100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

89
歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

臨時特別編 「ケレン・ハオール13号」2

2011年12月25日 08時56分58秒 | イスラエル・パレスチナ

 

 

  ユダヤとアラブの子供たちが近づいて理解しあうために

               エステル・山崎

未来に夢を託し多くの希望者から選択

新学期も始まり、今年も新入生を迎えて、共学共存の教育活動の第一歩を踏み出しました。今年は例年にない個性のある新入生の参加で、活動も期待に溢れています。共学共存活動を推進するアラブ側のエーベン・シナ中学校のスワード先生からも、同じような状態だと報告を受けました。つまり、近年の共学共存推進教育の現場での草の根活動が、小学校の児童たちにも徐々に受け入れられて、中学校へ入学する以前の環境から、この主旨が理解され始めたと考えるべきなのでしょう。

全国的規模の共学共存活動も、個々の現場としては、実際に少数の地味な草の根活動の連続だという現実を、報告しておきたいと思います。それは、私が指導する生徒20名、スワード先生が指導する生徒20名という限られた人数の活動だからです。この数字に関していえば、毎年新学期早々の募集期間に参加を希望してくる生徒数は、もっともっと多いのです。しかし、現場の活動費に限度があること、そして指導者の立場からすると、この程度の生徒数が丁度良い指導環境なのです。それが、活動開始前に参加できる生徒を選んで、活動し易い人数に限定している理由です。

生徒数は少ないのですが、この生徒たちが共学共存の本質を学び、次の時代へと輪を広げていく未来を考える時、その意味は重要です。将来に続くやり甲斐のある仕事なのです。草の根活動という地味な教育分野ですが、私たちを含め、現場の関係者は夢の多い教育だと希望を抱いて頑張っています。

「ユダヤとアラブの民族紛争」は、過去の長い歴史が物語っているように悲惨で重いものです。その歴史的重みを跳ね返すため、私たちは、共学共存教育のプログラム・レベルの質を毎年向上させようと努力しています。指導者側の研修会も頻繁に実施されています。そして当然、その教育に従事する関係者一人一人の頑張りがあります。近年は周囲から支援する組織が定着し始めたことも見逃せない事実だと思います。

共学共存指導要領と会合前の事前準備

さて、今回の具体的な現場からの報告の第一弾は、ユダヤ・アラブ双方の子供たちが接触する前の準備段階の話になります。これはスワード先生の学校でも、全く同じ方法で準備を進めています。共学共存の合同活動を始める前の段階で、各々の教室でユダヤ人側だけ、或いはアラブ人だけの集まりで始める準備段階のテクニックがあります。

まず、生徒たちに、それぞれの人種や民族に関する第一印象を率直に紙に書かせることから始めます。例えば、A君には、ロシア人とは何か、B君には、アメリカ人とは何か、C君には、日本人とは何かという具合いに質問して、各々の考えを書いてもらいます。もちろん、さりげなく、アラブ人をどう思うか、ユダヤ人をどう思うかも必ず組み込んでおきます。その結果、例えばロシア人には移民者、ホームレスが多く、アルコール中毒が多いなどと、報道機関のニュースから受けた印象だけでイメージを表現してきます。日本人に関しては、カメラを持って集団で行動し、同じ物体を撮影している人たちは多分日本人だろうと記述しています。近代の子供らしいユニークな回答もあり、時折、教室中に爆笑が起こります。

もちろん、深刻な描写で回答してくる場合もあります。例えば、アラブ人とは何かを質問されたユダヤ人の生徒の多くは、「アラブ人はテロリストだ、嘘つきだ、信用できない」などと回答します。一方、アラブ側でも同じ状況で、ユダヤ人とは何かについて、「ユダヤ人は武力と金力で支配する、信用できない」などの回答が多く集まります。

偏見からの解放と共学共存への糸口

これは、準備段階教育の最初の活動日に行う、イスラエル教育省の共学共存指導要領です。この方法は、教育者だけの研修会で事前に先生方に渡される「共学共存教育のプログラム」に明記されています。この個別アンケートの回答発表と討論は、準備教育時間の最後のまとめ段階になっています。この討論の時間に、生徒たちは意外な事実を先生から聞かされることになるのです。

先生は彼らの回答に対して、何故そのような回答をしたのか、よく考えてその理由を詳しく説明するように生徒たちに求めるのです。そうすることにより生徒たちは、「どうしてその回答になったのか」、それぞれの考えに到った要因を深く考えるのです。そこで浮かんでくる思考が、アラブとユダヤの接近への糸口になるのです。この討論で生徒たちが考えることによって、今まで漠然とした感覚だけでユダヤが嫌い、アラブが嫌いと考えていたという事実に気がつきます。つまり、具体的に明確な理由もなく漫然とした拒絶反応をしていたということです。それまでは、テレビのニュースなどから、一部の過激なグループが起こした事件を、まるで民族一丸となって起こしたかのように思っていたこと、無意識に民族全体を悪く考えていたことに気が付きます。つまり、ニュースを勘違いして受け止めた結果、そのニュースを異常に拡大させた民族意識に結びつけていたことに気がつくのです。そこで初めて、物事の本質や真実に、冷静に目を向けるようになるのです。

それからは、一般の人々は何を思っているのだろうと考えるようになります。これが、ささやかではあっても、明らかに平和への希望の光に育っていくのです。

こうした準備段階の教育は、極めて重要です。これから1年間の共学共存活動の主軸となるからです。準備段階での討論は、それを分析して理解すると、今まで漠然とした理由で「ユダヤ・アラブの接近」を妨げていた事実に気がつき、一歩近づこうと思う心が育ってくるのです。

こうしてユダヤ側もアラブ側も、接近してもよいという気持ちを確認し、最初の合同活動を実施する日取りを決め、次の合同活動に進むことになります。アラブ側のスワード先生とは、毎回緊密な連絡を取ります。そして、お互いの生徒たちの基本的な考え方が安定した時点を確認してから、次のステップへと進んでいきます。

今年も、私たちハヨベル中学校とエーベン・シナ中学校の「ユダヤ・アラブ共学共存」の草の根活動が開始されました。これから今年の新入生たちが、どう前進していくのか、「ケレン・ハオール」の機関誌の誌上を通して、読者の皆様に現場報告を続けていきたいと思います。私たちはスワード先生共々、日本の皆様からのご理解ご支援を活動のエネルギー源としています。どうぞ、今後とも応援宜しくお願いいたします。(訳:山崎智昭)

 

 写真はスワード、エステル先生と共学共存活動中の中学生

 

