100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「トルコ」編 トロイ遺跡とシュリーマン

2021年09月30日 07時51分42秒 | トルコ

 ダーダネルス海峡をわたって小アジアの最初の観光地は有名なトロイ遺跡でした。ホメロスの叙事詩で古代ギリシア人が10万人の軍隊でこの地に遠征した話は従来架空の伝説物語とされていました。それを実際の物語と幼小児時に信じてハインリッヒ・シュリーマン(1822~1890)がトロイ遺跡を発掘して史実と確定しました。
 写真右はホメロスの叙事詩で最も有名な「トロイの木馬」(あまりにも有名なので説明省略)です。写真左下は出土した水道管です。水道施設が整っていたのですね。
 シュリーマンについて通常知られていることは間違ってという説を2008年2月4日に紹介しているので一部修正再録します。

トロイ発掘についてこの項の最初に述べたのはシュリーマンが幼少時にホメロスのイリアスに感動したのがきっかけと紹介しました。当時トロイの実在は疑問視されていました。彼は実在を証明するため事業を起こし費用をためました。そしてついにトロイの遺跡発見となるのが彼の自伝「古代への情熱」のストーリーでした。
 しかし、最近の研究によればどうやらこの話しはシュリーマンのウソであったようです。
 「シュリーマン 黄金と偽りのトロイ」(トレイル著 青木書店)はシュリーマンの日記などを厳密に考証し彼の幼少時の話しをウソであると主張しています。この本は私も読みましたが、キワモノ的なものでなく信頼が置けるものと感じました。(読んだのが数年前のため詳細は忘れたので以下のようなことを付け加えておきます) 
 インターネット上の百科事典ウィキペディアもこのトレイルによっているのか幼少時の話しをシュリーマンの虚言癖、見得によるものとしています。そして30歳年下の再婚相手の教養と美貌にコンプレックスを感じトロイの発掘が子供の時からの夢だったと語ってしまい発掘する羽目になったとしています。 また英語版のウィキペディアも幼少時の話しを証明するものはないと言う説を紹介しています。
 トレイルの本で紹介されているシュリーマンの離婚、再婚の話しも面白いです。興味のある人はこの本をお読みください。
 ついでにもう1つ。シュリーマンはトロイの発掘以前に日本を訪れ(1865年)約1ヶ月滞在して将軍家茂の行列など見学し日記風の記録を残しています。

 エンディングノート
  直腸がんの手術のため10月2日に入院します。そこでこのブログを当分(約4週間)または永久に休載します。
 最近「生」への執着が薄くなってきました。生きるのが面倒くさくなっています。それで手術? 直腸がんの終末期の身体的苦痛は耐えられないほど辛いとのことで。

「トルコ」編 アヤソフィアとダーダネルス海峡

2021年09月27日 07時51分47秒 | トルコ

 最初の訪問地は人口1410万人のイスタンブールでした。トルコ最大の都市ですが首都ではなく人口442万人の小アジア(アナトリア)にあるアンカラです。蛇足ですがイスタンブールはヨーロッパにあります。トルコの面積の97%はアジアで3%がヨーロッパ側にあります。
 最初に観光したのはアヤソフィアでした。(写真上)ビザンチン帝国時代に作られたキリスト教の大聖堂でした。1453年ビザンチン帝国がオスマントルコに滅ぼされアヤソフィアはイスラームのモスクになりました。その時壁などに描かれていたキリスト関係のモザイク画などは土壁によって隠されました、その後第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北してケマルパシャの政教分離的政策で壁の一部がはがされキリスト教関係のモザイクが露出し博物館となりました。その博物館アヤソフィアをわたくしたちは訪れました。しかし2020年にエルドアン大統領のイスラーム強化の政策によりモスクに復活しました。
 その他イスタンブールには歴史的建造物などが数多くありますが、それらは今回の旅行の最終日に訪れたので「トルコ」編の最期に紹介予定です。
 写真中はイスタンブールのホテルからダーダネルス海峡→小アジアを望んだ風景です。
 イスタンブールから(アレクサンダー大王も渡った)ダーダネルス海峡を渡ってトロイ遺跡に向かいました。(写真下はダーダネルス海峡渡る舩中・学生のようですね)

