シュエズィーグオン・パゴダはバガンを代表するパゴダです。バガン王朝で最初に実在が特定される44代目とされるアノーヤター王(在位1044~1077)がモン人のタトォン国を征服したのち建立に着手し、次々王のチャンススィター(在位1084~1113)によって完成されました。その後のパゴダのモデルになったと言われています。「シュエ」はビルマ語で{金}、「ズィーグォン」はパーリ語で「祝福された土地」という意味です。仏歯が納められていると言われています。
パゴダに沢山の人がいますが、パゴダ群を鳥瞰し夕日を見ようとする観光客です。前ページの写真もここからのものです。これでわかるように上空からの鳥瞰がよいようで、実際に気球に乗られた方が同行者の中にいらっしゃいました。
どうです、この雨後のタケノコのように林立するパゴダ群。ここはカンボジアのアンコールワット、インドネシアのボロブドゥールと共に世界3大仏教遺跡とされているバガンの仏教建築群です。(16平方マイル内)その数は約3000(添乗員の釣巻さんのメモによれば2217)、かっては万を超えていたそうです。
この仏教建築群はビルマ人最初の統一王朝バガン王朝の時代(9世紀~13世紀)に作られたものです。今まで紹介してきた、ヤンゴン、チャイティーヨ、バゴーの仏教建築群は現在では少数民族のモン人に起源をもつものでした。ここはビルマ人(ミャンマー人)によるものです。
このバガン王朝は1287年モンゴル軍のよって滅ぼされますが、その時すでにこの仏教建築で国家財政は危機に瀕していて滅亡も当然だったようです。
街を歩いているとこのような像に出会います。かなりあったように思います。拡大してみてください。鳥の上に鳥が乗っています。この鳥は神話上の鳥で「ヒンタ」(モン語ではハムサ)と呼ばれ下の鳥がオスで上がメスです。バゴーが海の中の島であった時代、その島にはヒンタが1羽しか住むスペイスしかありませんでした。そこでオス鳥がメス鳥を背中に乗せていたというわけです。そこにお釈迦が通りかかりこの2羽の鳥を見てこの地に住む者は永遠の繁栄が約束されていると予言します。この伝説が現在ではバゴーは女性上位の地域だとされバゴーの男性はバゴーの女性と結婚すると妻の尻に敷かれるということでバゴーの女性との結婚を望まないという新たな伝説が生まれました。
我々がよく知っているお釈迦さんに先行して悟りを開いた仏さんが3人いたとミャンマーでは信じられています。したがって解脱した釈迦さんが4人いるということです。それを表現した像がバゴーにあるチャイプーン・パゴダです。1476年に建立された高さ30m柱4面のそれぞれに座仏がいます。伝説によればこの仏像の建設に関係した若い未婚女性がいて、そのうちの一人が結婚すれば一つの仏像が壊れるとされています。1930年に地震によって壊れましたがlonely planet(p88) は遅すぎた結婚とからかっています。
バゴーでもう一つ有名なのが全長55mの寝仏です。994年Mgadeikpa王が建立したとされています。建立の経緯が伝えられています。Mgadeikpa王は仏教徒ではなく残酷で暴力的な王でした。彼の息子が狩りに出かけた時仏教徒の少女に出会い恋に落ち結婚することになりました。王は怒り二人を処刑しようとしました。その時少女は王が信仰する異教の像に向かって御祈りをしたところその像は砕け破壊されました。王は驚き恐れてこの寝仏を建立し全住民に仏教徒に改宗するように命令をしました。
1757年このモン人の王朝はビルマ人の王朝に滅ぼされそれと共にこの寝仏は忘れ去られていましたが19世紀になり再発見され修復されました。
少数民族のモン人がスリランカから最初にミャンマーに仏教を招来したと言われています。そのモン人の首都にあたるところがバゴーです。(2013年12月1日地図)この地には1200年前にミャンマー最大114mのモン人によって建立されたシュエモードー・パゴダがあります。最初は2本の聖髪が納められた小さなパゴダでしたが、982年に聖歯が納められるなどして次第に大きくなりました。しかし自然災害にも出会いたびたび修理されました。直近の災害は1930年の大地震で土台のだけを残して壊滅し現在見ることのできるのは1954年に再建されたものです。
同じヤンゴンにあるチュッタージー・パゴダを訪れました。ガイドブックなどには観光のスポットと書いていますが。この写真を見ていただければお分かりのように現地の人にとっては敬虔な信仰祈りの場です。ここには全長70m、高さ17mの巨大な寝仏が祀られていることで有名です。私は最近まで横になっている仏様は全部涅槃仏だと思っていました。すなわち釈迦が入滅する時の像です。ところが今回のミャンマー訪問の勉強のため「謎の仏教王国パガン 碑文に秘めるビルマ千年史」(大野徹著)を読んでいたところ「北の方向に頭があるのが涅槃像で南の方向の像は寝仏である」という記述に出会いました。実際、現地のガイド・オウマさんからもここチャウッタージー・パゴダにあるのは涅槃仏ではなく寝仏だという説明を受けました。そしてミャンマーには寝仏が7つ涅槃仏が2つあるとのことでした。何故ミャンマーには涅槃仏よりは寝仏の方が多いのかと質問したところ「ミャンマー人は現生利益を求める」からという回答でした。ところで帰国してウィキペディア(日本語版)見ているとその区別が書かれていません。そこで京都にある「浄土真宗本願寺派総合研究所」に尋ねてみました。そこでの話では一般に日本の仏教界ではそのような区別はしないということでした。
ちなみにlonely planetでもそのような区別はしていないようです。チャウッタージーの寝仏についてはmonster-sized lazy reclining Buddha と表記されています。(p48) ”lazy”というのは「怠け者」という意味でではなく「くつろいだ」という意味でしょう。(皮肉かな?) ”reclining” (横たわる)は「寝」より適切な表現のように思います。
数百本の竹を筏に組んで河からビルマ人が回収している様子の絵です。
なお、釣り鐘の受難には前史があります。1608年、ポルトガル人Philip de Brito e Nicote
がシュエダゴォン・パゴダに侵入し1485年、王Dhammazedi.が寄進した300トンの釣り鐘を持ちだして大砲に鋳造しようとしました。しかしバゴ河に落としてしまいました。これは現代に至るまで捜索が行はれていますが、いまだ発見されていません。
シュエダゴォン・パゴダは政治の場にもなりました。1946年アウンサン将軍がイギリスからの独立を要求してここで演説をしました。42年後の1988年アウンサン将軍の娘アウンサンスーチーの民主化の演説もここでした。
シュエダゴォン・パゴダは本来平和な信仰の場ですが、戦場になったことがあります。ミャンマーがイギリスの植民地になっていく第一次英緬戦争(1824年~1826年)、第2次英緬戦争(1852年)、第3次英緬戦争(1885年)、1886年の完全植民地化の過程で起きました。
1824年イギリス軍はヤンゴンに上陸しこのシュエダゴォン・パゴダを占拠し、イギリス軍基地にしました。1825年にここにあった1778年にシングー王によってつくられたマハーンガンダの釣り鐘をイギリス軍が火薬入れに使用するため持ち出しました。ところが持ち出し途中でカルカッタ河に落としてしまいました。イギリス軍は回収をあきらめその後ビルマ人によって回収されました。写真は回収された23トンのマハーンガンダ釣り鐘です。