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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

臨時特別編「三島村」黒島7 有吉佐和子の「私は忘れない」2

2015年06月23日 07時52分42秒 | 三島村

 何故有吉佐和子の文学記念碑が作られたかの説明版です。これを読めば昭和30年(1955)に出された岩波写真文庫の「忘れられた島」との対比での題名ではないかと憶測ができます。この掲示板だけを見ても当時の島のインフラ、生活がどのようであったか、本土との格差、差別は想像できます。

 具体的な説明は煩雑になるので省略しますが、電気につてだけ少しデーターを紹介しておきます。黒島に電気がつくのは昭和32年(1957)で終日電気が利用できるようになったのは昭和53年(1978)です。今年54歳になるガイドの山田さんは24時間電気が利用できるようになった当時の感激を熱っぽく語ってくれました。なお、竹島、硫黄島についてもだいたい同じころです。

 とすれば前回紹介した「日露戦役(1904~1905)記念碑」当時の黒島の状況は想像に難くありません。このことからだけでもこの碑のメッセージが理解できるのではないでしょうか。

 なお、現在は道路、港湾、学校、公共施設などのインフラについては本土とほとんど変わりないように私は感じました。

 

 

 

 


臨時特別編「三島村」黒島5 日露戦役記念碑2

2015年06月20日 07時49分39秒 | 三島村

 写真の説明文を見てください。日露戦争に参加して生きて帰った記念碑と書かれていますね。今の人には理解困難ですが、当時の島人には記念として残す価値があったのですね。

この記念碑には重要なメセージが込められていたと私は思います。それが私に強烈なインパクトを与えた理由です。その理由を説明することは学才、文才のない私には非常に困難です。そこで、その時思い出した事例を2つあげて説明の代わりにします。 

 戦争中の田舎の小学校時代のことです。通学途中の傍らに一基だけのお墓がありました。普通お墓は複数で群れを?なしています。通学の登下校の際そのお墓の前を通る時には必ず敬礼をすることになっていました。「○○上等兵」のお墓と書かれていました。(最近親戚の人を通じて調べてもらったところ昭和13年4月26日中国広東省で戦死と書かれていました。今も残されています。今は敬礼をする人はいません)「○○上等兵」は被差別の方でした。疎開者で差別を感じていた私は問題に関心を持つようになって次第にこの墓の意味が分かるようになってきました。70年以上もたった今もこのお墓を鮮明に思い出します。

 もう一つが「モーゼと呼ばれた男」(マイク正岡、ビル細川著)です。マイク正岡は日系2世アメリカ人で日本との戦争中に砂漠にある収容所に日系アメリカ人が強制的に入れられ多大の差別を受けていた時の日系アメリカ人のリーダとして活動した人物です。彼はアメリカ合州国に忠誠を誓うため志願して軍隊に入りイタリア戦線で武勲を立て負傷をします。彼の兄はイタリア戦線で戦死します。イタリア戦線では日系だけでの部隊が編成され数々の武勲を立てます。なお直接には日本に向かった兵は少なかったようですが、暗号解読などで日系人は重要な武勲を立てました。

 さて以上の3事例に共通するものは? 戦争、差別、共同体から認められようとするアイデンティティ(この場合はナショナリズム)ですね。

 なお、有吉佐和子の小説「私は忘れない」もこの問題に対するヒントを与えてくれます。それについては次回紹介の予定です。

 戦争を媒介とするアイデンティティの確立、悲しいですね。最近のヘイトスピーチや戦争法案(安保関連法案)などによるナショナリズムというアイデンティティの確立も同じですね。悲しいですね。私は常日頃ナショナリズムは現代社会の悪の元凶だと思っています。勿論、戦争や、ヘイトスピーチなど他者排除でない健全なナショナリズムがあると考える人たち人たちも沢山います、いや定説でしょう。しかしながら私はナショナリズムは必ず戦争や他者排除につながると考えます。そうです。コスモポリタンこそこれからの人類の思想でなければなりません。