「トルコ」編 現地ガイドのハーカンさん

2021年09月24日 07時45分49秒 | トルコ

 2000年10月2日〰16日「トルコ物語」というツアーに参加しました。 わたくしの初海外旅行は1995年の「エジプト・ギリシア・トルコ」でトルコはわずか2日間でしたが、今回は15日間フルです。なおその時の失敗談は2020年1月12日に「恥ずかしくて、怖くて、不思議なはなし」として紹介しています。(以下2006年2月27日の再録。一部修正追加)
今回の15日間のトルコを通じての現地ガイドはハーカンさんでした。写真左上はエフェソスの遺跡で説明しているハーカンさんです。写真左下はハーカンさんの名刺です。「波歓」の印鑑はカッコいいですね。
 彼はイスラーム教の信者ではなくトルコでは珍しい存在だと自分で説明していました。なかなかのナショナリストでビザンチン帝国を1453年滅ぼしたオスマン帝国の征服王メフメトⅡ世(在位1951年~81)を尊敬していました。また4世紀にエジプトのカルナック神殿から運ばれてきた(合法?非合法?)オベリスク(写真右)がイスタンブールにありますが、これを見て私がハーカンさんにからかい気味に「エジプトが返してくれといっているよ」というと絶対に返さないと本気でいきまいていました。
 彼の日本語は完璧でした。バスの中で日本からの添乗員が日本語に詰まった時すかさず助けを出した時は全員拍手喝さいでした。日本人よりも上手な日本語の使い手でした。その彼は日本語を始めてから5年くらいで、英語は子供の時からでペラペラのようでした。英語のガイドもするそうですが、日本語の方が疲れないそうです。語順が同じからだそうです。
 ちなみに、トルコでは半分以上の大学に日本語学科があるそうです。
  彼の祖父は現在のギリシャ領に住んでいたそうです。第一次世界大戦でトルコが破れ当時ギリシャに住んでいたトルコ人は現在のトルコ領に戻り、トルコに住んでいたギリシャ人はギリシャに戻りました。現在のトルコ領にあったギリシャ人の住居跡(カッパドキア近くのムスタファパシャ村)が観光地になっています。(後日紹介予定)

「ラオス」編 焼きバナナ売りの少女

2021年09月18日 07時50分54秒 | ラオス

 ルアンプラバンの街をぶらぶらしました(写真上中)。ちょっと郊外に出て人通りのあまりない道を歩いているとこのような(写真下)少女に出会いました。何だろうと傍に立ち寄ってみると七輪でバナナを焼いていました。どうやらこのバナナは商品のようでした。そこで試しに一本買い求め食べてみると大変美味しい。あとに残った数本のバナナをすべて買い取りました。今考えてみると、街中で商売をする権利がないので人通りの少ないとこらで
小遣い稼ぎをしていたようです。わたくしではこの時初めてバナナにはそのまま食べるのと、調理用のバナナとがあることを知りました。そうですこのバナナは生では食べない種類です。
その後 マダガスカルではラム酒と砂糖付けの焼きバナナを食べたことがあります。(2013年2月8日紹介) フィリピンでも調理したバナナをいただきました。(2018年6月2日紹介)

「ラオス」編 タイのアイドル候補

2021年09月15日 07時22分23秒 | ラオス

(2006年3月27日の修正追加の再録)
 ルアンプラバンで街が見渡せるというプーシの丘(仙人の丘という意味)に登りました。(写真上はプーシの丘から眺めたルアンプラバンの町)観光客がたくさん来ていました。そこでタイから来ていた二人の少女と仲良くなりました。二人の中年の男性も一緒でした。宿泊のホテルも同じでした。夕食後彼女たちはディスコに行くというのでついて行きました。(日本ではディスコに行ったことはない)
 驚いたことにディスコに入るとすぐに舞台に上がり歌いだしました。疲れていたので彼女たちの活躍を最後まで見届けないまま、テーブルに10ドルを置いてホテルに帰りました。翌朝朝食に出かけると彼女たちもいました。一緒にいた初老の男性が待ちかねたようにやってきて昨日の10ドルのお釣りだといってお金を渡そうとしたのでいらないといいました。するとお土産にしてくださいといって新札のタイバーツ(タイのお金)数種類差し出しました。せっかくの好意なのでいただきました。 
話を聞くと彼女たちはタイの新人歌手でこの地で反響を見るために来ていたようです。男性は歌事務所の人であったようです。 今回の旅ではタイからの観光客が目立ちました。
 写真下は彼女たちのディスコでの舞台です。

