分07秒 | ベラルーシ・ウクライナ・マルドヴァ

 この写真の文書はベラルーシ入国時にもらい出国時に返すmigration card と呼ばれるものです。キルル文字が主体ですが中にラテン文字があります。上から3行目の左にRussian Federation(ロシア連邦)右にRepublic of Belarus(ベラルーシ共和国)と書かれています。出入国に関する文書が共用とは!と思いましたが、ひょっとすると、ロシア連邦の一員のベラルーシ共和国と言う意味かもしれません。どちらにしてもベロニカさんの言うように現実はロシアと一体化しているという考えを実証している文書のような気がしたので紹介しておきます。なお蛇足ですが、法的にはベラルーシはロシア連邦の一員ではありません。


「ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ」編 ナショナリズム・言語  ベラルーシ1

2012年06月19日 08時25分47秒 | ベラルーシ・ウクライナ・マルドヴァ

 今回の訪問国は1991年のソ連邦崩壊後に独立した国々ですが、同じように独立したバルト3国とは違って親ロシア的です。その中でも一番親ロシア的とされるベラルーシから。

 ベラルーシの首都ミンクスのガイドはベロニカさんでした(写真)。あなたは家庭では何語で話しますかと尋ねました。もちろんロシア語で、98%の人がロシア語を話すという返答でした。この場合98%の人がロシア語を解するという意味か、98%の人の日常言語がロシア語であるという意味なのかはわかりませんでしたが、彼女のニュアンスでは後者の意味のようでした。

 服部倫卓氏は「不思議の国ベラルーシ ナショナリズムから遠く離れて」で次のように書かれています。

 「ベラルーシでは、ロシア語かベラルーシ語かという二者択一の枠に収まりきれない面がある。その最たる例は、『トラシャンカ』と呼ばれるロシア語とベラルーシ語のチャンポン言葉が蔓延していることである。つまり、ロシア語を話そうとしているのにベラルーシ語の単語や発音が混じってしまったり、ロシア語の影響を強く受けたベラルーシ語をしゃべったと言ったことが起きる」(p137)。

 また2009年の国勢調査によれば母語をベラルーシ語と答えた人が53%、ロシア語と答えた人が41%です。ちなみに、民族構成ではベラルーシ人が84%、ロシア人が8%となっています。(「ウクライナ・ベラルーシ・モルドバ経済図説」p19)何がなんだかよくわかりませんね。

 次に質問したのは「ロシアとの統合を望みますか」でした。その質問はあまり意味がなく現実はすでに統合されていると同じであり私の夫もロシア人ですと言うのが彼女の答えでした。(この場合のロシア人はベラルーシ国籍を持つロシア人か、ロシア国籍のロシア人かはよくわからない。多分彼女にとってそんなことはあまり意味のないことかも)

 服部氏は「ベラルーシ民族・国民としての独自のアイデンティティが充分に確立されていないことをうかがわせるデータは枚挙にいとまがない」(p165)と述べられています。

 それを制度的にうかがわせるような文書を発見?しました。次ページへ。


「ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ」編 ユダヤ人 付録

2012年06月16日 08時38分56秒 | ユダヤ人

 

 この地すなわち東欧平原に居住したユダヤ人(現在多くはイスラエル、アメリカ合州国に移住しユダヤ人世界では多数派)は3系統あります。第1はアシュケナージと呼ばれる人たちでイディシュ語を話す人たちです。ユダヤ人の多数派です。第2は1492年にスペインを追放されたセファルディウムです。第3は7世紀~10世紀にかけて繁栄したトルコ系遊牧民国家、ハザール汗国の末裔です。ハザールのユダヤ教化について以前は上層部だけであったとされていましたが近年一般民衆にまで浸透していたと考えらえてきています。そしてこのブログで2009年7月1日に紹介したようにハザールの末裔=アシュケナージという説が近年有力になりつつあります。ヘブライ大学の教授でユダヤ人シュロモー・サンドの著書「ユダヤ人の起源」はイスラエルでベストセラーになり2010年に邦訳されましたが、そこでも「ハザールの末裔=アシュケナージ」説が主張されています。(もちろん学説としては反対意見もあります)もしこの説が正しいとされると、パレスチナの地を祖地とするイスラエル建国の理念シオニズムは破たんします。しかし強姦されて生まれた子にも生きる権利があるとサンドは述べています。