筆者は山崎智昭さんの奥さん 

なお「ケレン・ハオール」の全号をご覧になりたい方はhttp://keren-haor.blogspot.com/をどうぞ。


臨時特別編「ケレン・ハオール13号」1

2011年12月22日 09時12分50秒 | イスラエル・パレスチナ

 「エチオピア」編の予定でしたが、変更してイスラエルの山崎智昭さんから送られてきた「ケレン・ハオール13号」の一部を2回に分けて紹介します。

 山崎さんは201044日に紹介したようにイスラエル旅行でお世話になった現地ガイドさんです。彼はイスラエル国籍を持つ日本人でアラブ人とユダヤ人の共学運動をしている方です。奥さんはユダヤ人で彼女の父親はアンネ・フランクに似た境遇の方です。「ケレン・ハオール」はその運動の機関誌です。詳しくは2010617日をご覧ください。

 

       恵伝、ハンド・イン・ハンド幼稚園入園

          中島ヤスシ

 

    恵伝ちゃんのプロフィール

       年齢:4才9ヵ月

       出生地:京都

       母親:日本人

       父親:ユダヤ人

 

9月4日、晴れて初登園

今年の9月から娘の恵伝が、エルサレム、ハンド・イン・ハンドの幼稚園に通うことになりました。偶然にも同じ保育園から他にも2人の子どもが入園しました。一人はアラブ人の男の子、もう一人はユダヤ人の女の子です。それぞれ5歳組、4歳組、混合組とクラスは違いますが、少しでも知っている顔があることは心強いものです。

今年はイスラムのお祭りが9月初めにあったため、新学期は9月4日から始まりました。その前の週に、幼稚園に新しく入園する子どもたちが,教室に慣れるように招待され、半日自由に園の中で遊びました。

そして9月4日に晴れて初登園しました。特別な入園式などはなく、普通に朝、親と別れて教室に入りました。恵伝は、事前の訪問で教室もわかっていたし、遊びたいおもちゃも見つけていたので、すんなり私から離れて園に入って行きました。このように最初の1週間は問題なく過ぎていきました。  

最初に直面した問題は……

ところで、私たちの住んでいる地区と幼稚園のある地区は街の正反対にあり、朝の渋滞のなか往復1時間半かけての送迎に負担を感じていました。近所でハンド・イン・ハンド校に通っている子どもたちの親と協力して、送迎を始めましたが、恵伝は、一番小さくてうまくいきませんでした。それに、送迎費として1カ月1万5千円分担しなければなりません。かなり高額の出費なのです。

朝の「お別れ」に泣く恵伝

そして再び私が送迎を始めました。ところが、園に着くと恵伝はなかなか私から離れず、別れる時泣くようになりました。10月に入り、以前の同じ保育園からハンド・イン・ハンドに入園した2人の子どもたちは、すっかり新しい環境に慣れたのに、恵伝は「お別れ」をいやがるようになり、毎朝問題を起こすようになりました。私は、最初のアプローチを間違えたことを痛感しました。そこで、恵伝が望むように朝しばらく一緒にいてあげたりして、再びクラスに慣れるよう手伝いました。その後2週間が過ぎて、恵伝が少し園に慣れてきた頃、ユダヤの新年で10日間の休みがありました。再び園から遠のいたので、また「慣らし」を始めなければなりませんでした。先生も協力してくれて、少しずつ朝一緒にいる時間が減っていきました。

帰りを嫌がる恵伝

ところが、朝これだけ嫌がるのに、午後迎えに行くと今度は帰りたがりません。これは良いサインです。そんな風に10月が過ぎ、11月に入りました。朝の通園も落ち着き、帰宅後、幼稚園でどんな風に過ごしたかも話してくれるようになりました。先生たちも恵伝は大分落ち着いてきたと連絡してくれました。

周りの人たちからは、なぜそんな遠くの幼稚園に通わせたのかと非難され、恵伝からは「もうハンド・イン・ハンドの幼稚園に行きたくない。近所の前の幼稚園に戻りたい」と言われました。主人は真剣に近所の保育園に戻すことも考え始めました。私は、当惑し挫折寸前の状態に追い込まれました。

なぜハンド・イン・ハンドを選び続けるのか

私はそれでも、なんとかがんばって恵伝をハンド・イン・ハンドの幼稚園に通わせ続け、1年後にもう一度検討しようと主人を説得しました。

なぜ私がそこまでハンド・イン・ハンドに幼児期から通わせることにこだわったのかというと、この時期の彼女の世界では、まだ自己と他者との境界があいまいだからです。人は普通大きくなれば、相手の属する集団でその人を判断するようになります。例えば、「恵伝がハンド・イン・ハンドの幼稚園に通っている」と私が言うと、周りの大人たちは「恵伝にアラブ人の友だちはできた?」と聞いてきます。でも彼女はその質問の意味がよくわかりません。なぜなら彼女にとっては、みんな同じクラスメートで、違いはその子がアラビア語を話すのか、ヘブライ語も話せるのかだけなのです。だから友だちの誰がアラブ人かと聞かれても、そのような境界線は、彼女の中にはまだ存在しません。

言語的側面から見れば1年前から通わせればもっと良かったのですが、丁度下の子が生まれたため、この送迎が困難だと思い断念しました。そのため4歳を過ぎた彼女は、すでにコミュニケーションを言語表現に頼るようになっていました。アラビア語に対しては、まだわからないもどかしさがあるようですが、それでも、一つずつ理解すると、そのアラビア語を私に教えてくれるようになりました。

そんな頃、イスラムの「犠牲祭」が始まりました。その前夜,父母も招待されて教室で夕食会がありました。夕方、下の子も連れて園に着くと「犠牲祭」とはどのようなお祭りかを、サブリン先生がアラビア語とヘブライ語で保護者たちに説明している最中でした。その後、男性がアラブの鍵盤楽器を弾き始めました。恵伝の話では、その人はサヘルという音楽の先生で、みんなに歌を教えてくれるそうです。子どもたちが教わった歌を、両親たちの 前で披露しました。アラビア語の歌で、最初子どもたちは恥ずかしがって、小さな声で歌っていました。そこで、周りのアラブ人の親たちが歌に参加、最後にはみんなで合唱になりました。それから、子どもたちが、音楽に合わせて遊戯をしたり踊ったりしてくれました。その後食事になりました。保護者の持ち寄りで、それぞれの家庭の味がしておいしかったです。最後に、午後の学童保育をしてくれるライラ先生が、子どもたちに一人一人プレゼントをくれました。

