百済最後の都扶余へ向かいました。百済は660年新羅と唐の連合軍にこの地で敗れ滅亡します。その時捕虜になることを潔しとしない宮女3000人が扶蘇山の崖から身を白馬江に投じて命を絶ちます。この崖は後に「落花岩」と名付けられました。写真はその近くにある追悼のお寺におかれていた絵画です。
公州から百済最後の都、扶余へ向かいました。
日本の飛鳥寺のモデルになった定林寺の跡を訪れました。この建築の物差しが百済尺でそれがなまって鯨尺になったという説があります。(新版 日本文化と朝鮮p72)
残念ながらこのお寺は百済の滅亡(660年)と共に破壊され現在残っているのは写真の五層石塔と石仏だけです。この石塔に「大唐平百済国銘碑」の文字が刻まれています。(残念ながら私は現認できませんでした)唐が百済を平定したという記念碑というわけです。これを崔碩義氏は韓国の二つの国辱遺跡碑の一つと慨嘆しています。(韓国歴史紀行p118)
それに対して、司馬遼太郎氏は「朝鮮人の人の好さを示す証拠かもしれない。破壊するか、碑文を欠き落としてしまうというほどの乱暴者が、***一人でも出てよさそうなものだと思うが、***その後の朝鮮史における中国の重みと中国への遠慮を物語る機微といえるかもしれない」と評しています。(韓のくに紀行p257)
なお、写真は私のは肝心の上部が写っていなかったので韓国観光公社のホームページからの借用です。
Fengdanさんいつもコメント有難うございます
朝鮮半島(韓国では韓半島)で国家体制が整備されてくるのは高句麗(BC37~AD668 )、百済(BC18~660)、新羅(BC37~935)のいわゆる3国時代でこれらの国が日本の古代国家・ヤマト政権に多大の影響を与えたことは日本各地に百済、高句麗の地名が沢山あることでもよくわかります。なかでも百済が特に大和政権の飛鳥文化の形成に深く関係していることもよく知られています。また、蘇我氏=百済からの渡来人説もあります。(日本古代史の碩学・門脇禎二説)
現地ガイドがジョークで「くだらない」が「百済ない」、すなわち「くだらない」の語源は「百済から来たものではないもの」からきているという話をしてくれました。なかなか面白い話でヤマト政権では本当にそう言われていたような気がしてきました。
教科書風にいえば513年百済武寧王が五経博士をヤマトに送り儒教が伝わり、その子聖明王が538年仏像と経典を送り仏教伝来ということになります。
その百済の故地、公州コンジュと扶余プヨを訪れました。
公州では武寧王稜を観光しました。ここは宗山里古墳群と呼ばれ7つの古墳がありその一つが武寧王稜で1971年偶然に発見され盗掘に遭っていなかったため豪華な副葬品が大量に出土したことでも有名になりました。残念ながらこの王稜そのものは非公開です。
武寧王の子孫が日本に渡来し桓武天皇の母になった話は続日本紀に記述されていますが最近、天皇がその話をしたことで世間一般にもよく知られるようになりました。
「韓国」編 鎮海の帝皇山公園には日本の植民地時代(韓国では日帝時代)に「日本海海戦記念館」がありました。もちろん8月15日以降取り壊されました。そこに日本語と韓国語で説明した次のような内容の掲示板を建ててはいかがかと「ある日韓歴史の旅」の著者竹国友康氏はこの本の締めくくりというような意味で提案しています。
「1904・5年の日露戦争期に、日本海軍は鎮海湾一帯を制圧下におき、当湾に結集した連合艦隊は海戦演習を重ねたのち、バルチック艦隊との決戦に出撃した。この戦争での日本の勝利は、しかし、韓国に対する日本の支配のいっそうの強化をもたらした。ここ鎮海では1910年から日本海軍が軍港都市の建設を開始し、建設用地に住んでいた韓国人は市街地からへだたった慶和洞地区へ集団移住させられた。この階段は、1929年に日本海軍が日本海海戦記念館を帝皇山山頂に建てた際、『明治37・8年戦役』(日露戦争)あわせて、下部が37段、上部が38段となるように作られた当時のものである」
ついでに、ちょっと余談噺を。日本の日露戦争での軍事行動の始まりは1904年の2月8日の仁川上陸からからとされていますが、実際は2月6日の鎮海占領からです。和田春樹氏は近著「日本と朝鮮の100年史」(2010年)でどの本にもそのことを書いていないと述べていますが、竹国氏はすでにそのことに触れています。(1999年)
3 37・38段の階段はすでに無くなっていました。このことを含めて現地ガイドからはこれらのことについて一切の説明はありませんでした。全体の階段が365あるという話だけはありました。現地ガイドは37・8段の階段の話を知らなかったのでこの竹国氏の文章のコピーを渡しておきました。余計なお節介だったかな。
写真は公園に登る365段の階段です。