 ウクライナもロシアも自国を9世紀に成立し13世紀に滅んだルーシ公国の直接の後継者と主張していますが、山川出版の世界各国史シリーズ「ポーランド・ウクライナ・バルト史」(p100)によるとそのルーシ公国はノルマン人が南下したルーシ商人団とハザールの一族で建国されたとしています。またキエフと言う名前もハザールの将軍クイkyの砦からきていると記述しています。

 このように今回の訪問地は古くからユダヤ人とかかわりの深いにもかかわらず日本で一番売れているガイドブック「地球の歩き方」にもそのことにつての記述もなく今回のツアーコースに入っていないのであえてこの「ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ」編で最初に取り上げることにしました。なお、この地出身の著名なユダヤ人の名前は数が多いので省略します。

 写真は最初に取り上げたキエフのシナゴーグの標識です。キエフユダヤ人共同体センターと書かれていますね。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           


「ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ」編 ユダヤ人 チェルニフィツイ2

2012年06月13日 08時28分23秒 | ユダヤ人

 Lonely planetにも記載がありませんが、街でこのような建物を見ました。この地のユダヤ人の歴史・文化博物館と表示されています。中に入って見学をしたかったー!

 1908年に第1回イディッシュ世界会議が開かれていることからもこの地のユダヤ人の重要性は見てとれます。なお、イディッシュ語については次回紹介します。

 世界的に有名な詩人Paul Celan というドイツ系ユダヤ人の出生地です。私はこの人物を全然知りませんが、興味ある人がいらっしゃる、かもと言うことで紹介します。彼の記念館もあるようです。

 なおこのチェルニフィツイの町は「地球の歩き方」にも記載がありませんが、今回の旅では最も印象深い、興味のある町でした。半日の観光でしたが、丸一日をかけて観光する価値のある町だと思います。後日もう一度紹介する予定です。


「ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ」編 ユダヤ人 チェルニフィツイ1

2012年06月13日 08時22分24秒 | ユダヤ人

 

チェルニフィツイは5月14日の地図でお分かりのようにルーマニア、モルドヴァに近い国境の街です。歴史的には沢山の国がこの地を支配しました。(モルダヴィア公国→オスマン帝国→ポーランド共和国→ハプスブルク帝国→ルーマニア王国→ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国→1991年ウクライナ)

 したがって2001年の統計では65の民族の都市です。1930年の統計ではユダヤ人が最大で29%、ルーマニア人23%、ドイツ人21%、ウクライナ人19%の人口構成でしたが、現在はウクライナ人80%、ロシア人11%になっており、Lonely planetの表現によればユダヤ人、ルーマニア人、ドイツ人の社会は今やghostly presence (幽霊のような存在?)になってしまいました。

 そのghostly presenceの一つがかつてのシナゴーグで1954年劇場になりました(写真)。私には全然理解できませんがlonely planetによればアフリカ・中近東様式の建物だそうです。


「ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ」編 ユダヤ人 リヴィウ1

2012年06月10日 08時13分53秒 | ユダヤ人

 リヴィウは5月14日の地図をご覧いただければ分かるようにポーランドに近いところに位置していていますが、後日紹介するように現在ウクライナ民族意識の強い地域です。このリヴィウには第2次世界大戦以前には10万人のユダヤ人が住んでいました。大戦中にはドイツ、ポーランドからナチスに追われポーランド地域も含めてリヴィウ近郊のユダヤ人人口は60万になりました。そしてここに侵攻したナチスによって虐殺され生き残ったのは2名だけでした。(ウクライナ全体では90万人がナチスドイツに虐殺されました)現在のリヴィウのユダヤ人は約2000人です。

現在リヴィウには多くのユダヤ人に関係するところが残っていますが、訪れることができたのは市の中心部に残されていた14世紀(lonely  planetでは16世紀後半)に建設され1941年にナチスよって破壊されたGolden Rose Synagogueと呼ばれているシナゴーグ廃墟跡でした。繁華街の中心部にあり隣はレストランのオープンカフェで200坪ぐらいのフェンスで囲まれた廃墟でした。この地域のユダヤ人によるシナゴーグのレプリカ再建計画はあるとはLonely planet の記述です。ここでもその存在を知らない人が多くて同じ路を何度も行ったり来たりして尋ね歩き、歴史の移ろいを感じました。