王宮内部からみた庭園です。「米欧回覧実記」は王宮内部については触れていなくてこの庭園には2ページ近くを割いています。「苑ハ、北ニ山ヲ負ヒ、地ヲ占ムル甚ダ広ク以テ巧ヲ尽シテ、庭苑ノ趣ヲ装成ス」(p322)
ナポリから約22km北にあるカゼル王宮を観光しました。日本のパックツアーでは比較的訪れるのは少ないようですが、世界遺産にもなっており160年前の「岩倉使節団」もここを訪れています。18世紀スペイン・ブルボン王朝のカルロス3世がヴェルサイユ宮殿をモデルに作らせた宮殿です。幅250mに及ぶファサード、1200の部屋、1790の窓、34の階段という王宮です
前々回紹介したように1996年にはバスを降りての観光はできませんでしたが今回は治安もだいぶ良くなっているということで所々バスを下車しての観光ができました。写真は海岸通りから見たヴェスヴィオ火山と卵城です。ヴェスヴィオ火山は良く知られているようにポンペイの悲劇をもたらした元凶です。前回紹介した鹿児島が「東洋のナポリ」と呼ばれたのはこのヴェスヴィオ火山と桜島の存在がありました。私が毎日見ている桜島とよく似ています。「米欧回覧実記」(岩波文庫4 p327)は「此府ニ高名ナル名勝三アリ」として第一にヴェスヴィオ火山をあげています。
また「米欧回覧実記」(p329)に「此府中モ古跡多シ、海湾ニ斗出セル一小島に、岸壁ノ古城アリ」と書かれているのが卵城と思われます。「地球の歩き方」(p66)には12世紀ノルマン人によって建てられたと書かれていますが、現地ガイドは紀元前1世紀と説明しました。Lonely planet日本語版(p636)によれば「ローマ時代の邸宅があった場所に12世紀ノルマン人」と書かれていました。
呼び名の由来はローマの詩人ウェギリウスが「城の基礎に卵をうめ、卵が割れるとこの城は攻め落とされると」と予言したことからきています。
この「鹿児島通り」から車で20分ぐらいのところには「鹿児島広場」があります。
「鹿児島広場は、日本の建築士 丹下健三氏が設計したナポリ市の新都心地区の一角に設置された広場で、2010年の姉妹都市盟約50周年を記念して命名されたものです」
下部にあるプレートには“LARGO KAGOSHIMA CITTA GEMELLATA CON NAPOLI QUARTIERE POGGIORELE “ と書かれています。
私は今、鹿児島市に住んでいます。鹿児島の市街地に「ナポリ通り」と名付けられたところがあります。それは鹿児島市がナポリと姉妹都市だからです。そこでナポリには「鹿児島通り」があるのではないかと尋ねてみました。存在しているということでしたが、ツアーコースからはかなり外れているということなので、行くことができませんでした。そこで帰国後鹿児島市当局に尋ねてみました。すると鹿児島市国際交流課の中村さんから写真とその説明が送られてきました。そこで写真と中村さんの説明をこのブログで紹介することにしました。
まず姉妹都市の始まりから。
「鹿児島は古くか『東洋のナポリ』と呼ばれており、1955年ごろから両市民の間で文通が始められ、姉妹都市盟約の機運が高まっておりました。このような中、ロンドンタイムズ東京支局長などの努力もあり、1960年5月3日に姉妹都市盟約の宣言がなされました」
写真は「鹿児島通り」です。
写真はポンペイの有力一族ファウヌス家で発見された「アレクサンドロス大王の戦い」のモザイクです。有名なマケドニアのアレクサンドロス大王の東方遠征の戦いを描いたものです。左がアレクサンドロス大王で右がペルシアのダレイオス3世です。BC333年のイッソス戦い、またはBC332年の戦いと思われます。その後、BC324年ダレイオス3世の王女とアレクサンドロス大王は結婚することになりあます。
今回最初の訪問地はナポリでした。「ナポリを見て死ね」という言葉があります。昔からある言葉のようで岩倉使節団の報告書「米欧回覧実記」(注)でも「以国人ノ諺ニ、那不児ヲ一覧シタル後ニ死ナント謂フトナリ」(岩波文庫「米欧回覧実記4」p327)と記せられています。
(注)このブログの2007年3月18日に(注)として紹介していますが、その一部をここに再録します。
「岩倉使節団は、明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合州国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団です。岩倉具視を正使とし、政府のトップ(実力者の半数)や留学生を含む総勢107名で構成されました。そのときの報告書が久米邦武による「米欧回覧実記」です。原文は和漢混交文で岩波文庫5分冊に収められています。私の偏見?ですが欧米に出かける現代日本人の必読の書です。 久米邦武(1893~1931)佐賀藩出身。1881年東京帝国大学史学科初代教授。論文「神道は祭天の古俗」で1892年辞職」
今回の旅行で現地ガイドに確認したところによればこの「ナポリを見て死ね」は18世紀の「グランドツアー」(注)の一人の感嘆の言葉であったようです。
(注) 18世紀、イギリスの支配階級や貴族の子弟たちが、教育の最後の仕上げとして体験することになる、比較的長い期間(数カ月から2年間程度)のイタリア旅行のこと。
この反面、治安の悪さと住民の貧困が指摘されています。たいていのガイドブックはそのことを指摘しています。実際1996年の旅行では治安が悪いという理由で市内見学はバスの中からだけの観光でした。「米欧回覧実記4」(p326)は次のように記しています。「府中ノ人民ハ、多ク無学ニシ、懢惰性ヲナシ、街上ノ塵芥払ハス、車馬狼藉ナリ」
しかし今回はバスを降りての観光でした。最初の観光は国立考古学博物館でした、ここでは主にポンペイの遺跡(後日紹介)からの出土品を見学しました。写真は目玉焼きの道具だそうです。