中国シルクロードの旅は1998年のウルムチから北京までの敦煌を含む河西回廊など(以下「前」と略記)と、2006年のウルムチからカシュガルまでのタクラマカン砂漠縦断、天山北路、南路など(以下「後」)の2回で、このブログでの紹介は主に「後」でした。そこで最終回にあたり現地ガイドの話を少し紹介しておきます。個々の人たちを特定して紹介すると差しさわりがあるといけないのでそれは省略します。
「前」「後」通じて巧拙はありますがかなりの僻地でもすべて日本語でのガイドでした。
面白いことに、「前」では私が確認した限りでは一人を除いてすべて共産党員であったのに対して「後」では逆に一人を除いてはすべて共産党員ではありませんでした。そのことについて「後」の人に尋ねたところ「今は党員で無くても仕事が自由にできる」という印象深い話が聞けました。
もっと面白いことに共産党員の「前」の人たちの多くが非共産党員の人を含めて共産党批判、政治批判が激烈だったということです。
その一人は父親が共産党員で党の指令である重要都市に移住して現在は年金生活者ですが、彼はいまの党は堕落していると言っているそうです。当人(党員)の発言「日本は国の責任者を下から選ぶが中国では上の人が選び民主的でない」も興味深かったです。この人を含めて「前」の人たちは「周恩来」を尊敬しているといった人たちが多かったです。
これも「前」の人でしたが、あまりにも共産党批判、政治批判が強いのでそんなことを言って大丈夫かと心配して言うと「日本語の分かるやつはいないから大丈夫さ」と言っていました。
敦煌へ向かっている時(「前」)写真のようなトラックの大群に出会いました。積荷は綿花です。これを見て現地ガイドは「この綿花はすべて軍用で民間にはいかない」と噛んで吐き捨てるように言っていたのも印象的でした。
これに対して「後」の人たちの共産党、政治批判は控えめのようでした。しかし貧富の格差について嘆く人は多かったようです。幹部の給与はボーナス部分が多くそれには税金がかからないのが不公平だと言っている人がいました。「後」はウイグル族の多く住むところでしたが、遠慮がちにイスラーム教に対する共産党の政策について不満を述べていました。共産党員でイスラーム教徒の人がいましたが、周囲に分からないようにラマダン(イスラーム教徒の断食)をしていると話してくれました。
「後」は日本の首相が小泉→安部の時でしたが、小泉はカッコ良く好きだが、安部は嫌いだといっていたことも思い出しました。
もう一つ。名門大学を卒業して、日本の一流大学に留学予定の若者がいました(「前」)。彼は日本でいえば昔の恩賜の時計(成績優秀者に与えられる)にあたる毛沢東のロゴのある腕時計をしていました。当時日本では毛沢東のスキャンダル本が出て評判になっていたのでその本を日本から送ってやろうかと冷やかしていました。間もなくその時計は姿を消して違った時計になっていました。
以上でバインブルク大草原で始まった(2006年9月26日 写真は私のPCの壁紙にしています)「中国シルクロード」を終わります。次回からは「西アフリカ」編を再開します。