写真のグラチャニツァ修道院(世界遺産)はセルビアとコソボの対立の象徴的存在です。
海外旅行はどこの地域でもその歴史的背景を知らなければ興味、理解は半減します。しかもこのバルカン地方は歴史が複雑だけにその理解が無ければ半減どころか、10分の一の楽しみもないように私は思います。
というわけで、この地の歴史を単純化して最初に紹介しておきます。
古代は省略します。中世に入り東からはオスマン帝国がこの地に勢力を伸ばしてきます。西からはオーストリア帝国が、そして在地の勢力と三つ巴の争いになります。その後ほぼ全域がオスマン帝国の支配下にはいり、近代に入りオスマン帝国からの独立運動が始まります。独立運動は近隣列強の思惑とお互い同士の勢力争いが絡み複雑な様相を呈してきます。第2次世界大戦では連合軍(イギリスなど)と枢軸国(ドイツ、イタリア)との複雑な同盟、対立がありました。この地域での対立抗争を一つにまとめたのがチトーでその国が前回紹介したユーゴスラビアでした。
さてこのグラツァニツァ修道院の話はオスマン帝国がこの地に侵入して在地のセルビア人と戦いオスマンが勝利をしたコソボの戦い(1389年)に始まります。この時のセルビアの指導者ラザル侯はオスマンにとらえられ斬首されます。その首が40年後に現れ、コロコロとこの修道院に転がり込みます。このコソボの敗北の屈辱はセルビア人にとってラザル侯は民族的英雄であり、ここコソボは民族の故地となりました。
しかしその後のオスマンの支配でしだいにイスラーム化しイスラーム教徒のアルバニア人が1857年には人口の70%以上を占めるようになります。そして19世紀にはこの地はアルバニア人の国家統一とオスマンからの独立の拠点になります。
というわけでこの地はセルビア人にとっては心の故郷であり、アルバニア人にとってもそれは同じであったわけです。しかしユーゴ解体後はセルビア国の一部として残され、コソボ紛争が起きました。そして前回紹介したように2008年の独立宣言になりました。
その後のラザル侯の遺体についてもう一言。
「1988年~89年にかけてコソボの戦い600周年にかけての時期、当時のミロシュヴィチ大統領がラザル侯の遺体を先頭にしたセルビア人の行列を組織し、セルビアとボスニア各地のセルビア正教会の修道院を巡回させてセルビア・ナショナリズムを煽ったことはよく知られている。セルビアでは中世の王国の神話が現在でもなお生き続けているのである」。(「バルカンをしるための65章」p25)
写真の人物はこの地に住むセルビア人で修道女の通訳をしてくれました。またこの修道院はかなり多数の国連兵士(ノルウェー人)で警護されており内部は撮影禁止でした。左に小さく見える人物が兵士の一人です。
現在のコソボの民族構成はアルバニア人92%、セルビア人4%、その他ロマ人などです。アルバニア人の大部分はイスラーム教徒で、セルビア人はセルビア正教徒(キリスト教の一派)です。