ハンド・イン・ハンドの特徴として、3つの宗教の祝日が休みになるため、休みが大変多いのですが、それぞれ休みの期間も何人かの先生が、有料で休日保育をしてくれます。この時期は子どもの数は通常より少ないので、保育は各教室合同で行われます。私はせっかく幼稚園に恵伝が慣れてきたので、この一週間の休みは長すぎると思い、この休日保育に通わせました。上の教室の子と仲良くなったり、先生の子どもたちも加わったりしました。恵伝曰く、「とても楽しかった」そうです。最近は朝、教室にはいると友達がやってきて、恵伝は一緒にその輪に入って行きます。また、帰宅すると、その日幼稚園でしたことを話してくれます。11月に入ってやっと新しい生活に恵伝は慣れてきました。私はほっとしています。

 写真は恵伝ちゃん。

 

 


「臨時特別」編 ケレン・ハオール第10月号より2

2011年03月11日 08時18分29秒 | イスラエル・パレスチナ

教育の選択  中島ヤスミン

 

イスラエルでの育児の意味

 

この夏、私たちに第2子が生まれました。名前はクフィール、若獅子と言う意味です。アラブ文化でもヘブライ文化でも獅子はとても凛々しく、勇敢で王者のイメージがあるため、よく男の子の名前に使われます。また聖地エルサレムも昔から、この獅子が町のシンボルになっています。そんな街で生まれた獅子座の男の子という意味でこの名を付けました。

以前、先輩のお母さんから「イスラエルで子どもを育てるということは、18歳になったら軍隊に行くことも覚悟しなければいけないのよ」と言われたことがあります。その時はこの言葉の意味にあまり注目しませんでしたが、今はこの言葉の意味がよく理解できます。

私の夫はエルサレム大学で教鞭をとっていますが、2000年9月に勃発した第2次インティファーダと呼ばれるパレスチナ民族蜂起の時期に軍隊にいた人たちが、今、夫の教え子となっています。彼らが当時の生々しい戦闘の様子を話してくれました。また、今でも兵士の一人がガザで誘拐されたまま4年が経過しています。高校を卒業するまで18年間、普通の子どもたちのように生活していたのが、軍隊で一変する体験をして精神的に傷つく子もいます。私たちの子どもが18歳になる頃に、このような状況が起こらないよう願い、そのために何ができるのだろうと考えた時、やはり相互理解しかないのではないかという結論に到達します。

私は2010年4月10日発行の「ケレンハオール6号~8号」まで3回に渡って、ハンド・イン・ハンド(HIH)エルサレム校の父母たちにインタビューを行いました。これはこの学校の活動が子どもに、どのような影響を与えているのか私にとても興味があったからでした。

エルサレム校の「オープン・デー」に参加

今年、2010年1月、HIHエルサレム校の「オープン・デー」に参加しました。この日は、入学希望の両親が授業参観できる日です。朝からいくつかのグループに分かれ、担当の先生からヘブライ語またはアラビア語で学校の様子や授業風景などの説明があり、見学します。小学校の国語のクラスでは人数に別れ、ユダヤの子どもたちはアラビア語を、アラブの子どもたちはヘブライ語の補習をしながら授業をしていました。

また算数のクラスでは、ヘブライ語とアラビア語で書かれた教科書を見せてくれましたが、今の形ができるまでいろいろ試行錯誤があったと話してくれました。そのような努力の結果、この教科書はバイリンガル教育として良くできた構成になっています。また校舎は日本の学校の様に教室が直線に並んでいるのではなく、螺旋状に円を描くように並んでいます。そのため、教室は一直線の硬いイメージではなく、いろいろな学年の子どもたちが自然に入り交じれる感じでした。

その後、父母たちは一つの教室に入り、学校の運営方針などの説明を聞きました。質疑応答が行われ、父母からはバイリンガルのため他の学校より多くの勉学時間が必要なこと、そのため通常の学科の学力への影響が出ることなどについて質問が出ました。しかし、先生方の説明ではこの学校の学力レベルは、イスラエル全国でも高いとのこと。その要因としては授業時間が普通より長いこと(通常の学校では午後1時に終わるが、HIHでは3時まで)、

また相互コミュニケーションがよくとれていて、きめ細かに目が届いているため、落ちこぼれが出にくいことなどが挙げられました。

授業料の話になり、通常の学費から大きくかけ離れ高額にならない様に努力して、希望者を経済的理由で制限しないようにしていることや、どうしても経済的負担がある家庭には奨学金制度もあることなどが紹介されました。もちろん父母たちの支払う学費、政府の教育援助だけではこの学校の特殊な人員運営を賄うことはできないので、これらについては、学校の活動に理解を示す各国の団体に援助を要請していることも説明されました。また、子どもの入学を希望する親は、入学願書を提出しますが、各クラスはユダヤ人/アラブ人が半々(15名程度ずつ)になるよう構成しているので、必ずしも希望者全員が入れる訳ではないことも説明されました。イスラエルでは3歳 から公立の幼稚園に入れますが、正式には4歳、5歳の2年間で、その後、小学校に入学します。HIHも政府の認可校なので、この45歳児の幼稚園か ら始まります。長女、恵伝(エデン)はこの2月で4歳になるので、次の新学期9月からHIHエルサレム校に入園させたいと私たちは希望しています。

 

HIH校と通常校の違い

 

ここでHIHと通常のユダヤ系教育機関の違いをお話ししましょう。現在、恵伝は家の近所にあるWIZO (Women International Zionist Organization) の経営している託児所に通っています。ここは場所柄、近隣のキリスト教アラブ人家族の子どもたちも通って来ます。一応世俗的な保育園なのですが、行事や暦はユダヤ教に沿ったものになっています。休みも「ユダヤの新年」や「過ぎ越祭」などです。毎週金曜日には安息日に入るため、ユダヤ教のお祈りもします。子どもたちはイベントとして楽しんでいるのですが、クラスにはキリスト教の3名の子どももいます。しかし彼らの文化的行事は保育園では一切ありません。

それでも去年一人のキリスト教徒のお母さんが、クリスマスにクラスの子どもたち皆にサンタロースを型どったチョコレートをプレセントしました。もちろん子ども達は大喜びで、それをかじっていました。私が残念に思うのは、毎日一緒に過ごしているのにアラブ人側の文化を知る機会が、ここのカリキュラムではないことです。その反面、入園しているアラブ人の子どもたちは、ヘブライ語やユダヤ文化を理解することができ、この3年間、家ではアラブ文化、外ではヘブライ文化を学んでいるのです。

事実、3人のアラブ人家族の子どもたちは、言語を話しだす時期にヘブライ語も同時に学び、クラスの中で普通にみんなと遊んでいます。子どもたちはまだ異文化という概念がないので、共通の興味や遊びなどでお互いに友達になっています。来年からそれぞれ次の幼稚園に進みますが、アラブ人のお母さんたちにどこに行くのか聞いてみたら、一人のお母さんは上の子がHIHに通っていて、気に入っているので下の子も入れたいと話していました。

