ハンガリーの東部にプスタと呼ばれる大平原が広がります。ここは、馬と共に生きる先祖が騎馬民族のマジャル族の原風景でありハンガリーの人々の心の故郷ともいえる地です。というわけでわたくしたちも馬車で観光。(写真上)ここには乗馬学校もあります。(写真中)竹竿のようなものが見えますがこれは「つるべ井戸」です。父子が楽しんでいました。
人口19万人、ハンガリーでは第4の都市ペーチを訪れました。1543年から150年にわたってオスマン帝国に占領されて今もその影響が色濃く残っていて、モスクなどが観光対象になっていますが、わたくしはここでもシナゴーグが気になりました。ナチスによる大虐殺以前はユダヤ人約4000人が住んでいましたが88%が犠牲になりました。現在の人数は不明ですが、ナチスの大虐殺によって亡くなった人を偲んで、いつまでも忘れることのないようにシナゴーグには写真左に見られるようにろうそくの火がともされ消えることはありません。
人口5万7千人の小さな町ショプロンですが、日本語版の観光ガイドブック(28p)あったのには少しびっくりしました。(写真上)「ショプロンのガイドブックはこれまでハンガリー語やドイツ語が主で、日本語版はこのガイドブック初めてのものです[山田1]」(p1)と紹介されていました。
写真左下はショプロンのシンボルとされている「火の見の塔」です。「**火の見の塔の番人は塔の隣の家に住んでいて、火事が起きた時や終わったときは勿論、敵が接近してきた時、貴族が来た時、又ほかの町のワインが入荷する時も合図を(私注―ちょっと面白いですね。理由は?)しなければなりません***」(ガイドブックp2)
なお、この塔の下部に「忠誠の門」があります。この町は近世ではオーストリア=ハンガリー帝国でしたが、第一次世界大戦後、町の帰属は住民投票で決められことになりました。1910年の統計ではドイツ語住民の方がハンガリー語住民より多かったのですが、1921年の住民投票では65%がハンガリーに投票しました。そのことを記念して「忠誠の門」が作られました。
写真右下はシナゴーグ跡です。1526年ここショプロンからユダヤ人は追放されました。現在7人のユダヤ人が住んでいるそうです。(添乗員田村さんのメモ)
スロヴァキアの観光は首都ブラチスラヴァだけで、ハンガリーに入りました。日本では「ハンガリー」ですが、正式な国名はカタカナ発音で「マジャル・オルサーク」(略してマジャル)です。なぜ日本語でハンガリーと呼ばれるようになったのかはわたくしには不明です。したがって彼らへの呼びかは「マジャル人」です。人口の86%がマジャル人です。言語は他のヨーロッパ人の「インド・ヨーロッパ語」ではなく「ウラル語」です。ルーマニアのマジャル人村で「マジャル」といって大変喜ばれたことがありました。
ついでに余談話。南アフリカの「ボーア人」はオランダからの移住民です。「ボーア」はオランダ語で「農民」を意味します。彼らは」「ボーア人」と呼ばれていますが、自称は「アフリカーナー」です。かって南アフリカの近郷の国で「あなたはアフリカーナ―ですね」といったところ大変喜ばれて抱きつかれたことがありました。
さてハンガリーの最初の訪問地は人口6000人のフェルテードでした。観光名所はエステルハージ宮殿でした。(写真)ここでヨゼフ・ハイドンが「マリアテレジア」などを作曲したことで有名です。
1993年チェコ・スロヴァキアから分離独立したスロヴァキアに入国し首都ブラチスラヴァの観光です。
この町はドナウ川に面しています。(写真上)ヨーロッパの都市の多くは城塞都市に起源をもちます。ブラチスラヴァも城塞都市に起源をもちます。したがって城門がありました。かって4つありましたが現在残されているのはゴシック様式のミハイル門だけです。(写真左下)写真右下はカトリックの聖マルティン教会です。
1805年ナポレオンのフランス軍がオーストリアとロシアの連合軍を撃破したアウステルリッツ(ドイツ語、チェコ語ではスラフコフ・ウ・ブルナ)を訪れました。写真左は記念碑です。写真右上は展示館で見た当時の大砲です。ここから南下してスロヴァキアに入国しました。(写真右下は国境)
3つの池に囲まれ世界遺産に指定されているテルチの町を訪れました。写真下は「ザハリアーシュ広場です。1530年この町は全焼し当時の市長ザハリアーシュが建物をすべてルネッサンスおよび初期バラック様式で建設を呼びかけました。そこでザハリアーシュ広場と名付けられました。一時(1945~1957)スターリン広場と呼ばれていました
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付録 安倍元首相装暗殺について
このブログの7月17日に「旧統一教会」の名前が当初公表されなかったのはなぜかと書きました。名前がマスコミなどで公表されたのは選挙の2日後でした。私の知人は名前がご公表される前に「安倍さんが殺されて自民党がかわいそうだから自民党に投票した」とわたくしに述べていました。その後名前が明らかになった後わたくしに「バカだった、自民党に投票したのは」
というわけで最初名前が公表されなかった理由は単純でしたね。マスコミもわかっていて公表しなかった理由は自民党に考慮したのでしょうね。
一般に暗殺事件は騒がれる割にはその後の歴史にはあまり影響がありません。例外として第一次世界大戦の発端となった暗殺事件があるくらいです。ところが今回の暗殺事件はかなり日本の歴史を動かしているように見えます。しかも良い方向で。とすれば、この暗殺下手人は歴史を動かした英雄ですね。皆さんどう思われますか?
数奇な歴史の持つ世界遺産の村ホラショヴィッチェを訪れました。
1520年から1525年、ホラショヴィッチェはペストの大流行に見舞われ、生き残った住民はわずか2名でした。写真中に見える円柱はこの時の追悼碑です。その後1895年の統計によればドイツ系住民157人、チェコ人19人となりました。しかし第2次世界大戦後ドイツ系住民は追放されホラショヴィッチェは荒れ果てました。1990年より村は修復され現在の人口は140人程度です。建物は19世紀後半のもので建築様式は南ボヘミア地方特有のバラック様式です。
1992年に世界遺産に指定され世界で最も美しい街の一つとされているチェスキー・クルムロフを訪れました。写真左上は展望台から見た中世の薫りただようチェスキー・クルムロフの町並みです。写真右は13世紀に造られたチェスキー・クルムロフ城です。写真左下は聖ヴィータス教会です。
付録 先日ゴルバチョフ死去の報道がありました。ゴルバチョフの名前を聞くたびに思い出すことがあります。2017年1月11日に紹介しているのですが再録します。
私にはいろんな悪い癖がありますが、其の一つに海外旅行中に”You look like ****”
と言うことがあります。大失敗のことがあります。アゼルバイジャンの飛行機の中でのことでした。”You look like Gorbacheh (ゴルバチョフ)“とやったとたん、相手は血相を変えて怒り出しました。英語でしたが英語の苦手の私には良くわかりませんでしたがどうやら「ゴルバチョフはソ連邦を崩壊させた元凶だ!」と言っているようでした。怖かったです。(後記、妄想、ひょっとして、この人はプーチンだったかも)(2003年5月)
これに対してアフリカでは何処でも”You look like Mandela”は大好評でニコニコして握手をしてくる人もいました。皆さんアフリカで試してください。