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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「臨時特別」編 アルメニア人虐殺とクルド人

2023年10月07日 07時52分37秒 | トルコ

 アルメニア人虐殺とクルド人の関係について「トルコ」(岩波新書)の著者内藤正典氏に以下のようなメールをしました。

内藤正典様

前略
貴著岩波新書「トルコ」を拝読しました。大変興味深く勉強になりました。ありがとうございました。拝読しながら以前から気にかかっていたことを思い出しました。それはアルメニア人虐殺についてです。2003年アルメニアの首都エレバンのジェノサイド博物館訪問した時での現地ガイドの以下のような説明でした。「アルメニア人を殺せばクルドの独立を認めるというトルコ政府の扇動に乗ってこの大虐殺にクルド人も一役買ったのです」
 この話は本当なんですか。ご教示いただけますと幸いです。
 なお貴著p165「多くのアルメニア人が住んでいたとされる東部地域から、彼らは出て行った。その後をクルド人が埋めていった地域も多い」はこのことと関係していますか。
 以上ご教示、ご返事をいただければ幸いです。

以下のようなご返事をいただきました。ありがとうございました。

山田様
拙著をお読みくださり、ありがとうございました。お尋ねの件ですが、直接の証拠は知りませんが、そのように言われています。ただ、元々、アルメニア人とクルド人は居住地が重なっていたため、一方がいなくなると他方がその土地を自分のものにするのは、あり得ることだと思います。意図的にクルド人を唆した可能性も否定できません。当時は「トルコ政府」と呼べるような政府はありません。イスタンブールのオスマン帝国政府は統治能力を失い、エンヴェル、タラアト、ジェマルの3人の将軍が動き回っていました。アルメニア人の大量追放と殺戮の首謀者は、タラートとドイツの軍事顧問たちの発想ではないかとも言われています。
取り急ぎ

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「トルコ」編 イスタンブール2

2022年01月09日 07時53分28秒 | トルコ

 トルコ最終日はイスタンブールでのブルーモスク(写真左上)、トプカプ宮殿(写真左中)、地下宮殿(写真左下、右)の観光でした。
ブルーモスクの正式な名前はスルタンアフメット・ジャミで1609年〰1616年にかけて建設されました。6本のミナレットで有名ですがこの写真ではよくわかりません。なぜか内部の写真は一枚もありません。フィルム切れ間近だったからのようです。
 トプカプ宮殿は15世紀から20世紀初頭にかけてオスマントルコの支配者の居城です。内部には黒人宦官の部屋、500人ぐらいの女奴隷の部屋ハーレムなどたくさんの見どころがありましたがこれも1枚の写真もなし。
 地下宮殿は4世紀〰6世紀にかけて作られた高さ8mの柱が336本ある地下貯水池跡です。ここにあるギリシア神話に出てくるメドゥサの顔の石像が有名です。(写真右)メドゥサを見たものをたちどころに石にしてしまうという伝説に基づきここに造られたのだろうとわたくしは思いました。すなわち地下を強固にするという役割。写真以外にもう一つメドゥサの像があります。これは横に倒れていて放置されているようでした。これはオスマン帝国(イスラーム教国)時代になってギリシア神話の神々が否定されたことによるものだと思いました。(以上わたくしの妄想的私見)
 今回で「トルコ」編を終了します。次回からは?
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「トルコ」編 イスタンブール1 街頭風景

2022年01月06日 07時51分44秒 | トルコ

 首都イスタンブールに戻ってきました。水タバコですね。(写真左)出た煙をガラス瓶の中の水を通して吸うタバコです。トルコでは「ナルギレ」と呼ばれています。イランが発祥地とされていてアラブ世界では一般的のようです。したがってイランでは女性も普通の喫煙のようです。(2008年5月21日紹介)
 写真右上はグランドバザールです。トルコ語でカパル・チャルシユ屋根付き市場という意味です。中東最大で4400軒の店があります。
 イスラーム圏では一般的には女性は写真撮影を嫌いますが、トルコでは気楽に撮影に応じてくれました。(写真右下)
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「トルコ」編 アンカラ2 アナトリア博物館、アタチュルク霊廟