私たちも最近、日本語とヘブライ語の違いを認識しだした恵伝に、アラビア語が新しく入って馴染めるか不安もありますが、もし同じクラスの子が新しいクラスにいれば、より馴染みやすいかなと思っています。理想を言うと、HIHのような方式が通常の学校に取り入れられることです。そうすれば、わざわざ遠くまで通う必要もなく、近所の幼馴染の子どもたちとも、そのまま一緒に成長できるのにと思います。いずれにせよ今は恵伝がHIHエルサレム校に入学を許可してもらえるかどうか、結果待ちの状況です


「臨時特別」編ケレン・ハオール第10号より1

2011年03月09日 08時18分06秒 | イスラエル・パレスチナ

ユダヤ・アラブ青少年共学共存推進日イ支援会の機関誌「ケレン・ハオール第10号」が山崎さんからおくられてきたのでその中から三つの文章を紹介します。全文をお知りになりた方はご連絡ください。

 山崎さんは2010年のイスラエル旅行でのイスラエル国籍を持つ日本人現地ガイドさんでした。彼および「ケレン・ハオール」についてはこのブログ2010年4月4日6日、6月17日19日 7月19日23日25日に紹介しているので参考にしてください。 

 

ユダヤ・アラブ青年共学共存推進日イ支援会の目的  

私達日本人とユダヤ人は、20世紀に人類史上前例のない最悪の惨事、広島と長崎への原爆投下とユダヤ人大量虐殺を経験した。私達は、ノー・モア・広島、長崎、ノー・モア・ホロコーストを叫び、核兵器や戦争、そして大量虐殺のない真の世界平和と民族の共存共生を希求する。  

本支援会は、上記の考えに基づいて、イスラエルにおけるユダヤ人とアラブ人青少年の共同教育推進のために、内外に向けて献金依頼活動を行う。そして、イスラエル国内における二民族の青少年共学共存を推進する団体・組織や施設の共学共存教育活動を支援する。本会の機関誌「ケレン・ハオール」を通し、広く協力を求める。 

 

 

 

  アラブ・ユダヤ共学共存の背景にあるもの   山崎智昭

 

現在「アラブ」と呼ばれている人たちの「アラブ」という言葉の由来は、多種多様だと思います。これを明確に定義することは、かなり難しいのが現状です。「アラブ」にはさまざまな定義がありますが、イスラム文化を誇りとし、アラビア語を愛する者がアラブであるという点で大筋一致しています。

さて、イスラエル国内において、アラブという表現で具体的な問題があります。現在、国内には2つの「アラブ」があります。一つはイスラエル・アラブ人という場合、二つ目はパレスチナ・アラブ人という場合です。同じアラブ人なのにこの両者には大きな違いがあります。イスラエル・アラブ人たちは、イスラエル国籍を持ち、パスポートもイスラエル・パスポートで海外旅行も自由にできます。一方、パレスチナ・アラブ人たちは、国籍もなく(パレスチナは国連で承認されていない)パスポートもありません。海外旅行をするときはヨルダン政府の許可を受けてパスポートを取得するか、イスラエル政府の許可を受けて取得するかしかなく、とにかく手続きがとても面倒で、彼らは通常の場合は、不可能だと思っているのが現状です。

そもそも、パレスチナ人とは1948年以降、イスラエル国となった地域を除くパレスチナに住むアラブ人、および周辺諸国に難民として逃れたアラブ人を意味することが多いのですが、イスラエル国内に住みイスラエル国籍を持つイスラエル・アラブ人を含める場合もあります。昨年妻のエステルと彼女の仲間たちが行った「イスラエル・アラブ人の子供たちへのアンケート」の回答では、自分たちはパレスチナ人だと回答している人が多くいました。しかし、ここにはイスラエル・アラブ人としての、明らかな政治的思考も多分に含まれていることも見逃せません。つまり、パレスチナのまま現在まで頑張っているパレスチナ・アラブ人たちへの遠慮があるのです。

こうした理由から、パレスチナ人が「パレスチナ人」としてのアイデンティティーをいつからどのように保持していたのかは、当然ながら一義的には決められないというのが現状だと思います。

パレスチナを唱えるアラブ人と、イスラエル国籍を取得したアラブ人はそもそも同じアラブ人なのですが、イスラエル建国を境に明確に違う形となってしまったのです。当然のことながら、パレスチナ・アラブ人の方が建国以来、貧しく苦しい生活を続けてきたのです。パレスチナ・アラブ人たちはその現実を思い、心の底では、経済的に裕福となったイスラエル・アラブ人を疎(うと)ましいと考えています。このような現状からユダヤ・アラブの共学共存を語る際には、対イスラエル・アラブ人の場合と対パレスチナ・アラブ人の場合とでは、微妙な点で「共学共存」の理解に差があります。ハンド・イン・ハンド校もエステルたちの学校も、この枠組から言えば、イスラエル・アラブのグループとの共学共存が主流です。パレスチナ・アラブは、自治区と呼ばれる、国ではない地域なので、共学共存活動を実現するためには、イスラエル政府から特別許可を得てはじめて、イスラエル・アラブ人たちとの交流活動が可能になるのです。

そうした現状のもと、現在私たちはそれらの現存する問題や枠組みをとりあえず外に置いて、私たちにしかできない活動として、違いを一つにまとめて「合同の共学共存大集合イベント」を開こうと計画しています。この企画では、イスラエル・アラブ人とパレスチナ・アラブとが直接会って面談することにより、双方の真の会話が必然的に体験できることになるのです。

ここまではアラブ側内部の問題でしたが、一方で、ユダヤ人の側を、宗教に対する考え方で区分けしてみると、そこには幾つかの内部的問題が見えてきます。そもそも、ユダヤ人内部にもユダヤ・アラブ共学共存に対して賛否両論があります。この問題では、ユダヤ人の原点であるユダヤ教における「信者」の内容を調べてみる必要があります。近年の統計によると、イスラエルに住むユダヤ人の30%は敬虔なユダヤ教信者です。そして35%が都合の良い時だけユダヤ教を守る「ヒロニーム」と称するユダヤ人たちで、残る35%は、ユダヤ人なのだが、全くユダヤ教を信じる気配を見せないユダヤ人たちというわけです。このようにイスラエルの全ての国民が敬虔なユダヤ教信者ということではない「現実」も把握しておかねばなりません。

