100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「ロシア・ウクライナ・バルト3国」編 リトアニア3 杉原千畝

2022年02月26日 07時54分07秒 | バルト三国

2005年12月13日の修正追加再録です。
リトアニアのヴィリニュスからカウナスへのバスは感動の涙でいっぱいでした。添乗員田中啓介さん(知識、気配り、統率力、三拍子そろったすばらしい添乗員でした)の「6千人の命のビザ」(杉原幸子著)の朗読でした。
 杉原幸子さんの夫千畝さん(1900~1987)についてはテレビでも放映されたこともありご承知の方も多いいと思いますが簡単に紹介しておきます。 1940年7月18日、第二次世界大戦のさなか、リトアニアのカウナスに置かれていた日本領事館前に突然の人垣ができました。彼らはナチスに追われポーランドから逃れてきたユダヤ人でした。ユダヤ人の望みは日本通過ヴィザでした。彼らの生きる道はシベリア→日本→アメリカ大陸でした。
 当時の領事代理の杉原千畝氏はヴィザ発給の許可を求める電報を幾度も日本政府に打ちますがその答えは「否」でした。当時の日本はナチスドイツの同盟国でした。 「私の一存で彼たちを救おう。そのために処罰を受けてもそれは仕方がない。人間として信念を貫かねば」と決意しました。 その後、約半月(一説には1か月)の間、二人は(幸子夫人)腕が動かなくなるまでヴィザを書き続けました。その数約3000、日本経由で助かったユダヤ人は約6000人といわれています。
 帰国した彼はその罪を問われ戦後外務省を離れます。(外務省を退官したのはそのことが理由ではないという説もあります) その後これらの経緯については殆ど忘れ去られていました。1960年代にイスラエルから感謝の気持ちが伝えられ次第に彼の業績が明らかになってきました。
 外務省を離れて後貿易会社に勤められました。そのとき一緒に仕事をした人が偶然旅の同行者にいました。彼女(某著名マルクス主義哲学者の娘さん)は私にだけそのことを明らかにして「彼は大変重要な仕事をした人とは聞いていたが具体的な事は本人も何もおっしゃらないので最近まで詳しいことは何も知りませんでした。物静かな温厚な方でした」と教えてくれました。
 写真右上は首都ヴィリニュスにある記念モニュメントの表示です。写真右下は杉原千畝が執務していたカナウスにあった旧日本領事館(現博物館)で写真左下はその内部です。
 写真左下は不鮮明ですが2010年にイスラエルに旅行した時にエルサレムで撮影したものです。ヤド・ヴァシェム(ホロコースト歴史博物館)の庭園にヤド・ヴァシェムより「諸国民の中の正義の人」の称号を贈られた人を記念しての植樹があり杉原千畝のプレートです。


「ロシア・ウクライナ・バルト3国」編 リトアニア2 血の日曜日事件

2022年02月23日 07時52分57秒 | バルト三国
 
 2006年1月26日の修正追加再録
 1991年1月ソ連邦からの離脱を求めたリトアニアに対してソ連邦政府は武装部隊を送りました。そのとき首都ヴィリニュスの議事堂を守るため数万人が集まり抵抗をしました。そのときに造られたコンクリート・バリケードが記念に残されていました。(写真) 現地ガイドもこれに参加したと話してくれました。
 なお「血の日曜日事件」と表しましたがリトアニアでは「1月事件」あるいは「1月13日事件」と呼ばれています。
「血の日曜日事件」という名称はロシア1905年第一革命のきっかけとなった事件がよく知られていますが、なんだか皮肉ぽいですね。
 今年1月12日の朝日新聞に「リトアニア×中国 続く対立」という表題の記事がありました。その記事の一部をつまみ食いすると。「自由と人権を重んじて台湾への接近を図るリトアニアに対し、中国は**」「リトアニアには、ロシア帝国やソ連の侵攻や支配を受けてきた歴史があり、人権侵害や覇権主義的な動きへの問題意識が高い」
 この「血の日曜日事件」の世界史的意義は大きいですね。
 最近のウクライナ問題の一番の問題はウクライナのNATO加盟問題ですがリトアニアは2004年に加盟しています。


「ロシア・ウクライナ・バルト3国」編 リトアニア1 首都ヴィリニュス

2022年02月20日 07時52分47秒 | バルト三国

 キエフからリトアニアの首都ヴィリニュスにプロペラ機で向かいました。ヴィリニュスは16世紀に外敵の侵入を防ぐための城塞都市で9つの城門がありました。18世紀末に8つの城門が取り壊され残された一つが写真左上の「夜明けの門」です。
近くの「木彫り職人」の中庭を観光しました。(写真右上)
 珍しいマリア様に出会いました。(写真左下)このように自然の中(この場合は樹木)に囲まれたマリアさんは珍しいと思います。日本や東南アジアでは神仏が木々に囲まれていのが普通ですがキリスト教ではめったにありません。教会が木々に囲まれていることもありません。日本では普通のことです。かって一度だけ木々に囲まれたマリアさんを見たことがあります。マケドニアで出会いびっくりして2010年11月9日に紹介しています。
 写真右下はヴィリニュス建国の祖とされているゲディミナス公の像です

