以下柳寛順ユガンスンについての記述は主に「観光コースでない韓国」によります。
天安(3月29日の旅程図では扶余と水原華城の中間点にあります)で生まれた彼女は3月1日当時ソウルの梨花学堂(名門梨花女子大学の前身)3年生16歳でした。同級生たちと小遣いを出し合って太極旗を作りデモに参加する準備をしていましたが学校側は参加を禁止し、キャンパスからでることができませんでした。学校は休校になりました。彼女は故郷に帰り地元の有力者と相談して旧暦の3月1日にあたる4月1日を蜂起の日と決めます。当日数千人のひとが集まり「独立宣言」が朗読され、続いて柳寛順は次のように訴えました。
「我々は四千年の輝かしい歴史をもつ独立国家の民です。しかし、倭奴の弾圧を受け国を失い10年の歳月を圧迫されてきましたが、今回フランスのパリで開かれた講和会議で世界弱小民族に自由と解放が与えられようとしています。海外の我が革命家は代表キムキュシク博士を送って我々の願いを世界に訴えています。この時我々が黙っていていいのでしょうか。去る3月1日ソウルで我々は堂々たる自主独立国家であることを宣言し、独立万歳の叫びは三千里の村々にかけることなく伝わっています。我々が脱落していいものでしょうか。みなさん我々も独立をかちとるための万歳を叫びましょう」
この集会は日本の憲兵に弾圧され彼女の両親は虐殺されました。彼女自身は逮捕されソウルの西大門刑務所に送られ拷問を受け獄死します。現在この刑務所は歴史館として保存されています。最後の言葉は「日本は必ず滅びる」だったと言われています。韓国の小学校の教科書は10ページにわたって彼女を取り上げています。
前述のように彼女の生家(記念館になっています)は天安にあります。今回のツアーコースから少し横にそれれば訪問可能だと思いおねがいしましたが拒否されました。時間的にも十分可能だと思ったのですが。韓国人の愛国心に期待した私が馬鹿でした。資本の論理には勝てません。
写真は西大門刑務所歴史館にあった彼女の肖像です。なおこの歴史館はツアーコースにはなかったので自由時間を利用して訪れました。後日紹介します。
Fengdan さんいつもコメント有難うございます。ご質問は私の今回の旅行のテーマでもありますのでこれから少しずつ考えていきたいと思っています。