敬虔なるユダヤ教信者たちは、基本的には共学共存活動に積極的に参加するようなことはありません。それはお互いに信じる神が違うのですから、妥協点が見つけにくいからです。ということで、共学共存活動に前向きに参加してくる人たちは、純真な宗教家とは異なる70%のユダヤ人たちの中から構成されています。初歩的な段階で両者が接近できる道を見出すためには、宗教を前面に出さずに共通の話題を選択して、共学共存へ歩みだす環境にある人たちから始めるのが賢明です。環境問題などで、清掃活動を一緒にすることも、ひとつの良い例なのです。サッカーの試合や音楽の演奏などに合同で取り組むのも、同様に良い例です。

ケレン・ハオールの活動はハンド・イン・ハンド校支援と並行して、草の根活動の支援も行っています。それは不特定多数の声なき声を聞くための活動でもあります。「シャニー・ガールズ」のように、日本へ遠征して大きな舞台に登場し、大勢の日本のお客様から喝采を受ける活動も素晴らしいことです。そして、今回の問題のように、脚光は浴びないし、雑草の狭間で目立たない動きながら、アラブ・ユダヤの共存共学の静かな歩みを着実に進めている活動も素晴らしいと思います。それらの活動は、現在イスラエル全土のあちこちで継続しています。ケレン・ハオールは新鮮な話題も積極的に取り上げて、読者の皆様にお届けしていきたいと思います。今後とも皆様の暖かいご支援を宜しくお願い致します。

 

 

 

 

 

 


「イスラエルとパレスチナ」編 臨時特別の巻 ユダヤ・アラブ平等教育推進ハガール協会9

2010年07月25日 08時09分17秒 | イスラエル・パレスチナ

 中島ヤスミン氏の記事です。

        ハンド・イン・ハンド・エルサレム校

           父母たちのインタビュー 

 私は将来,我が娘をエルサレムのハンド・イン・ハンド(Hand in Hand)幼稚園に通園させたいと思っている。私はこの学校を選択した親たちに関心を持った。そこで2009年12月、仕事の合間をぬって、それぞれ宗教の異なる親にインタビューをした。

  HIH校に通わせて100%満足

 タミー・アインシュタイン,ユダヤ人のプロフィール

 宗教: ユダヤ教徒 職業: アートセラピスト 出身地: ニューヨーク。 12歳でイスラエルに 家族と共に移住 学歴: 現在博士論文を執筆中 息子: HIH エルサレム校に在学中。もうすぐ16歳(HIH歴 9年) (HIH歴 9年) 

 子供を通わせた動機は?:

「恐怖心」は無知から来るのです。 この国は、いろいろなグループがお互いに背中合わせで住んでいます。でも他のグループについては実はお互いに何も知らない。そして「知らないこと」が他者に対しての恐怖心を生んでいると思います。相手の文化や言葉を知れば、この状態から開放されて恐怖心もなくなると思います。いずれにせよ、私たちは隣人として一緒に住んでいかなければならないのですから、恐怖の中で暮らしていくよりは相互理解の中で暮らせた方が良いですね。HIHは真の共存コミュニティーだと思います。

 実際に子どもを通わせて:

HIH校の子どもたちは互いに尊敬しています。これは貴重です。 最近、イスラエルでも学校における構内暴力が問題になっていますが、HIHでは暴力問題は一切ありません。HIHでは相互に対話が持たれています。例えば昨年のガザ戦争中に、相手の意見を聞くこと、自分の意見を持つことのバランスをよく学んでいました。それは必ずしも合意が必要ということではありません。対話とは相手の考えを知ることだと思うのです。

 将来軍隊に行くにあたって

息子は、正しい倫理観とモラルを以って行動できると思います。彼は18歳になったらイスラエル国防軍に入隊すると言っています。イスラエル国民の義務としてやらなければならないと考えているのです。HIH校の経験により、軍人として、正しい倫理観とモラルで行動できる兵士になると思います。HIHの親の一人が、予備役でベツレヘムのチェック・ポイントに服務していたことがありました。同じHIH校の親仲間で、キリスト教徒が仕事で通っていました。お互いにいつも友人として接しました。周囲のアラブ人やユダヤ人兵士に良い模範を示したと思いますよ。

 良い点,悪い点:

 まだまだ、HIH校は大海の一滴。もっと親たちの努力が必要だと思います。 息子の学年は1学年1クラスしかありません。社会性を身につけるために、子どもをもっと大きい学校に通わせたいと転校させた親もいました。一人は3カ月でHIH校に戻り、一人は今でも休みやイベントがある時にいつもHIH校に帰ってきて、行事に参加しています。特に私たちの世代は一緒に学校を作り上げてきたので、親も子どもも本当に一つのコミュニティーを形成しています。このコミュニティーから離れるのは難しいと思います。 確かに、共学共存の理念に疲れて離れていく親たちもいます。家の近所の学校に子どもを通わせていれば、送り迎えの手間やいろいろな親同士の会合に出席する必要もない。それなりの理念を持っていなければ、継続するのは大変だと思います。私自身は子どもをHIH校に通わせていることに100%満足しています。

 周囲の反応は?:

 ハンド・イン・ハンド校の子どもたちは二民族の「かけ橋」の役割をしていると思います。 私たちはシナゴークに毎週通っています。そこでユダヤ教を守っている友人が、息子のバル・ミツバ(ユダヤ人の成人式) などにHIH校のクラスメート(他宗教)も招待した時、普段接する機会がない子どもたちがお互いにとても興味を示し、質問をいっぱいしていました。 私は開校当初から参加していましたが、その時に、「ユダヤ・アイディンティーの喪失 」を警戒する反対意見がありました。しかし多文化社会イコール自己のアイディンティーの喪失にはなりません。反対に多文化だからこそ自分のアイデンティティーを考え、自覚する機会が持てると思います。私自身もニューヨークの多民族社会で育ちましたが、常に自分はユダヤ人だと自覚していました。だから、このような心配はナンセンスだと思います。周囲の友人には、私の息子をみて自分の子どもをHIHに通わせなかったことを残念に思っている人もいます。また、この学校の活動がイスラエルに存在する差別主義を変えていくかも知れないと確信しています。

  このような方法が将来、両民族間の平和共存に繋がるか?:

 「平和」という言葉はとても遠くて、今の私たちには手の届かない所にあると思えます。しかし、多くの親たちは今のイスラエルの現状に疑問を持ち、その解決方法を模索してHIH校に子どもを入学させました。HIHが一滴のしずくとなって、水面に徐々に波紋を広げ、社会に浸透していけたらと願っています。