2022年01月03日 07時52分39秒 | トルコ

 アンカラで訪ねたのは、アナトリア博物館(写真左上)とアタテュルク霊廟(写真左下)でした。アナトリア博物館の展示物は12月25日に紹介したヒッタイト王国妃とエジプト国王妃のfriendly correspondenceの強い印象以外は記憶にないので省略。アタテュルク霊廟は第一世界大戦で亡国の危機に瀕したトルコを救ったムスタファ・ケマル・アタテュルク(1881~1938)の霊廟です。アタテュルク=アター父、テュルクートルコです。彼の業績には政教分離、アラビア文字廃止、トルコ帽子禁止、一夫多妻制の禁止などがあります。霊廟には博物館も付属しています。写真右は1928年のトルコ語のアラビア文字表記を廃止しラテン文字(アルファベット)とする決定書です。
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「トルコ」編 アンカラ1 街頭風景

2021年12月31日 07時52分29秒 | トルコ

 首都アンカラに向かいました。街頭風景を3枚。左上はトルコ名物ケバブの店ですね。写真左下のゲイムは?右の写真はパンの街頭販売ですね。それでは良いお年を!
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「トルコ」編 ヒッタイト王国遺跡2 ヤズルカヤ

2021年12月28日 07時52分34秒 | トルコ

 ハットゥシャシュから2㎞ほど離れたところにあるヤズルカヤ遺跡を訪れました。ヤズル=文字が書かれている、カヤ=岩、という意意味です。ヒッタイト王国の宗教的儀式が行われたところです。岩壁にはたくさんのレリーフが描かれています。もっとも有名なのがとんがり帽子をかぶった12神の行進です。(写真下)

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「トルコ」編 ヒッタイト王国遺跡1 ハットゥシャシュ

2021年12月25日 07時53分58秒 | トルコ

 BC18世紀からBC12世紀にかけて史上初めて鉄器を使用してトルコ起点としてシリア、メソポタミアまで版図を広げたヒッタイト王国のボアズカレにある王都ハットゥシャシュの遺跡を訪れました。
この遺跡は1834年に旅行家でフランス人考古学者のチャールズ・テキシェによって発見され、1906~1907年の間にドイツ人考古学者のウィンクラーなどの指導で発掘作業が実施されました。
 ウィンクラーはヒッタイト王国とエジプトとの世界最初の平和条約(BC1269年)のヒッタイト語版の粘土板を発見しました。この世界最初の平和条約の成立の陰には二人の女性が重要な役割を果たしていました。それは政治面でも影響力を有していたヒッタイト王国ハットゥシリ3世の妃プドゥヘパとエジプトラムセス2世の妃ネフェルタリが王たちよりも盛んに書簡を交わし、その双方の働きによりこの世界最初の平和条約が成立したことです。この両妃の書簡(粘土板)を首都アンカラのアナトリア博物館で見ました。(写真左下)平和条約については事前に少し知っていましたが、この条約に二人の女性が深くかかわっていたことは知りませんでした。この書簡については現地ガイドからも添乗員からも紹介がなくある意味で偶然にこの博物館で見かけたというわけです。わたくしの知る限りでのガイドブックなどにも記載はありません。ちょっと感動、興奮しました。この説明文(写真上不鮮明)のfriendly correspondence”は今も忘れられないフレーズです。この書簡はあまり知られていないようですが、世界史的に見てもっと知られてよい資料(書簡)だとわたくしは思うのですが。
平和条約そのものは残念ながら見ることはできませんでした。私が見落としたのか、ここになかったのか。世界最初の平和条約ということで国連本部にレプリカがあるそうです。
 写真左上は大神殿の遠望です。写真右はこの城門に侵入者を見張るライオンです。
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「トルコ」編 カッパドキア 絨毯工場、トイレ休憩

