軍事国家であったことを証明するかのごとく街中ではこのような光景が至る所に見られました。
人類学者ジャック・グッディは「国家形成で一般的に重視されている『生産手段』に対して西アフリカの場合『破壊手段』が果たした役割が大きい」と説いています。(山川出版 世界各国史「アフリカ史」p213)
軍事国家であったことを証明するかのごとく街中ではこのような光景が至る所に見られました。
人類学者ジャック・グッディは「国家形成で一般的に重視されている『生産手段』に対して西アフリカの場合『破壊手段』が果たした役割が大きい」と説いています。(山川出版 世界各国史「アフリカ史」p213)
大西洋のギニア湾から180km内陸に入ったところにアシャンティ王国(1670~19029の首都であったクマシの町があります。この国は今まで紹介してきたエルミナやケープコーストでの奴隷交易の現地での代表的当事者でした。ヨーロッパ列強に奴隷を売りその対価として鉄砲を得、その鉄砲で国を拡大し奴隷を確保しその奴隷で鉄砲を手に入れるということで国を拡大、強国にしていた典型的な国家がアシャンティ王国でした。次第にイギリスとの対立を深め5次(1823~)にもわたる対英戦争をし、ついに1902年に滅ばされ完全にこの地はイギリスの植民地になりました。現在も公用語は英語です。2月21日に紹介したようにイギリスから独立したのは1957年のことでした。
写真はかってのアシャンティ王国の末裔が住む家です。現在もこの地でかなりの権力を持っています。ウィキペディア(英語版)によれば”sub-national within Ghana” (ガーナで準国家的存在)と記載されています。
ケープコーストにはエルミナと同じ性格を持つ砦があります。エルミナから15kmの所に位置します。エルミナと同じくヨーロッパ列強の争奪戦の地でした。10世紀に現地のファンテ王国が作った砦が1637年にオランダに占拠され以後1652年スウェーデン→1664年イギリスとなりその後イギリスのこの地の植民支配の拠点になりました。
ここではアメリカへ奴隷が積み出されるまでの一時保管場所dungeon(土牢)が遺されていました。写真はmale slave(雄奴隷)の土牢です。一度に100人程度の奴隷が閉じ込められました。
2009年7月オバマアメリカ合州国大統領がここを訪れています。オバマさんは奴隷の子孫ではありませんが、ミッシェル夫人はアフリカからの奴隷の子孫です。
金→奴隷とヨーロッパ列強の富の源泉であるエルミナは彼らの争奪戦の地でもありました。1482年ポルトガル→1637年オランダ→1872年イギリス→1957年独立。ヨーロッパ列強の消長をそのまま表しています。
今は人口2万人の漁港になりました。
その後、金は急速に枯渇し、この地はアメリカ大陸での砂糖、タバコなどのプランテーション栽培、金銀の鉱山の労働力として大量の奴隷輸出港になります。もちろんエルミナも重要な奴隷輸出港になりました。写真はこの砦に残されている「アメリカに送られる奴隷(slave )の船待ちの出口」です。
私の子供時代はこのガーナや後日紹介予定のベナンに当たる地域すなわちギニア湾沿岸の地名は黄金海岸、象牙海岸、奴隷海岸などの名前でした。もちろんこれらの名前はヨーロッパ列強がこの土地から持ち出した商品にちなんで付けたものです。「海岸」というのもヨーロッパ列強が大陸内部にまで支配の手を伸ばしたのではなく海岸地域で砦を築きそこからアフリカ人国家と取引をしていたことを現わしています。
この地に最初にやってきたヨーロッパ人はポルトガル人でした。そしてこの地に最初に築いた砦がエルミナです。1481年のことでした。(1482年説あり)エルミナというのはポルトガル語で「金鉱山」という意味です。それから分かるようにここから大量の金が輸出されました。一説にはここを中心とした地域から16世紀初頭には地球に存在する10分の1の金が輸出されとされています。なお、2007年6月28日にヨーロッパと西アフリカの金交易について少し紹介しているので参考にしてください。
写真はサハラ以南で最古のヨーロッパ建築とされ世界遺産に登録されているエルミナ砦です。
彼の胸像が研究所にありました。頭の白いのは私のカメラの腕前がまずいのか、はたまたカメラ屋さんのプリントが悪かったのか、実際そうであったのか、今になってはよくわかりません。(2002年撮影)
子供の夢を壊すような本を数年前に読んだことを思い出しました。ベストセラーになった福岡伸一著「生物と無生物のあいだ」です。
「数々の病原体の正体を突き止めたという野口の主張のほとんどは、今では間違ったものとして全く顧みられていない」(p21)
「渡辺淳一の野口評伝『遠き落日』には「結婚詐欺まがいの行為を繰り返し、許嫁や彼の支援者を裏切り続けたと活写している」(p22)
これらの話は専門家の間では常識のようです。
真実とは冷酷ですね。
児童文学「野口英世伝」はいつまで生き残るかな。千円札の運命は?
児童文学の偉人伝のトップはで何と言っても「野口英世伝」です。彼が黄熱病研究でアフリカにわたりその黄熱病に罹り亡くなったのはここガーナのアクラでした。(1928年)アクラ近郊に彼を記念した日本政府からの寄付で建てられた研究所がありました。(1979年)最近また研究充実のため日本政府の寄付の話があるようですね。
マリの次の訪問国はガーナでした。マリの首都バマコからガーナの首都アクラへ午後飛行機の予定でしたが予定の時間に飛ばなくてホテルと空港の間を何回も往復した結局翌朝の出発となりました。ほとんで眠っていない状態でのガーナの第一印象は「暑い」でした。ということはマリが涼しかったということでもあります。マリでは朝夕は寒いと感じるほどでした。
さてガーナといえば私の世代ではンクルマ(1909~1972)初代大統領です。
サハラ以南のアフリカで1957年初めて現地人が中心となってヨーロッパ宗主国から独立を達成した国がガーナです。それが刺激になり1960年代はアフリカ独立のラッシュとなりました。その独立の父とされたのがンクルマでした。彼はまた「アフリカ合州国」を夢見た人でもありました。しかし、経済政策の失敗でクーデタが起き1966年失脚しました。
写真はアクラにある彼を記念する公園です、中には入りませんでしたが彼を記念する小さい博物館もあるそうです。
ついでにガーナの著名人を紹介します。7代国連事務総長(1997~2006)アナン(1938~)です。彼は2001年にノベル平和賞を受賞し、2006年の引退時にアメリカ合州国の覇権主義を批判しました。