彼らの略奪品については前述のようにいろいろ説がありますが、略奪を免れたものがあります。それは教会の黄金の祭壇です。
市民がこの祭壇にしっくいを塗り隠しその裏にも金銀を隠して略奪を免れました。それは現在サン・ホセ教会に安置されています。
写真は私が慌てて写したためボケていますが、金ぴかの様子は感じていただけると思います。
前述のようにモーガンは2000人(1500人説あり)の海賊を率いてサン・ロレンソ砦を出発、チャグレス河に沿ってパナマ市に9日目に到達しました。迎え撃つ守備隊も2000人でしたが、一日の戦いで敗北しました。そしてパナマ市は完全に破壊、略奪されました。
このときの海賊たちの収穫?についてはいろいろ説があるようですが、最後は分け前が少ないと騒ぎ出し、モーガンは一人逃げ出し海賊業から足を洗いイングランドに帰り宮廷に取り入りサーの称号をもらいジャマイカの副総督に任命され海賊の処刑に精を出すことになります。
このときの破壊でこのパナマ市は回復不能になり廃墟のまま放擲され現在のパナマ市はここから太平洋沿い西に10kmのところに再建されました。この廃墟になった旧パナマ市は現在パナマビエホと呼ばれ遺跡公園として観光地になっています。
写真はパナマビエホに残る教会です。
バッカニアの略奪品の分配について増田義郎の「略奪の海カリブ」を紹介しておきます。
「略奪品の分配は、負傷者を優先した。右腕を失った者は8レアル銀貨600枚ないしは奴隷6人、左腕または右脚を失った者は500枚ないしは奴隷5人、左脚を失った者は400枚ないしは奴隷4人、片眼失明したものと指1本失った者は100枚か奴隷一人。残りが傷を負わなかった者全員に分配されるのだが、船長は普通の船員の5倍から6倍の分け前を取った」(p123)
なお、このモーガンのパナマ略奪、破壊についてはスタインベックが処女作「黄金の杯」で小説化しているそうです
バッカニア(注)の代表的人物ヘンリー・モーガン(1635~1688)を紹介します。彼はイギリスで生まれの17世紀カリブ海での略奪で活躍した海賊で、海賊を引退後ジャマイカ島代理総督などの役職につきサー(男爵)の称号をもらい(1674年)海賊を取り締まる立場になります。?
彼の海賊活動で最も有名なのが1671年のパナマ略奪です。パナマ市は1519年ヨーロッパ人(スペイン)が太平洋側に最初に建設した町で、ペルーからの金の延べ棒などを本国スペインに送る基地でした。そこをヘンリー・モーガンが1671年パナマ地峡のカリブ海側のサン・ロレンソ砦に400人の海賊を率いて上陸、守備隊300人の殆どを殺し(30人生き残り)次にチャグレス河沿いに2000人の海賊を率いてパナマ市を目指します。
写真はこのサン・ロレンソ砦にある年代記風標識です。人物画像の上から二番目がモーガンです。
(注)海賊たちはカリブ海の島で牛肉を木製の網の上で燻製にして食したり販売していました。その木製の網のことを現地語でbuccanブーカンといい、それがフランス語のboucanierブーカンニェになり→英語バッカニアになり、海賊を指す言葉になります。なお焼肉のバーベキューも同じような語源です。
中南米の歴史をヨーロッパ人中心に見るとコロンブスに始まるスペイン人のコンキスタドール(conquistador英語、スペイン語から。16世紀中南米を征服したスペイン人)、そしてその富をめぐりヨーロッパ諸国のバッカニア(buccaneer 英語、16~17世紀、スペイン船や植民地を荒らした海賊。語源については後記)の活躍ということになります。
そこで今回の旅行で出会ったパナマに関係深いコンキスタドールのバルボアとバッカニアのヘンリー・モーガンを紹介します。
バスコ・ヌーニエス・デ・バルボア(1475~1519)はスペイン貧乏貴族の生まれで1550年カリブ海のイスパニョーラ島に移住しリーダーになります。その後パナマのカリブ海側に植民しインディオから南に大きな海と黄金が算出するところがあると聞き1513年190人の部下とインディオの奴隷1000人を率いて探索を始めます。このときの部下に後にインカ帝国を滅ぼしたピサロがいます。そのときの探索の結果がヨーロッパ人として始めてパナマ地峡を通り太平洋に到達し歴史にその名を残すことになります。
このときの行程は地図を見れば分かるように北のカリブ海→南の太平洋なのでバルボアは太平洋を「南の海」と名づけてかなりの間この名前が使われていました。カリブ海を「北の海」としました。
なおガイドブック「地球の歩き方」ではバルボアが「太平洋」と名づけたと書かれていますがこれは間違いです。(訂正を申し込みしました)ちなみに「太平洋」と命名したのは南アメリカの最南端を通り世界一周したマゼランです。
その後上官との折り合いが悪くなりかつての部下ピサロに捕らえられ反逆罪に問われ斬首刑(絞首刑とも)に処せられました。彼の人間性についてはいろいろと毀誉褒貶がありますが以前紹介した「パナマ地峡秘史」ではインディオ酋長の娘と交情をめぐってかなり同情に書かれています。
写真はパナマ市にあるバルボア像です。
今、閘門が閉じようとしています。
通行料の計算には色々な要素で計算されますが、平均して5.4000ドルです。これまで最も高額の通行料は2003年の豪華客船「コーラルプリンセス」号の22.6194ドル25セントでした。最低は1928年パナマ運河を泳いで通過したアメリカ合州国の冒険家リチャード・ハリバートンの36セントだそうです。