100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「ロマンチック・ドイツ」編 ドレスデン

2021年04月30日 07時52分26秒 | ドイツ

 ドレスデンは1945年英米空軍の猛爆によって灰燼と帰しました。その後社会主義体制の下での復興は遅々として進まず、わたくしが訪れた時も盛んに修復工事が行われていました。その中で最も早く復旧した一つがツヴィンガー城でした。(写真上)ツヴィンガー城は1709年〰28年かけて建てられたバロック様式に宮殿でドレスデンの象徴的存在です。
 写真下はマイセン陶器の陶板2万5000からなる長さ100m以上の大壁画です。ザクセン王の行列描いたものです。圧巻です。
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「ロマンチック・ドイツ」編 マイセン

2021年04月27日 07時53分36秒 | ドイツ
 
 日本の伊万里焼の影響もあると言われて世界的に有名な磁器の町マイセンを訪れました。工場を訪れて最初に見たのが写真上です。窓に書かれているマイセンの商標です。マイセン磁器に剣のマークが入るようになったのは1720年後ごろからだそうです。
 マイセンは旧東ドイツの領域でした。 わたくしの訪問は1998年で、統合は1990年なので土地名などが新旧混在していました。写真下の向こうにかすかに見える橋はデミトロフ橋でした。デミトロフ(1882~1949)はブルガリア共産党員として活躍、ベルリン国会議事堂放火事件で逮捕、その後コミンテルン書記長になった人物です。旧東ドイツ時代にその名を記念してつけられた橋でした。
その橋を見ようと思いホテルのフロントに尋ねましたがわかりません。このフロントは非常に親切な方で各方面に電話をしてくれてそのデミトロフ橋が今はアウグスブルグ橋に変名していることを確かめてくれて場所を教えてくれました。この名前は分裂以前の名前のようです。ありがとうございました!
 変名していないところもありました。ローザ・ルクセンブルグです。写真右に見にくいですがRosa-Luxenburg  Platz(ローザ・ルセンブルグ広場)とか書かれていますね。これは町をぶらぶらしているときに偶然見つけました。彼女は(1871~1919)は革命組織スパルタクス団を母体としてドイツ共産党を創立した人です。今も残っているかな!
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「臨時特別」編 鹿児島の歴史教育

2021年04月24日 07時52分28秒 | 時評

 わたくしの生まれは岡山県で45年ほど前に何の縁も所縁もない鹿児島に移住してきました。せっかく鹿児島に来たのだからと、少しばかり鹿児島の歴史を勉強しました。面白い歴史にたくさん出会いました。その中の一つに、江戸時代薩摩藩では浄土真宗がキリスト教と同じく禁教だったということでした。ところが現在は県民の80%ぐらいが浄土真宗ということのようです。身近な人に尋ねてもほとんどの人が浄土真宗という答えが返ってきます。ところが江戸時代禁教(明治8年まで・キリスト教は明治6年)だったということを知っている人はほとんどいないということに驚かされました。学校で習っていないようです。そこで県の教育委員会の社会科担当の方に尋ねてみました。返事は「教科書に記載がない」「指導要領に記載がない」「県からの指示がない」から教えない、ということでした。疑問に感じませんかと話しても何の反応もありませんでした。開いた口が塞がらない。もっとも官僚としては優等生の回答なんでしょうね。
 わたくしの最近の最大の関心事は禁止だったのがなぜ現在圧倒的に浄土真宗なのか。
 奄美では江戸時代、「やんちゅう」という奴隷身分の人が人口の20%を占めていました。しかしその存在を奄美出身の人に尋ねても知っている人は一人もいませんでした。名瀬市の教育委員会に問い合わせてみました。返事はその地域の独特の歴史を教えているのは北海道と沖縄県だけだという返事でした。ただし私の質問に応じてくれた方はそれを残念と思うという返事は返ってきました
 江戸時代鹿児島本土では一件の百姓一揆もありませんでした。(未遂一件)県教育委員会の方はその事実の認識もあやふやでしたが、その理由については全くご存じないようでした。薩摩藩の農村支配が他の藩と異なっていたことに原因がありますよね。
 その他、知るべき歴史的事実で知られていないことがたくさんあります。
 今鹿児島人として(鹿児島弁は話せないが)このように郷土の歴史が忘却のかなた行ってしまっていることに悲しさと怒りを感じざるを得ません。何とかなりませんかね。
 写真は浄土真宗の解禁に一定の役割をし、西郷に抗った田中直哉を紹介した本です。