「ロシア・ウクライナ・バルト3国」編 キエフ4

2022年02月17日 07時53分00秒 | ウクライナ

 キエフ最後の観光はドニエプル河のクルージングでした。(写真上中)その後リトアニアに向かいました。キエフ空港で可愛い坊やに出会いました。(写真下)
 最近ウクライナ情勢が緊迫しマスコミが毎日報道をしています。しかし、不思議なことは肝心のウクライナ国民の声がほとんど報じられていないことです。今回の(2006年)の旅行ではロシアとウクライナの関係について何も知ることはできませんでした。しかし2012年の「ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ」の旅では政治的なことは別にして一般民衆の対ロシア感などを少し知ることができました。それについては2012年5月14日〰8月18日の「ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ」の中で少し触れています。そこで関係部分を再録しようと思ったのですが、長くなるのでやめました。そこで関係部分の日付のみを再録します。ベラルーシについては2012年6月19日、8月18日。ウクライナについては2012年6月22日、6月22日、6月25日、6月28日、7月4日、7月25日、6月15日です。 興味のある方は左の欄のバックナンバーで日付を検索してご覧ください。マスコミでも報道されていない話があります。
ついでに余談話をもう一つ。
第二次世界大戦後の国際秩序の枠組みを確立した1945年のルーズベルト、チャーチル、スターリンの会談が行われたのはウクライナのヤルタでした。それについては2012年7月16日、19日、22日、25日28日、31日に紹介しています。


「ロシア・ウクライナ・バルト3国」編 キエフ3 付録 建国記念の日

2022年02月14日 07時53分04秒 | ウクライナ

写真上は歴史文化財博物館の壁にあるBC7世紀〰BC3世紀にかけて黒海北岸に強大な遊牧国家を建設したスキタイ人の石像「ババ」です。
写真中下は「キエフで一番チャーミング通り」(地球の歩き方p256)「アンドレイ坂」で見かけた風景です。写真下は弦が60本前後もあるウクライナ民族弦楽器バンドゥーラを演奏する大道芸人です。現在日本でもバンドゥーラ奏者として活躍するウクライナ出身の女性歌手ナターシャ・グジーがいます。わたくしは知りませんけれど。
アンドレイ坂については2012年{ウクライナ・ベラルーシ・モルドヴァ}を旅した時再度訪れ2012年9月26日に紹介しています。
付録 建国記念の日
 わたくしは1週に一度養護施設にお世話になっています。先日の11日が週に一度の日でした。暦で「建国記念の日」となっていますね。利用者、職員の誰一人(20代〰90代)としてその由来を聞いても知っている人はいませんでした。そのうちの一人(30代前半)の返事にびっくり感動をしました。「現在の憲法ができた日でしょう」間違いですが大正解ですね。現憲法の精神が国民にどの程度浸透しているのかと常日頃思っていましたが。そうです、5月3日を「建国記念の日」すべきですね。「紀元節」でもいいですね。最近の一番うれしい気分の一日でした。皆さんどう思われますか。ぜひコメントをください


ロシア・ウクライナ・バルト3国」編 キエフ2

2022年02月11日 07時53分25秒 | ウクライナ

 写真上はホテルから見たキエフの町です。写真中はキエフを流れるヨーロッパではボルガ川、ドナウ川に次ぐ第3の大河ドニエプルです。
キエフでもたくさんのキリスト教会を観光しました。聖アンドレイ教会、聖ソフィア大聖堂、ペルチェルスカヤ大修道院などです。ちょっと食傷気味です。そこで今回はそれらを省略して写真下のような風景で代用します。
余談話 横綱大鵬の父親はウクライナ人です

「ロシア・ウクライナ・バルト3国」編 キエフ1 赤恥笑い話

2022年02月08日 07時52分41秒 | ウクライナ

 「黄金の環」観光を終えてモスクワに戻り一泊してウクライナの首都キエフに向かいました。ウクライナではキエフの一日だけの観光でした。そこでわたくしは大恥をかきました。そのことについて2005年11月23日に紹介済みですが今回一部修正追加して再録します。
写真はキエフのドニエプル河畔での新婚さんです。私はここで大恥をかきました。事前にバスの中でドニエプル河畔には新婚さんがたくさんいるとの情報が入っていました。この地方では結婚式のあとドニエプル河畔で写真を撮る習慣があるそうです。そこで私は現地ガイドに「結婚おめでとう」をウクライナ語でどういうのか教えてもらいました。ところが語学音痴でなかなか覚えられません。その間同行の人は覚えてしまいました。とうとう言いだしっぺの私だけがバス下車まで覚えることができなく、皆さんに馬鹿にされました。バスから降りて同行の皆さんは覚えたての「結婚おめでとう」を乱発して引き出物?(お菓子だったかな?)をもらいました。私は皆さんに遅れなにももらえませんでした。

「ロシア・ウクライナ・バルト3国」編 ウラジーミル

2022年02月05日 07時53分37秒 | ロシア

 「黄金の環」の最期の訪問地はウラジーミルでした。草原の地を回っていくつかの教会などを訪れました。(写真左上)子供たちにも出会いました。(写真左中)何を見ているのかな。
 訪問した教会を一つだけ紹介します。1165年創立のポクロフ・ナ・ネルリ教会です(写真左下と右)「湖に映る白亜の姿が美しい。ロシア建築の白鳥といわれている」(「地球の歩き方」p130)そうですが、残念ながらわたくしのカメラには映っていませんでした。
 Saitosekai””popra”さん木造建築についてのコメントありがとうございました。そこで思い出したのは2020年10月8日に紹介した1666年のロンドン大火により木造建築が禁止になった話です。したがってロンドンで木造建築に出会えばそれは1666年以前の建造物であるということです。詳しくは2020年10月8日のブログをご覧ください。