「イスラエルとパレスチナ」編 臨時特別の巻 ユダヤ・アラブ平等教育推進ハガール協会8

2010年07月23日 08時21分49秒 | イスラエル・パレスチナ

 会の代表者松村光子氏のあいさつ原稿です。写真は挨拶をするゴーシュ・ハイアン市長、右下が松村氏です。

 「こんにちは」という言葉は日本語で日中に使う挨拶です。「こんにち」の意味は「今日=きょう」です。その昔、日本民族の大部分は米作に従事する農民でした。農民にとっては天候が最も重要でした。そこで日本人が出会うとお互いに「今日は(どうですか)」と言いました。それから、「今日は 良い天気ですね」、あるいは「曇りですね」と天気について話します。その後、通常の会話に入ります。

  ここイスラエルでは、あなたがたはお互いに「シャローム」、「サラーム」と挨拶しますね。これは、この地方では常に「平和」が最も重要であったことを示唆しています。(私注 2010年4月18日をご覧ください)私にとっても「平和」は非常に重要です。私は第2次世界大戦中、父をフィリピンの戦場で、叔父を満州の戦場で失いました。私は心の痛みと悲しみで長い間泣き続けました。そこで、子ども時代から「世界平和」を夢みていました。

 私は1967年5月22日に22人の若い日本人のグループの一員として、イスラエルに初めて到着しました。そして6月5日に「6日戦争」に遭遇しました。日本大使館から「直ちにイスラエルを離れ、戦争に関係していない近隣諸国に行くよう」助言されました。しかし、私たちはキブツ・ダリアに残ることに決定しました。恐怖で緊張しながらキブツで働きました。防空壕に逃げ込んだその日に、ある家族の一人息子であるキブツの若者が、ジェニンの戦闘で戦死したと聞きました。 私は、ユダヤ人でもアラブ人でもありません。私はユダヤ人、アラブ人に対して憎しみを持っていません。私はイスラエルとアラブの両側で戦死した人たちを、私の家族の一員であったかのように感じ、心を痛め悲しく思いました。 私はユダヤ・アラブ間で「共存」を求めるあなたがたの1年間を締めくくるこの総会に参加できることを嬉しく思います。あなたがたは新しい世代です。ここに2民族の「共存生活」が実現することを期待します。そして将来、中東だけでなく世界の見本になってほしいのです。

  私たち日イ支援会、日本の支援者、そして、1905年に日本で最初に創設されたキブツである一燈園が、あなたがたを応援しています。一燈園の子どもたちが、昨年11月末に街頭募金に出ました。1日で約1000ドル集め、そのお金をユダヤ人とアラブ人が一緒に勉強しているベルシェバのハンド・イン・ハンド校に寄付しました。 手に手をとって、「平和」、「サラーム」、「シャローム」に向かって行進しようではありませんか。最後に、1963年に暗殺されたアメリカの大統領J.F. KENNEDYのことばで、私の挨拶を結びたいと思います。

 「人類は戦争を絶滅しなければならない。さもなければ人類は戦争によって全滅する」(Mankind must put an end to war, or war will put an end to mankind)。(原文:ヘブライ語)


「イスラエルとパレスチナ」編 臨時特別の巻 ユダヤ・アラブ平等教育推進ハガール協会7

2010年07月21日 08時24分14秒 | イスラエル・パレスチナ

 ケレン・ハオール6号から 「ユダヤ・アラブ共存推進活動」大集会開催 についての山崎 智昭 氏の記事です。

 写真はアラブのダンス、「デブカ」を踊る子供たち。左側がこのダンスをリードする人。

 イスラエル中央地区にあるゴーシュ・ハアインの市公会堂で、「ユダヤ・アラブ共学共存のためのクラブ活動」に参加している生徒たち420名が 集まり、大集会が開催されました。この集会は、この組織が1年間どう活動してきたかを総括するイベントとして企画されました。会場の収容人員に制限があるため、28校の代表生徒420名だけになりましたが、参加した各校生徒の力強い発表によって、集会は大成功でした。 私たち「ユダヤ・アラブ青尐年共学共存推進日イ支援会」は、大集会の内容や主旨に全面的に賛同し、後援団体として参加しました。そこで今回は、後援の経過などを読者の皆様に報告します。

 はじめに

私たちの組織が支援活動を行っているのは、大きく分けると主に次の3団体になります。 1 すでに皆様ご存知のハンド・イン・ハンド教育運動。 2「ユダヤ・アラブ共存のための青尐年クラブ」。 3「ギバット・ハビバ・ユダヤ・アラブ平和教育センター」。 1番目に挙げたハンド・イン・ハンド教育運動は、主に世界中のユダヤ人組織とヨーロッパの友好国から大きな支援金を受けています。 2番目は、イスラエル政府教育省のイニシァチブにより、小中高校において全国的な規模で展開されています。学校のクラブ活動として、ユダヤ側とアラブ側の学校がペアになって行われています。外部からの支援金は受けていません。当会はこの組織の、イスラエル中央地区の28校が参加している組織と情報交換などをしています。 3番目の「ギバット・ハビバ・ユダヤ・アラブ平和教育センター」ですが、この組織もハンド・イン・ハンドと同様に世界中から支援金を受けて活動しています。また、キブツ・アルツィ連合に所属する機関で、経済的にも安定しています。 ギバット・ハビバには、オープン・ユニバーシティー、宿泊施設やシンポジウム開催用の施設も完備しています。当会では、小額ですがこの組織への支援金の予算を組んでいます。この平和教育センターは、昨年60周年祝賀祭を行っており、豊富な歴史、経験、人脈を持っています。私たちはこの組織とも協力関係をうちたてて行くつもりです。

私たちの日イ支援会は初の外部後援団体

今回のイベントは当初、イスラエル政府援助資金や、それぞれの学校からの資金援助、そして参加する生徒たちの保護者による個人献金を集めて開催する方向で企画会議が行われました。このイベントのための運営資金は、前述の2組織のような、世界各地からの援助はまだありません。協議の過程で、 今回のイベントは予算不足で苦しい運営を迫られているという情勢報告が出 てきました。「ユダヤ・アラブ共存推進活動大集会」という夢のある企画も、規模の縮小、あるいは中止か、という事態に追い込まれたのです。 私たちの支援会は、「ユダヤ・アラブ共存のための青少年クラブ」を主催している教育省支部である中央地域から援助要請を受けました。そして、最初の外部支援組織となりました。もちろん、この決定は「ユダヤ・アラブ共存のための青尐年クラブ」の関係者に歓迎され、即時に感謝を表明されました。当日の会場でも参加した生徒たちから直接、『支援金ありがとう』の言葉を何回も聞きました。 このイベントは、イスラエル教育省の教育プロジェクトである「ユダヤ・アラブ共存のための青尐年クラブ」の活動でもあり、政府関係者や開催地市長、そして大勢の学校長が参列します。当会としては、多くの関係者に当会の存在を知らせる、またとない機会として考えました。イベントでは、当会は光栄なことに後援組織として代表の祝辞を依頼されました。いうまでもなく「ユダヤ・アラブ青少年共学共存推進日イ支援会」の存在と目的を、共学共存関係者にアピールする絶好の機会となりました。