                                        

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「ロマンチック・ドイツ」編 ライプツィヒ

2021年04月21日 07時52分45秒 | ドイツ

 ライプツィヒでの昼食は一流ホテルの中にある「大和」いう日本料理店でした。何が出されたか忘れましたが、箸の包み紙にドイツ語で使用法が書かれていました。(写真上)
 ヨーロッパでは日本に比べて街中に銅像が多いような気がします。特にこのライプツィヒでは。以下3つ紹介します。
写真左上は「メドラーパッサージュ」というアーケードの中にある像です。 ゲーテの「ファウスト」の一場面を表わした像だそうです。 写真右上はゲーテの像です。
 ライプツィヒは音楽家たちの街としても有名です。シラー(写真省略)バッハなどが有名です。(写真下
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「ロマンチック・ドイツ」編 ベルリン

2021年04月18日 07時53分52秒 | ドイツ

 写真上はドイツ東西分裂時代の象徴的存在だったブランデンブルク門です。もともとは市内に18個所あった関税門の一つでした。1945年ドイツの敗北によって米英仏、ソ連に東西に分割占領され1949年にそれぞれが東西ドイツに分割独立しました。その時ベルリンも東西に分割されます。その時その国境線にあったのがブランデンブルク門(東ベルリン側)でした。当初はその間を自由に出入りできましたが、1961年にベルリンの壁ができ自由な往来ができなくなりました。1989年ベルリ位の壁が崩壊し1990年東西ドイツが統一しその後分裂時代の象徴として現在にいたっています。
 したがってベルリン市内には東西を分ける国境線が張り巡らされていました。写真中は少し見にくいですが道路に赤線が見えると思いますが、それが当時の国境線です。

 写真下はユグノー教会です。わたくしは無学ためここ来るまでこの存在を知りませんでした。手元にあるガイドブック、そして現地でのリーフレットなどにも記載はありませんでした。
ユグノーは16世紀〰18世紀のカルヴァン派新教徒で旧教徒との衝突があり1598年ンナントの直令でいったんは信仰の自由が認められました。
しかし1685年10月18日、フランス国王ルイ16世は信仰の自由を撤廃しました。それまでもしばしば迫害を受けていたユグノー教徒の多くは、これを機に国を去る決意をすます。そのわずか11日後、ベルリン・ブランデンブルクの大選定候フリードリヒ・ヴィルヘルムは、ポツダム勅令を発表して彼らの受け入れを決めました。約30万人の難民のうち、この地域に逃れて来たユグノー教徒は約2万人に上り、うち5500人がベルリンに定住した。これは当時のベルリンの人口の7分の1を占める数です。そして1705年に建設されたのがこのユグノー教会です。わたくしはこの歴史事実を知りませんでした。恥ずかしい。旅行社に感謝。
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「ロマンチック・ドイツ」編 ポツダム

2021年04月15日 07時51分57秒 | ドイツ

 ポツダムといえば「ポツダム宣言」ですね。(若い人はダメかな)1945年のポツダム宣言を日本が受諾してようやく敗戦し戦争終結をしました。そのポツダム宣言が出されたところがポツダムにあるツェツィーリエンホーフ城(写真上)です。最後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(1859~1941年)が皇太子時代、妃のツェツィリエのために建てた城です。
ここでちょっと余談話。この城に図書室があったので現地ガイドにからかい気味に”Mein Kampf”はあるかと尋ねました。現地ガイドは慌てた様子で”Nein Nein”(無い、無い)と答えました。”“Mein Kampf“(我が闘争)はヒトラーの著書で当時(1998年)ドイツでは禁書でした。2014年に出版が合法化されました。戦時中日本語訳が数冊出ましたが、日本を馬鹿にしたところは省かれていました。ただし最近そのうち2冊は完訳されていたとの説もあります。(ウイキペディア)戦後は角川文庫から完訳が出ています。わたくしはヒトラー、ナチズム、現代思想理解の必読の書だと思っています。
こんな問答をしていて書棚を見ていると、日本人の書いた本らしきものが見えました。著書名は
“Nikudan”著者名はSakura”でした。
写真中はプロイセン王国時代の1745年から1747年にかけて、フリードリヒ2世(大王)(在位1740~1786)の命によってわずか2年で建てられたサンスーシー宮殿です。フリードリッヒ大王は啓蒙的専制君主として知られています。その啓蒙的側面を表すものとしてこの宮殿の敷地内にある「風車」がありますが、それについては今年の2月20日に紹介しています。
フリードリヒ大王は1786年8月17日、サンスーシ宮殿で老衰により崩御しました。遺体は遺言に相違して、ポツダム衛戍教会に葬られました。その後、第二次世界大戦中に遺体は各地を転々とさせられるなどの運命をたどりましたが、ドイツ再統一後の1991年、サンスーシ宮殿の庭先の芝生に墓が移されました。その時の記念式典には10数万人の見物人が集まりました。(写真下)花が置かれていました。彼は今も一定の評価を受けていると感じました。
その後、「孔雀島」を訪れました。(写真省略)そこでの現地ガイドは東ドイツ出身で日本語がわかるので少し会話が弾みました。コミュニズムについて尋ねると「理想としては良いと思うが現実は」という答えでした。今旧東ドイツでの問題は分裂時代旧東ドイツから西ドイツに亡命した人の不動産の所有権争いということでした