2021年12月22日 07時53分28秒 | トルコ

 カッパドキアの夜希望者は絨毯工場を見学しました。(写真上)トルコ絨毯は有名なんですね。
 カッパドキアからヒッタイトの遺跡ボアズカレへ向かう途中でウズレル村のモスクでトイレ休憩をしました(写真中)。イスラーム教国ではトイレ休憩は商店などが見当たらない時はモスクが一番なのです。キリスト教の教会にはトイレがありませんが、モスクには必ずありオープンなのです。トイレ休憩はイスラーム教圏ではモスクへどうぞ!
 トイレ休憩後みんなでリラックス体操(写真下)
余談話
 3世紀にローマ帝国時代のローマ街道網を記述した「アントニウス旅程表」には最東の都市としてカッパドキアが記載されています。(「岩波講座 世界歴史03 ローマ帝国と西アジア」p138~239)
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「トルコ」編 カッパドキア4 旧ギリシア人村

2021年12月19日 07時52分44秒 | トルコ

 カッパドキアにある旧ギリシア人の村ムスタパシャを訪れました。看板(写真上)にOLD GREEK HOUSE(旧ギリシア住宅)と書かれていますがその下はトルコの表示がむやみに多いと思いませんか?ここはトルコだと強調しているようです。
 9月24日に紹介したように第一世界大戦後の1923年にトルコ領内のギリシア正教徒と、ギリシア領内のイスラーム教徒が交換されました。ここカッパドキアにはトルコ領内でもギリシア正教徒が多かったようです。1914年の国勢調査ではトルコの総人口は2097万人でギリシア系は179万人でした。
 この村の人たちはなぜか我々観光客を大歓迎してくれました(写真中、下)わたくしの当時のメモには「村人のhospitalityに感激」とありますが、後で考えて何か理由があるような気がします。ここの村人はギリシア系イスラーム教徒トルコ人です。ギリシア系だがイスラーム教徒でトルコ人として大切にされているということを宣伝するためのトルコの国策外交政策でないかと。ここの住民はベットルームというプライベートなところまでなぜ案内するのか。
 9月24日に紹介したように現地ガイドのハーカンさんの祖父はギリシア領内に住むイスラーム教徒でした。

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「トルコ」編 カッパドキア3 カイマクル地下都市と鳩小屋

2021年12月16日 07時52分04秒 | トルコ

 カッパドキアで最も有名なカイマクル地下都市です(写真左上)BC400年ころから存在していたとの記録があるそうですが詳しい発祥や歴史は不明です。内部には教会、厨房、寝室、ワイン醸造所などがあり、2万人というちょっと信じられないような人が住んでいたそうです。
 近くでは土産物さんの女性が頑張っていました。(写真左下)
 奇岩にたくさんの穴が開いていますね(写真右下)これは鳩小屋です。以前この鳩小屋の鳩の糞をブドウ畑の肥料にしていました。

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「トルコ」編 カッパドキア2 奇岩景観

2021年12月13日 07時53分42秒 | トルコ

 3本のキノコが生えている奇岩で有名です。昔、修道士が住んでいました。(写真上)カッパドキアはこのような奇形の地です
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「トルコ」編 カッパドキア1

2021年12月10日 07時52分52秒 | トルコ

 カッパドキアはトルコ中部に位置し奇岩景観と地下都市、キリスト教遺跡で著名な世界遺産地です。写真上は全長12㎞、崖の高さ100mのウフララ峡谷です。この地には5000もの住居と105の教会が残されています。紀元前からこの地に地下住居が作られましたが詳しいことはいまだに謎に包まれています。その後4世紀ごろからキリスト教徒の隠れ家ともなり、地下教会が作られました。写真下はその一つで「最後の審判」の画に描かれている蛇にちなんで、名付けられた「ヘビの教会」の入り口です。
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「トルコ」編 キャラバンサライとサズ