 ついでに自己宣伝。 「北方領土を国連に 山田百三郎」でネット検索をしていただければ私のコスモポリタン的解決策の一つを見ることができます。

 乞う、批判的なコメントを。

 

 

 

 

 

 


臨時特別編「三島村」黒島4 日露戦役記念碑1

2015年06月20日 07時46分18秒 | 三島村

 

 ガイドの山田さんの案内が無かったもので私に強烈なインパクトを与えたのが写真の記念碑でした。(後日、村役場の観光担当の方に確認しましたがその存在を御承知ではありませんでした)一人で民宿から片泊港へ散歩の道すがらの出会いでした。説明は次ペイジで.


臨時特別編「三島村」黒島3 ガイドの山田さん

2015年06月17日 08時09分10秒 | 三島村

 黒島のガイドをしていただいた山田馨さんです。撮影の場所は民宿から海の方に下った岩だらけの海岸で魚釣りの絶好の場所だそうです。しかし私の足では海にまで到達できなくここまでがやっとでした。このように三島すべてが海岸線は岩だらけか、断崖絶壁で砂浜海岸はありません。


臨時特別編「三島村」硫黄島から黒島へ3

2015年06月14日 08時17分36秒 | 三島村

 

 いよいよ黒島上陸です。黒島は3島では一番人口が多く集落も二つ(大里、片泊)ありそれぞれに港があります。私の予定では終着の片泊港までの予定でしたが、ガイドの山田馨さんが手前の大里港まで迎えに来てくれていました。いよいよ島に上陸して、陸上からの三島めぐりです。

 写真中央に見える赤い建物が気になりますが後日紹介します。

 


臨時特別編「三島村」硫黄島から黒島へ2

2015年06月14日 08時14分26秒 | 三島村

 黒島に近づいたところで写真のような島が見えてきました。土地のコトバでは「デンシマ」公式名では「湯瀬」というのだそうです。船内で島人らしき古老(後日黒島大里集落の区長さんということを知りました)に聞くと以前は干潮の時この島へ貝取りに出かけていたそうです。

 


臨時特別編「三島村」硫黄島から黒島へ1

2015年06月14日 08時08分38秒 | 三島村

 硫黄島港を出て黒島に向かいます。硫黄島の南端の岬が見えてきました。私は何故か岬に郷愁のようなものを感じるので何枚も写真を撮っていました。

 Fengdanさんコメント有難うございました。観光所長大町さんのコメントのもあるようにこのような海水でも高級魚が釣れるようです。

「ヨシダ」さんコメント有難うございました。その節は大変ご迷惑をおかけしでごめんなさい。今後ともこのブログをよろしく。


臨時特別編「三島村」硫黄島7 硫黄岳と稲村岳3

2015年06月11日 08時31分57秒 | 三島村

 どうですこの景観。向こうに荒々しい亭主の硫黄岳、手前の優しい女房の稲村岳が夫をなだめているようと、私としては珍しくメルヘンチック?な思いに浸りました。

 実際、写真を見ていただければお分かりのように手前の集落と硫黄岳のあいだに稲村岳があり硫黄岳の噴火の被害を幾分か(?)遮断しています。

 なお、「稲村岳」という名前にも興味を持ちました。稲(米)はこの島では貴重品だったはずです。稲村という命名には何か島人の思いが込められているように思うのですが。

 


臨時特別編「三島村」硫黄島5 硫黄岳と稲村岳1

2015年06月11日 08時21分51秒 | 三島村

 

 出港して船の背後から見た硫黄島です。右側に見えるのが硫黄岳ですね。その左にある小さい可愛い軟らかな感じがする山が稲村岳で3000年前に噴火を停止しました。両者は対照的ですね。

 三島村観光案内所所長(硫黄島在住)大町祐三さんから5日の「硫黄島3」に「こんな海の色でもうちの息子たちは高級魚を釣ったりしてますよ」というコメントをいただきました。ありがとうございました