ウクライナ情勢がますます緊迫しマスコミが毎日報道をしています。2月12日に以下のようなことを書きました。
「今回の(2006年)の旅行ではロシアとウクライナの関係について何も知ることはできませんでした。しかし2012年の「ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ」の旅では政治的なことは別にして一般民衆の対ロシア感などを少し知ることができました。それについては2012年5月14日〰8月18日の「ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ」の中で少し触れています。そこで関係部分を再録しようと思ったのですが、長くなるのでやめました」
しかし考え直して2012年の体験を修正再録をすることにしました。
まずはリヴィウから。
リヴィウはポーランドに近くウクライナでは地理的には辺境になりますが、最もウクライナ色が強くロシア語が通じにくい地域とされています。ウクライナ民族主義の拠点とされています。
3月4日の朝日新聞の記事は「ポーランド国境まで車で約1時間半のリヴィウは、外国人を含めた多くの人たちの退避場所や国外脱出の中継地点になっている」
そのリヴィウの夜、ホテルでの夕食を終え一杯機嫌で散歩に出かけました。ホテルにほぼ隣接する市民の憩いのリノック広場がありました。多くの市民が夜の憩いを楽しんでいました。写真のような若い家族連れに出会いました。ウクライナ語の挨拶言葉を書いたメモを見ながら挨拶を交わし後は片言の英語でおぼつかない会話を交わしました。彼らはウクライナナショナリストであることが分かりました。ロシア語でなくウクライナ語での挨拶でよかったと後で思いました。この家族は今?
その時以前ソ連邦の一員であったウズベキスタンの首都タシケント空港でのことを思い出していました。
パスポートチェックの時係りの女性に「スパシーバ」(ロシア語のありがとう)というと彼女は間髪を入れずに、しかし、にこやかに「ラフマット」(ウズベキスタン語のありがとう)と訂正してくれました。次の「ダスビダニア」(ロシア語のさよなら)にも、「ハイール」(ウズベキスタン語のさようなら)とすばやく、毅然として、笑みを浮かべながら、訂正してくれました。