2021年12月07日 07時51分27秒 | トルコ

 コンヤから観光名所カッパドキアへ向かう途中にトルコで最も大きいキャラバンサライがありました。(写真上)スルタンハニキャラバンサライ(SULTANHANI CARAVANSERAI 写真中)と書かれていますがスルタン(イスラーム国の王様)が1229年に造ったキャラバンサライ(隊商宿)です。トルコでは現在40ほどが残っているそうです。キャラバンサライとはシルクロードなどを行動する隊商隊の宿のことを言います。なおこのキャラバンサライはモンゴルのチムールが攻めてきたときに城としても使われました。現在も世界各地で現役のホテルとして活躍しているキャラバンサライもあります。例えばわたくしはインドや中央アジアで宿泊したことがあります。隊商隊は3日間は無料だそうです。内部構造などは写真中の説明文(見にくいですが)ご覧ください。
 写真下は昼食休憩中での現地ガイドハーカンさんの助手的なことをしていたギュンドアンさんの「サズ」の演奏です。「サズ」とはペルシア・アゼルバイジャン・トルコ・バルカン半島諸国で一般的な撥弦楽器です。

 
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「トルコ」編 コンヤ3 朝の散歩

2021年12月04日 07時51分58秒 | トルコ

写真上はコンヤで早朝の散歩をしていた時に出会った子供たちです。朝食のパンを売っていた青年?にも出会いました(写真中)。メルハバ(今日は)というトルコ語の挨拶をしてその後無言の会話?をしました。そこへ弟らしき中学生が現れました(写真下)。彼は弟にお茶を持ってくるように指示したようでした。香草が入ったお茶を勧めてくれました。大変おいしくいただきました。彼らも商売だろうと思い代金を支払おうとしましたが受け取りませんでした。海外旅行中に出会った忘れられない人物の一人です。
  トルコはクルド人を迫害し、アルメニア人の虐殺に対しても謝罪もしていません。しかし一人一人のトルコ人は非常に親切でした。しかも親日的でした。
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「トルコ」編 コンヤ2 スーフィズム

2021年12月01日 07時52分42秒 | トルコ

コンヤはイスラーム教のスーフィズム・イスラーム神秘主義の一つメヴィレヴィー教団(旋舞教団)の発祥地として有名です。創始者はジャッラールッディーン・ルーミー(?~1273)です。牧野信也氏によれば「スーフィーとは神秘家をさすアラビア語であるが、元来これは(スーフ)『荒い羊毛』をまとった者、すなわちはかない現世をのがれ、粗末な衣をまとって禁欲的な生活をするムスリムを意味しており、後に神秘家そのものをさすようになった」(「イスラームの根源をさぐる」p55)また「(日本の)踊る念仏を思わせるもので、理論、理屈や教義としての宗教ではなく、体で、そして全存在で受け止め、体験できるものであったので、忽ち、民衆の間に広まっていった」(p59)
  1927年アタチュルクによってこの教団は解散されましたが、ルーミーの廟は博物館になっています(写真左)。ムハンマドのあごひげが収められた箱がありました(写真右上)。「
私のもとへ来なさい。あなたが無神論者でも偶像崇拝者でも拝火教信者でもかまわないから来るのです」という日本語訳のルーミーの言葉が書かれていました。なぜか写真がありません。ガイドブックにも紹介がありません。20年たった今も写真がないことを後悔しています。私たちが理解するイスラーム教ではないですね。
その特異の旋舞が観光用として毎年12月10日~17日だけ公開されているとガイドブックには書いてありましたが、なぜか2000年10月でも見ることができました。(写真右中下)
 ついでに余談話を。日本のプロ野球日本ハムファイターズからアメリカのプロ野球に移籍したダルビッシュ有投手の名前はこのスーフィズム修道僧を意味する名前です。ただしダルビッシュ有投手本人はイスラーム教の信者ではないといっているそうです。
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