100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「韓国」編 日本と韓国51 安重根義士記念館1

2011年06月30日 08時01分09秒 | 韓国

 景福宮はホテルの近くなので方向音痴の私でも徒歩で行くことができました。安重根義士記念館と西大門刑務所歴史館は少し遠いようなのでタクシーで出かけることにしました。初乗りが日本円に換算して200円弱でその後もメーターはそれほど上がらず安い交通費でした。私のような方向音痴の方にはソウルでの観光はタクシーがお勧めです。

 

 安重根義士記念館については424日に紹介した現地手配会社の高さんは「今後とも日本人のツアーコースには絶対に入らないでしょう。なぜならば安重根は韓国では国民的英だが、日本では(ここで言い淀み言葉が止まる)」。そこで私が続けて「日本ではテロリストですか(私がそう考えているのではありません)」

以上のような会話がなされました。

 

さてホテルでタクシーの手配を頼みました。ところが驚いたことにホテルの人は安重根義士記念館は知ってはいるが場所を知らないのでガイドブックを見せてくれとの話です。ホテルの前に駐車していたタクシーにホテルマンが話をしてくれました。これまた驚いたことにタクシーも知らないのです。ようやく知っているタクシーを見つけ出発。

 

1905年韓国を保護国にする乙巳条約を強要したときの責任者でありその後この条約によって設置された統監府の初代統監になった伊藤博文を日本に抵抗する義兵闘争をしていた安重根は19091026日ハルビンで射殺しました。

安重根は伊藤博文の罪悪15カ条をあげ義挙の理由を以下のように述べています。

「私が伊藤を殺害したのは韓国独立戦争の一部であり、また私が日本の法廷に立つようになったのも戦争に敗れて捕虜になったからである。私は個人の資格でこのことを決行し

たのではない。韓国義勇軍参謀中将の資格で祖国の独立と東洋平和の為に実行したのであるから『万国公法』によって処理すべきである」

このように彼は今でいうテロリストではないと主張しています。

191025日死刑判決、326日死刑執行」

その彼を記念する安重根義士記念館が1970年造られました。写真は記念館の前にある銅像です。

 

 

 

 

 

 


「韓国」編 日本と韓国49 景福宮キョンポックン3 光化門1

2011年06月27日 08時10分56秒 | 韓国

 光化門は景福門の正門です。1922年朝鮮総督府は府庁舎を建設するためこの光化門の取り壊しを計画しました。それに対して民芸運動を進めるうちに朝鮮陶磁器に関心を寄せていた(特に庶民の雑器)柳宗光(18891961)は「朝鮮建築のために」という文章を発表し反対運動を展開しました。その文章の最後の所を紹介しておきます。

 

 「光化門よ、長命なるべきお前の運命が短命に終わろうとしている。お前は苦しくさぞさびしいであろう。私はお前がまだ健全である間、もう一度海を渡ってお前に遭いに行こう。お前も私を待っていてくれ。お前を生んだお前の親しい民族は今言葉を慎むことを命ぜられているのだ。それ故にそれらの人々に代わって、お前を愛し惜しんでいる者がこの世にあるという事を、生前のお前に知らせたいのだ」

 

 この文章は世界各国で読まれました。結局、光化門は移転保存されることになりました。その後朝鮮戦争で焼失し1968年に元の位置に復元されました。(現在位置)その背後に旧朝鮮総督府庁舎が残り韓国政府庁舎や国立博物館として使用されてきました。しかし韓国民の間でこの庁舎が日帝時代の嫌な思い出ということで撤去運動がおこり(賛否両論あり)1995年に取り壊されました。この光化門と旧庁舎が共に存在していた時の写真が「観光コースでない韓国」にあったのですが、同じく福井氏にこのブログへのコピーは拒否されました。写真は私が撮影した光化門です。

 

 

 

 

 

 

 


「韓国」編 日本と韓国48 景福宮キョンポックン2 明成皇后殺害現場2

2011年06月24日 08時18分16秒 | 韓国

 ところが、ガイドブックにも記載されている明成皇后殺害現場を示すようなものは何も見当たりません。昨年(一昨年?)この辺りが改装されたそうでその際どうやらここにあった碑が撤去されたようです。何故ですかね。

 

そこで以前存在していた碑をこのブログに紹介したいと思いその写真を掲載している「観光コースでない韓国」の出版社高文研に連絡したところ、写真撮影は福井理文氏であるので彼に連絡してくださいとのことでした。福井氏に連絡したところ断られました。何故ですかね。私にはよくわかりません。この写真のコピーをこのブログに掲載して福井氏に何らかの損害があり、また私が何らかの金銭的利益を受けるわけでもないのですが。恨み言ですが、私には福井氏は「権利を誇示するために拒否の権利を行使した」としか考えられません.