「ラオス」編 バーンパノン村 エンディングノート

2021年09月12日 07時49分13秒 | ラオス

 織物で有名なバーンパノン村を訪れました。写真上は工場の建物です。

 エンディングノート 
結局悩んだ末、うすきクリニックの医師の勧めに従い手術をお願いすることにしました。体の他の部分のがん検査はなしということで。明日13日に宇宿クリニックで手術に至るスケジュールの提示がある予定。今村病院の手術担当医師は宇宿クリニックの医師の後輩ということから問題が解決したのか?余談話―最初に手術の断念を決断した直後のわたくしの行動は?フランケンワイン白トロッケン(このブログにもたびたび登場)10本の購入でした。

「ラオス」編 パークウー洞窟 エンディングノート

2021年09月09日 07時53分19秒 | ラオス

 サーンハイ村から再びボートで30分行ったところにパークウー洞窟がありました。15世紀以降ラオスでの内戦時に王の隠れ場となり、仏像が持ち込まれ寺院となりました。盗まれた仏像もたくさんありますが、現在4000体ほど残っているそうです。
 エンディングノート
 7日、うすきクリニックの紹介で今村総合病院に行きました。このままでは余命半年と宣告されました。いろいろな検査の結果体力的には可能との判断で成功率は80%とのことでした。そこで手術をお願いしようと思いました。ところが手術の前提に体の他の部分にがんがないかどうかの検査を他の病院に行って調べる必要がありその結果によって手術可能性について判断をするとのことでした。わたくしは今までの数多くの検査に辟易していたので他の病院で検査を断りました。そこで それでは手術はできませんとの医師の発言でした。そこでわたくしも手術を諦め余命半年を選択することにしました。もともとがんの発見は便秘と出血から始まっていますが、現在はその便秘は「ピムロ」という薬で改善され快便に近いものになっています。しかしこの「ピムロ」の効果は何時までも続くはずはありません。その時はわたくしの人生の終点です。もちろん、その間「うすきクリニック」には緩和ケアをお願いするつもりです。なお、できるだけ旅行に関するこのブログはエンディングノートをはさみながら続けたいと思っています。よろしくお願いします。僭越ながら、中江兆民の「一年有半・続一年有半」を思い出しました。ここまでは7日当日の文章です。
 ところが8日に「うすきクリニック」に報告に行くと自分の肉親の例も挙げられて強く手術を勧められました。今村病院の担当医から説明不足だったと「うすきクリニック」に電話もあったそうです。というわけで、今どうすればよいか混乱、悩んでいます。皆さん良い知恵をお貸しください。
 色川大吉の訃報。冥福!

「ラオス」編 サーンハイ村3

2021年09月06日 07時49分19秒 | ラオス

 焼酎の原料のもち米はメコン川で洗い麹を入れ発酵させます。(写真上)
 最後はこのようにドラム缶に入れて蒸留します。(写真中)
 試飲をさせてもらっておいしかったので使用済みのブランディの瓶に入ったのを1ドルで購入しました。ところが日本に持ち帰り飲んだところガソリン臭くて飲めません。どうやらこの瓶は以前ガソリンを入れていて、その洗浄が不十分だったようです。その後、このときの同行者に別の旅行で出会い尋ねたところ異常なくおいしかったという話でした。悔しい!
 (写真下)織物の村でもあります。

 エンディングノート 先日直腸がん(ステージ2〰3)が判明。7日治療法決定予定。ブログのネタ切れと寿命のネタ切れはどちらが早いかな。どうやら寿命のネタ切れの方が早くなったようです。天涯孤独のわたくしには病院関係者から「保障人?」「身内の人?」と詰問されるのに参っています。

「ラオス」編 サーンハイ村2

2021年09月03日 07時46分56秒 | ラオス

(写真上) 8月13日にも紹介した日本を含む東南アジアでよく見かける信仰ですね。ヨーロッパやイスラーム圏では絶対見られません。ただし例外もあります。2010年11月9日に紹介しています。ガイドブックなどにも紹介されていないきわめて希少なものです。ぜひご覧ください。(左欄の年表)
(写真中)竹で竹籠を編んでいます。この竹籠も以前の農村では普通に見られましたが、今は。
(写真下)美人のお母さんと赤ちゃんに出会いました。暖かいところですが、赤ちゃんの手袋、ソックスに母親の愛情を感じました。20年以上たった今も忘れることのできない1枚です