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「ロマンチック・ドイツ」編 クヴェトリンブルク

2021年04月12日 07時54分20秒 | ドイツ

 中世の街並みを残すゴスラー、ヒルデスハイムを紹介してきましたが、人口2万4千のクヴェトリンブル(旧東ドイツ)は世界大戦の被害がほとんどなくその面影を最も色濃く残す街でした。1994年には町全体が世界遺産に登録されました。(写真右左上 )写真左上のMarktplatz(中央広場)でこのような美人二人に出会い撮影を承諾してもらいました。Vielen Dank !
しかし、一歩中心街を離れるとこのような廃墟に出会いました(写真右下)
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「ロマンチック・ドイツ」編 ゴスラー

2021年04月09日 07時52分52秒 | ドイツ

ゴスラーには11世紀に王宮が置かれ、ザリエル朝時代ドイツ国王・皇帝のお気に入りの滞在地で、13世紀まで帝国会議が頻繁に行われました。そのため、美しい街並みが形成されました。(写真右下)は中央広場です。このようなところもありました。(写真左下)
 ゴスラーは魔女の街といても有名です。いましたね。(写真右上)
 (写真左上)早朝一人で散歩していたらこのような建物に出会いました。わたくしは一瞬日本の神社かと思いました。キリストの教会でした。わたくしはこのような教会の建物に出会ったのは初めてでした。なぜか忘れられない建物(教会)です。
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「ロマンチック・ドイツ」編 ハノーファー、ヒルデスハイム

2021年04月06日 07時54分03秒 | ドイツ
 
 現イギリス王朝の出身地ハノーファーを訪れました。1714年この地のハノーファー公がジョージ1世としてイギリス国王になりました。したがってこの王朝名はハノーヴァ朝といいます。Hannoverがドイツ語ではハノーファーで、英語でハノーヴァと発音します。国王は英語は話せませんでした。
 この地の観光はヘレンハウゼン王宮庭園でした。(写真上)
次の観光地はヒルデスハイムでした。この町は 第二次世界大戦で、歴史的建造物を含む街の多くが破壊されましたが、現在までにその多くが再建され、かつての中世風の町並みも再現されています。この木組みの建物がそれです。(写真中) 中世街並みの美しいMarktplatz(中央公園)でしばしのコヒーを楽しみました。(写真下)
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「ロマンチック・ドイツ」編 リューベック

2021年04月03日 07時51分45秒 | ドイツ

 ハンブルクの次の訪問地は中世にはハンザ同盟の盟主として栄えたリューベックでした。その美しさは「バルト海の女王」と呼ばれるほどで、世界遺産にも登録されています。ハンザの面影を残す建物が並ぶ旧市街のなかでも最も美しく有名な建物の1つが、1535年に船員の組合ギルドの館として建てられた「シッファーゲゼルシャフト(Schiffergesellschaft)」です。(写真左、下)ここは歴史的建造物であると同時に、リューベックで一番有名なレストランで夕食はここでした。
 もう一つ歴史的建造物ホルステン門(写真右上、下)を訪れました。1469年から1477年にかけて造られました。ユーロ導入以前の旧50ドイツマルク紙幣の図柄にも採用されていました。写真下の文字CONCORDIA DOMI  FORIS PAXはラテン語で「内に団結、外に平和」という意味だそうです。
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