ナフパクトスからコリントス湾を渡りペロポネソス半島に上陸してオリンピアへ向かいました。
近代オリンピック発祥の元となったオリンピアはあまりにも有名で紹介の要は余りありませんがすこし触れて起きます。この地は神ゼウスを祀る神域で本来オリンピック競技はこのゼウスに奉納された神事でした。BC676年が第一回とされています。その後全ギリシア民族にとって重要な行事になりました。
しかしデルフィの場合と同じようにキリスト教が国教となり異教弾圧が厳しくなりAD393年を最後に競技大会はテオドシウス帝の勅令で廃止され諸神殿も破壊されました。1875年フランスの考古学者によって発掘されるまで地中に眠っていました。
写真は聖火を採火する所です。
2007年4月5日の地図をご覧ください。(地図は一回クリックしてすこし大きくなりますがその画面の右下に拡大のアイコンが出ますのでも一度それをクリックしてください)前回紹介したデルフィから南下してコリントス湾を渡りオリンピアのあるペロポネソス半島へ向かいます。その南下してコリントス湾に面したところを地図にはありませんが、ナフパクトスといいます。16世紀にはそこはレパントと呼ばれていました。そうなんです1571年のレパント沖海戦(注)のあった所なんです。
レパント沖海戦の名前はご存知の方は多いですが、意外にその場所は知らない方も多いようなので写真のように景勝地でもあるので紹介しておきます。なお、この海戦にはドンキホーテの著者として有名なセルバンテスが参加して左手を負傷したことでも知られています。そこでここに彼の彫像があるということなのでバスの運転手さんに尋ねましたが分からないということで残念ながら面会できませんでした。
(注) 1571年、オスマン帝国とヴェネチア、ローマ教皇、スペ イン、マルタなどのキリスト教国の同盟軍との間で戦われた海戦。この海戦を単純にキリスト教国の勝利(一般的には完勝とされています)とはいえないようですが、キリスト教国にとって欧州共通教科書(Illustrated history of Europe p240)が書いているように”This put an end to the legend of Ottoman invincibility” (オスマン帝国の不敗神話に終止符を打った)と感じたことは間違いないようです。
デルフィの遺跡から発掘されたものを展示してある博物館に行きました。有名なものを二つ紹介しておきます。写真は「青銅の御者の像」といわれているものでシチリア島からの奉納物でBC476年頃のものとされています。1896年発掘。
このような美術品は私には全くチンプンカンプンなのですが、この作品は美術史上かなり有名なようで高階秀璽監修の「西洋美術史」という学習入門書に次のように紹介されています。
「アルカイック美術の硬さと装飾性を払拭していないが、青年特有のしなやかさで生命力に満ちている。このようなクラシック様式初期段階の彫刻を厳格様式という」(p27)
アポロン神の神託が行われることによってデルフィはギリシア各都市国家の国際的外交の中心地になります。各都市はここに捧げ物を持ち込みます。
写真はアテネポリスの宝物殿です。写真の右下のプレートにはマラトン(マラソン)の戦いの勝利に対する謝辞が刻まれています。場所は前回の写真(デルフィ2)の右端にある建物です。
写真は前回紹介した「大地のへそ」とされた石です。もっともこれはレプリカで本物は博物館にあります。
ちょっと余談話ですが、ここでギリシア人と思われる若い観光客に“Can you speak English ? “ (英語は話せますか?)と尋ねられました。「アッレ」と思いました。というのは私の狭い経験によればヨーロッパでは必ず ” Do you speak English? “ (英語を話しますか?)なのです。アジア諸国では”Can ***” です。日本のNHKの「英語でしゃべらナイト」も” Can ***”です。私は常日頃”Can ***” には価値値踏み的ニュアンスがあるのに対して” Do ****” は没価値だと思っているのですが。それはともあれギリシアはヨーロッパでもすこし違うのかなーと思いました。そういえば、古代ギリシア文明はヨーロッパ文明の源流とされていますが、” It is Greek to me “(それは私にとってギリシアだ→チンプンカンプン)と言う英語があります。
古代ギリシア人にとってここデルフィは重要な地であったようです。ひとつは世界の中心「大地のへそ」がここだと信じられていました。もう一つはアポロン神の神託が行われました。神託を媒介するのはピューティアーと呼ばれる巫女でこの土地の50歳以上の百姓女で神がかりになりあいまいなことを口走りました。そこで全ギリシア(当時のギリシアは範囲が広く遠くシチリアまでも含みます)から政治問題、商売、結婚、家庭問題などの神託を求めて多くの人がやってきました。政治家の中には自分の都合の良い神託を得るため賄賂を贈ったという話もあります。ソクラテスの有名な「無知の知」もこの神託に関係あります。しかしローマ帝国のキリスト教国教化政策による異教徒弾政策で381年ここは閉鎖されます。19世紀末のなりフランス考古学会によって発掘されます。
写真はここデルフィをすこし下から遠望したものです。
アレキサンダー(アレクサンドロス)大王はあまりにも有名で紹介の必要はありませんがお墓が見つからないのは東の英雄?ジンギスカンと同じです。ところが彼の父フィリッポス2世と彼の息子アレキサンダー4世のお墓はヴェルギナ(07年4月5日の旅程図をご覧ください)に存在することが最近確定されました。(発掘は1972年)フィリッポス2世は息子のアレキサンダー大王が20歳の時、娘の結婚式の最中に親衛隊(ボディガード)の一人に暗殺されました。
その理由について「アレクサンドロスの征服と神話」(森谷公俊著)ではこの親衛隊員とフィリッポス2世の一人の青年をめぐる恋の恨み(同性愛 フィリッポス2世は両刀使い?)が原因と書かれていました。ところが現地ガイドの説明によれば、フィリッポス2世の妻は夫と仲が良くなく息子のアレキサンダーを早く帝位に即けるため仕組んだことだということでした。そこで日本に帰って調べてみると古来この両説は喧々諤々のようです。森谷氏が何故片方の説だけを断定的に書いているのかは私には良く判りません。