 日イ支援会は確実に歩んでいる

  会場から 大集会そのものは、定刻通り午前10時に満員の会場で始まりました。ユダヤとアラブの生徒たちが420名も同じ会場に集まったという事実を、参加者全員が喜びの心で強く感じたと思います。そして 次々に舞台に登場する各校代表生徒たちの音楽やダンスは、賑やかで和気あいあいの交流となりました。楽しく平和に満ちた充実した2時間を過ごし、生徒たちの輝く瞳を確かに見ることができました。特にユダヤ・アラブ合同での生徒たちの共学共存の寸劇「スチグマ」と「相互理解」などは、私たちの目指す草の根運動そのものの題材でした。会場からもその都度「共鳴します」という意志を表する盛大な拍手喝采が浴びせられました。司会進行役は「ユダヤ・アラブ青尐年共学共存推進日イ支援会」発起人の一人である山崎エステルと、彼女の友人でアラブの村のスワード先生の2人で担当しました。両人とも、数年来共学を進める現場の活動をしているため、呼吸もピタリでした。 各来賓の皆様からの祝辞は『ここに集まっているあなたがたは、共学共存活動の最前線。将来への永久平和への賢明なる歩みの第一歩だ』など、どれもが熱の込もったものでした。なお、私たちの日イ支援会代表、松村光子さんが来賓として素晴らしいスピーチをされました(内容は別掲)。松村さんのヘブライ語の祝辞は、大集会の異色の来賓祝辞という感じで、会場の全員が静かにスピーチに耳を傾けていました。「一燈園児童が寒い中で街頭募金をして集めた支援金を、ベルシェバ・ハンド・イン・ハンド校へ寄付した」というところでは、会場から敬意の大拍手を受けました。 この大集会への参加は、「ユダヤ・アラブ青尐年共学共存推進日イ支援会」が確実に歩んでいる証拠です。現場での仲間たちの中に、ゆっくりですが着実に浸透していることを、肌で感じた瞬間でもありました。 イスラエル国内に広がる共学共存の活動の輪を支持し、広げていきたいと思います。今後とも日本の読者の皆様のご理解と、益々の応援をお願いいたします。私たちはこれからもイスラエル国内での支援奉仕活動に、可能な限り時間を割き、邁進していく所存です。


「イスラエルとパレスチナ」編 臨時特別の巻 ユダヤ・アラブ平等教育推進ハガール協会6

2010年07月19日 08時21分44秒 | イスラエル・パレスチナ

 

 予告していたケレン・ハオールの機関誌3号中島ヤスミン氏の記事、その後7号の中から3本を紹介後「インドネシア」編を始めます

ユダヤ•アラブ青少年政治懇談会を見学して 

   中島ヤスミン

 イスラエルとパレスチナ自治区を往復して 私は観光ガイドという仕事柄、以前からパレスチナ自治区にもよく行き、多くのアラブ人と接する機会があります。一方テルアビブ周辺に住んでいる親戚の子どもたちは、そういう機会があまりないためアラブ人に対する見方が大分違います。彼らは、私たちが住んでいるエルサレムにたまに遊びにくると,町ですれ違うアラブ人を恐る恐る見て、小声で自爆テロの可能性を聞いたりします。また夫が教えているヘブライ大学を案内した時も、多くのアラブ人学生がユダヤ人学生と一緒に勉強していることに驚いていました。 私がパレスチナ自治区の子どもたちに会いにやって来た日本人NGOグループの同行ガイドとしてウエスト・バンクに行った時のことです。パレスチナ青年が日本人に訴えるイスラエル人像というのは,強硬に入植活動をしている過激なユダヤ教信奉者たちや、彼らを警護するために派遣されたイスラエル兵の姿でした。イスラエル国内でも過激なユダヤ教信奉者は少数派ですし、彼らに対して厳しい非難があるのは勿論です。 日本人の私は、二つの民族の間で,お互いのイメージに大きな誤解が生じていると私は感じていました。日本人である私は、それぞれの地域に足を運ぶのが容易なので,機会あるごとにアラブ人とユダヤ人に,「日本人から見るとてもよく似ていますよ」と話すのですが,思うほどの効果はありません。 そんなジレンマのなか,イスラエル国防軍から観光に携わるイスラエル人ガイドやバス運転手も保安のためにパレスチナ自治区(ベツレヘム、ジェリコなど)には入らないよう指示を受けるようになりました。2001年以降のインティファーダ勃発(注)で観光業に携わる人の解雇率が一時90%近くになったことがありました。

 (注)パレチナ人の第二次反乱。原因は、2000年7月25日、キャンプ・デヴィドで開かれた「中東平和のための3者会議(ビル・クリントン、エイフード・バラク、ヤセ・アラファト)」の失敗に原因があるという説があり、この月をパレスチナ人第二次反乱の始まりと考える人々がいる。また、同年、9月28日、アリエル・シャロン氏が、二民族にとって聖地であるテンプル・マウント(アラブ側は、アル・アクサ寺院と呼ぶ)を訪れたことから暴動が始まり、この月にパレチナ人の第二次反乱が始まったという説もある。

 私に何かできることは?

 こんな状況ではお互いの不信感は募るばかりだと思っていた時に、山崎エステルさんが参加している、ユダヤ•アラブ青尐年懇談会を仕事仲間の山崎智昭さんに教えていただき、何かお手伝いできればと今回の懇談会の見学に行きました。 ユダヤ•アラブ青尐年懇談会の会合は,5月19日午前8時半からベングリオン国際空港近くのキブツ・ベロット・イツハックで開催されました。私は子どもを保育園に預けなければならない事情もあり、遅れて9時半ごろ到着しましが、既に子どもたちは仲良く一緒に楽しそうにゲームに熱中していました。参加した子どもの数は、ユダヤ人15、アラブ人、15合計30人とのことでした。

