内を拝見。誰もいませんでしたが、私の話を聞いて後に見に行った人の話では沢山の人たちが御祈りをしていたそうです。イスラーム教徒の日本への観光客が最近増加しその対応策をマスコミが色々報道していますが、成田空港にも祈禱所ができる日も近いかもしれません。
今回で「ブータン」編を完結し、次回からは「マダガスカル」の続編とします。
内を拝見。誰もいませんでしたが、私の話を聞いて後に見に行った人の話では沢山の人たちが御祈りをしていたそうです。イスラーム教徒の日本への観光客が最近増加しその対応策をマスコミが色々報道していますが、成田空港にも祈禱所ができる日も近いかもしれません。
今回で「ブータン」編を完結し、次回からは「マダガスカル」の続編とします。
そこで物好きな私はさっそく祈祷所に出かけてみました。その時、本題とは逸れますが、空港内の表示文字が「祷」という文字のみならず、すべてが日本と同じの「旧」?漢字で、中国本土で用いられている簡体文字でないことに気付きました。香港では中国本土とは違っているようです。
「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もないーこれが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。(中略)私は日本に来てから、汚い貧乏人をまだ一度も見ていない」
上記の文章の「日本」を「ブータン」に置き換えると私のブータンの総括的印象記になります。
この文章は幕末から明治初期にかけての「逝きし日本の文明」を来日した外国人の手記を主な資料として活写した「逝きし世の面影」(渡辺京二著)に引用された初代アメリカ駐日公使ハリス(1804年~1878年)の「日本滞在記」の一節の孫引きです。
私は幕末から明治初期にかけての日本と現在のブータンとがなんとよく類似してかとこの大冊「逝きし世の面影」を読みながら思いました。
ブータンへお出かけの予定がある人、すでに行かれた人たちにこの「逝きし世の面影」をお勧めします。
写真は世界一幸福なブータンの人たちです。なお中央に見えるのはマニ車です。マニ車については2011年10月10日、13日、16日をご覧ください。
典型的なブータンの風景をもう一枚。日本語では道路などが幾重にも曲がっていることを七曲がりといいますが、ここは写真中央の村への道は13回折れ曲がっています。このようなところはブータンでは珍しくありませんが、全体を俯瞰できるところはあまりないので紹介しておきます。
ブータンと日本の友好関係で見逃すことのできない日本人に今枝由郎氏(1947~)と西岡京冶氏(1933年~1992年)とがいます。このブログにも今枝氏の著作から沢山引用させていただきました。
彼の専門はチベット歴史文献学で1981年~1990年にブータン国立図書館顧問として図書館建設に尽力しました。日本で(現在はフランス国籍ですが)最もブータン理解の深い人です。写真はその図書館の書庫です。
西岡京治氏は1964年「国際協力機構」からブータンに派遣され現地で死亡する1992年までブータン農業発展のため尽くし「ブータン農業の父」といわれます。ブータン国王から「最高に優れた人」を意味する「ダショー」の称号を贈られ、現地ではダショー・ニシオカとも呼ばれています。ガイドブックによれば彼を記念したチョルテンがあるそうですが、残念ながら今回の旅行では出会うことはできませんでした。
パキスタン旅行の時、同行の一人に兵庫県の高等学校の体育教師だった人がいました。彼の専門はバスケットで定年退職後ブータン政府の要請で1年間ブータンに滞在してバスケットの指導をしたそうです。このようにブータンと日本との関係は多方面にわたっているようです。
パロからティンプへ向かう途中で製紙工房を見学しました。この工房にブータンと日本の友好のビラが張られていました。この工房には日本の紙すきの技術も加わっているそうです。
添乗員安原さんが指差しているのがチョモラリ山ですが、私には良くわかりませんでした。なおこの山の標高は7326m、7321m、7314mと色々説があってはっきりしません。
ブータンでの最高峰は7570mのガンカ・プンスムですが現在世界最高の未踏峰です。
未踏峰である理由については2011年10月7日に紹介しているのでご覧ください。
余談話
今日の朝日新聞の「文化の扉 歴史編」でゲバラが取り上げられ、来日までは書かれていましたが、広島の原爆慰霊碑に献花したことが取り上げられていないのは残念でした。このブログ2013年4月20日をご覧ください。