 

 

そこで小さい写真ですが岩波ジュニア新書「ソウルで学ぼう」に掲載されているのを思い出し岩波書店に連絡したところ幸い快諾していただきました。それがこの写真です。私のコピー機では拡大ができなく(操作がわからない?)このような小さい画面になりました。PCの拡大機能を最大限に操作すれば少し見えてくるので宜しく。「明成皇后殉国崇慕碑」という字が見えます。なお「観光コースでない韓国」では「明成皇后遭難の地」という碑です。昨年(一昨年)まではこの二つの碑があったようです。

 

 もう一度繰り返します。何故この碑が撤去されたのですかね。日帝による明成皇后殺害という歴史的事実を韓国は消したいのですかね。

 この景福宮を紹介する日本語版のリーフレットにも記載がありません。


「韓国」編 日本と韓国47  景福宮キョンポックン1 明成皇后殺害現場1

2011年06月24日 08時11分10秒 | 韓国

ツアー最後の日はソウル2日目で午後3時までの自由時間でした。オプションは北朝鮮が望める統一展望台でした。最初はこのオプションに申し込みました。しかし、予習をしているうちに日本の植民地時代(韓国では日帝時代)に関連する所が意図的に除外されていることに気づきました。そこでオプションをキャンセルして意図的に除外されていると思われる所を回ることにしました。パゴダ(タプコル)公園、景福宮、安重根義士記念館、西大門刑務所歴史館をリストアップしました。そのうちパゴダ公園については前日買い物の時間を利用して訪れたことを421日に紹介済みです。

 

 景福宮は朝鮮王朝をおこした李成桂(太宗)(在位1392年~1408年)が1394年に建てた王宮です。1592年の文禄の役(韓国では壬辰倭乱)で破壊、1865年再建されました。1895年国王の妃、明成皇后(閔妃)がこの宮殿で殺害されました。当時日本とロシアは朝鮮への影響をめぐって互いに対立していました。(結果は日露戦争)その時日本は明成皇后を親ロシアとみなし日本の駐韓公使三浦梧楼の指示を受けた人たちがこの宮殿の坤寧閣に乱入し虐殺しました。

 

 「日韓交流の歴史」は「より深くするために」で以下のように記述しています。

 「明成皇后殺害事件の重要性を学んでほしい。日本の朝鮮侵略は、日露戦争から本格化するが、その前に高宗国王の后を王宮内で殺害するという重大事件を起こしている。この事件は、日本の公使が関与していた点が重要で、さらに実行した人物が全員無罪となったという異常な事実も見逃せない」(p386

 三浦梧楼はその後枢密顧問官、宮中顧問官などの要職に就きます。

 

 その殺害現場に碑があるというのでこの宮殿の敷地内を探しました。ところがこの敷地は広大で方向音痴の私は迷子の状態になりました。キョロキョロしているとある建物の前で家族を案内していたお父さん(またはガイド?)のミョンソン(明成)という言葉が聞こえました。どうやらここがそのようです。坤寧閣という字が見えます。間違いありません。(写真の左上をご覧ください)

 

 

 

 


「韓国」編 日本と韓国45 昌徳宮チャンドックン6

2011年06月21日 08時24分08秒 | 韓国

 仁政殿の東側に楽善斎という建物があります。1920年日本の皇室から典型的な政略結婚で大韓帝国最後の皇太子の妃になった李方子(梨本宮方子1901年~1989年)が晩年暮らしたところです。

 日本の敗戦後二人は在日韓国人になり1963年許されて韓国に帰国し韓国政府から生活費を支給されこの楽善斎に住みます。1970年夫と死別。障害児教育などに携わります。

 この李方子について現地ガイドは今回の10日間の韓国旅行中、日本と関連した事柄としては最も詳しく熱を入れて説明していました。

 


「韓国」編 日本と韓国40 昌徳宮チャンドックン1

2011年06月18日 08時09分49秒 | 韓国

 「ボケ」が始まったようです。(影の声=今始まったことではない)昨日の更新予定を忘れていました。医者に行く予定も忘れていて今朝、飲む薬がありません。

ソウルでの最初の観光は昌徳宮チャンドックンでした。日本でもおなじみの韓国テレヴィドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」の舞台である昌徳宮は朝鮮王朝3代太宗が1405年に建て文禄の役(韓国では壬辰倭乱1592年)で焼失、1611年に再建された宮殿です。世界遺産に登録されています。

 写真は正門の敦化門です。