 ゲームを通し協力精神を学ぶ子どもたち

 私が到着した時に子どもたちは、みんなで協力してボールを迷路を通して目的の場所に入れるゲームをして遊んでいました。2つのチームに別れて競争します。最初は各自ボールを見ながらボードを上げたり下げたりしていましたが、指導員が「次はみんな後ろ向きで、ボールを見ないで入れてください」と言いました。その代わりそれぞれのチームに一人ずつチームの「目」になる人を選びゲームを開始しました。「目」は指示を出し、チームのメンバーは指示に従います。勝敗が決まった後は、次のゲームです。これは輪になった縄をみんなで持ってその縄の上を人が歩くのです。協力して縄を上手に引っ張らないとうまくいきません。最初は1人、次に2人と歩きます。そのうち人を乗せたまま立ったり座ったり上手にできました。以後、30分毎に入れ替わった6種の遊びがありました。 ゲームの後、指導員は「これらのゲームを通して互いが協力しなければできないことが、世の中にはたくさんあるということを子どもたちが知ることです」と結びました。真剣に聞き入っていた子どもたちは、遠足先のキブツで協力精神を身につける遊びや自然についても楽しく学びました。最後はタルブッカと呼ばれるアラブの太鼓演奏を学びました。タルブッカの太鼓を叩きながら、アラブの歌を披露したり、イスラエルの歌を一緒に歌ったりしてこの遠足は終わりました。

 外見だけでは識別できないユダヤ人とアラブ人の顔、顔、

 私は子どもたちの姿を写真に収めながら、どの子がアラブ人でどの子がユダヤ人なのか観察していました。女の子はすぐ分かりました。アラブの子たちは一人の例外を除いてスカーフを頭に巻き、ジーンズにお尻を隠すくらいのチュニックを着ています。ユダヤ人の女の子は最近流行のホットパンツをはいて素足を見せています。でも男の子は外見だけではほとんど判断できません。例えば、背が高く肌の白い青い目の子が、アラビア語を友達と話すまでアラブ人かユダヤ人か分かりませんでした。十字軍の末裔かしらと思うぐらいヨーロッパ的顔立ちです。またもう一人の男の子は色が浅黒く背もあまり高くありません。黒い目黒い髪で、どちらだろうと思っていると隣の赤シャツの女の子とヘブライ語で話しました。イエメン系のユダヤ人かもしれません。外見だけでは判断できないほど、双方ともいろいろな顔があります。

 おわりに

  この日一日、子どもたちを写真に撮っていた私は、みんながよく笑い楽しそうにしていること、また自然に一緒にいる姿を見ていました。でも山さんの話では、懇談会第1回目は,双方とも緊張した顔つきで2つに別れて座っていたそうです。(ケレン・ハオール第1号にその模様が描かれています)今回の懇談会は五回目で今年最後になるのですが、子どもたちは来年も続けたいと言っているそうです。特に今回は学校の外に出ての懇談会で、お互いに開放感もひとしおだったのでしょう。まるで同じクラスの子ども同士のようでした。 確かにユダヤ・アラブ紛争はアラブ人とユダヤ人の問題であって,遠くに住む日本人は部外者かもしれません。今の状態では双方の不信感が強くなるばかりで、この不信感を和らげるためには、第三者的な中立者が必要であることは確かです。不信を解くにはお互いに相手を知る必要があります。そのためにはできるだけ多くの懇談会の機会を作ることが大事で,年6回、しかも毎回1時間の会合では少なすぎます。今回のように一緒に遠足に行ったり、旅行をすることによって交流が深まります。子ども時代共に楽しい時間をたくさん過ごすことが、将来彼らの良い思い出になり、双方のイメージを変えていくと思います。本当は、子どもの時から一緒に机を並べ、一緒に育ちながら相手の言葉や文化などを知ることが一番理想的だと考えます。このような取り組みの学校が最近数校設立され、欧米からの援助を受けています。これらの活動のための資金援助が日本人である私たちにできる重要な協力ではないかと思います


「イスラエルとパレスチナ」編 イエスの足跡36 ヒエロニムス

2010年07月05日 08時22分05秒 | イスラエル・パレスチナ

 イエスの死後ユダヤ教イエス派はキリスト教へと発展していきます。そこで重要な役割を果たしたのが聖書です。旧約聖書はヘブライ語、新約聖書はギリシャ語で書かれていました。これを中世ヨーロッパの共通語である(ただし知識人)ラテン語に20年を費やして訳したのがヒエロニムス(347~420)です。この聖書はウルガータ版と呼ばれ20世紀に至るまでカトリックのスタンダードとされていました。 彼はベツレヘムでこの翻訳をしてここでなくなりました。したがってベツレヘムの聖誕教会の近くにこの銅像がありました。 

 余談話。 イエスは何語を話していたかご存知ですか。アラム語ですね。イエスの最後の言葉「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ」がアラム語であることからも明らかですね。したがって、イエス時代のユダヤ人の日常言語はアラム語でヘブライ語は文章語になっていました。アラム語は当時オリエント地方の広域共通語でした。現在のヘブライ文字もアラム語文字からきています。現在のイスラエルの言語ヘブライ語はこのヘブライ語を復活させたもので、このように一度日常言語でなくなったものが復活するというのは歴史上極めて希有な例です。


「イスラエルとパレスチナ」編 イエスの足跡34 復活2 ペテロ首位権の教会1

2010年07月03日 08時24分48秒 | イスラエル・パレスチナ

 もうひとつはイエスの故郷ガリラヤ湖畔で、弟子たちのもとに現れました。そこにペテロ首位権の教会があります。岩にMensa Christiと書かれていますが、キリストのテーブルという意味で弟子たちと食事をしたとされるテーブルです。


「イスラエルとパレスチナ」編 イエスの足跡33 復活1 エオマ

2010年07月03日 08時21分11秒 | イスラエル・パレスチナ

 キリスト教信仰にとってイエスの復活は絶対条件です。今回の旅行ではイエスが復活したとされる所を2か所訪れました。一つはエルサレム近郷のエオマです(マルコ24:13~32)。その場所は細かくは特定されていませんが、この辺りとされる場所に行きました。したがって復活の場所という表示はありませんでした。写真に見るように1世紀のユダヤ人墓地のあるところでした


「イスラエルとパレスチナ」編 イエスの足跡31 聖墳墓教会1

2010年07月01日 08時23分27秒 | イスラエル・パレスチナ

イエスが磔刑になったとされるゴルゴダに聖墳墓教会があります。中は大勢の人でごった返していて、しかも暗くて現地ガイドの中に入っての説明もないので何が何だかわかりませんでした。ほとんど何も見ないうちに出てきました。

 中はいくつかのセクションに分かれ、それが各々、カトリック、コプト、アルメニ、アギリシア、ロシアの宗派に管理されて競い合っています。ここ全体の出入り口の管理は各宗派の争いにならないようにイスラーム教徒の人にゆだねられています。この話は実に愉快ですね。キリスト教の各宗派間の争いをイスラー教が仲裁しているのですから。