100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「出会いふれあい」編 イスラームの女性たち1

2024年09月20日 07時55分15秒 | 出会いふれあい

  ヨルダンのペトラ遺跡を一日観光した後、美しい夕日を見ようということでひとりでタクシーで出かけました。そこで家族連れ(女性だけの)に出会いました。お母さんはかなり好奇心いっぱいのようで色々話しかけてきました。彼女の手作りのお菓子までいただきました。夕日のことは忘れていました。そこで写真を撮らせてくださいと頼みました。ところが隣にいた姑(母親?)がきつく拒否しました。(イスラーム圏では女性の写真は通常タブー)私はいったんはあきらめました。ところが彼女は姑の意向を無視して私に写真を撮るようにと言いました。

「出会いふれあい」編 タイのアイドル候補

2024年09月16日 07時53分13秒 | 出会いふれあい

 ラオスのルアンプラバンで街が見渡せるというプーシの丘(仙人の丘という意味)に登りました。(写真上はプーシの丘から眺めたルアンプラバンの町)観光客がたくさん来ていました。そこでタイから来ていた二人の少女と仲良くなりました。二人の中年の男性も一緒でした。宿泊のホテルも同じでした。夕食後彼女たちはディスコに行くというのでついて行きました。(日本ではディスコに行ったことはない)
 驚いたことにディスコに入るとすぐに舞台に上がり歌いだしました。疲れていたので彼女たちの活躍を最後まで見届けないまま、テーブルに10ドルを置いてホテルに帰りました。翌朝朝食に出かけると彼女たちもいました。一緒にいた初老の男性が待ちかねたようにやってきて昨日の10ドルのお釣りだといってお金を渡そうとしたのでいらないといいました。するとお土産にしてくださいといって新札のタイバーツ(タイのお金)数種類差し出しました。せっかくの好意なのでいただきました。 
話を聞くと彼女たちはタイの新人歌手でこの地で反響を見るために来ていたようです。男性は歌事務所の人であったようです。 このラオスではタイからの観光客が目立ちました
 写真下は彼女たちのディスコでの舞台です。

「出会いふれあい」編 マサイ人の怒り

2024年09月12日 08時05分52秒 | 出会いふれあい

マサイ人はケニアとタンザニアに居住する牧畜民で人口約60万人と推定されています。男子は長槍を持ち牛、ヤギ、羊を遊牧し農耕,狩猟を行わない誇り高い民族です。彼らが槍を持ち牛などを放牧している風景はマサニ絵になります。しかし彼らは誇り高い民族で写真に撮られることを嫌います。この写真は2007年ンゴロンゴロ自然保護区(タンザニア)に向かう途中で車の中から牛を追っているのを隠し撮りしたものです。それをすばやく見た彼が抗議で怒っている写真になりました。

「出会いふれあい」編 語学音痴の会話2

2024年09月08日 07時52分19秒 | 出会いふれあい

ついでに中央アジアでの私の接したコトバ事情(2004年当時)について紹介しておきます。ガイドはいずれもロシア語が堪でした。3人いましたが、ひとりについては不明ですが、他の二人はいずれも母国語(ここではあえて母語でなく母国語とします)がやや不自由でした。トルクメニスタンのガイド、マヤさんの弟は母国語に堪能だそうです。これはソビエト連邦崩壊後の教育だということは容易に考えられるところです。すなわち、現在各国政府は自国の民族語教育に力をいれていることは明らかです。
 今回挨拶に、この地域の共通語であるロシア語を最初に用いました。もっとも知っている単語は(ありがとう)「スパシーバ」と(さようなら)「ダスビダニア」だけなのですが。これは知識層と見える人たちには良い反応が見られるのですが、一般庶民の反応はいまいちという感じでした。その後現地語を使うようになって反応がよくなりました。「アッサラム・アクイレム」(丁寧な?「こんにちは」に相当するアラビア語起源で原義は「平和があなたと共にありますように」)が一番でした。なお、この「アッサラム・アレイクム」はイスラーム圏では共通語です。この挨拶をすると必ず握手を求めてきました。というわけで、もともとあった民族語への敬意がソ連邦崩壊後強くなっているのではないかと思いました。そのことを強く印象付けたのが帰りのタシケント(ウズベキスタンの首都)空港でのやり取りでした。パスポートチェックの時係りの女性に「スパシーバ」(ロシア語)というと彼女は間髪を入れずに、しかし、にこやかに「ラフマット」(ありがとう)(ウズベク語)と訂正してくれました。次の「ダスビダニア」にも、「ハイール」(さようなら)(ウズベク語)とすばやく、毅然として、笑みを浮かべながら、訂正してくれました。
(注)1995年まではロシア語とウズベク語が公用語。以後ウズベク語だけが公用語。


「出会いふれあい」編 語学音痴の会話1

2024年09月04日 07時52分38秒 | 出会いふれあい

1998年 ミュンヘンでの自由時間にはドイツ博物館へ行きました。ガイドブックによれば世界最大の規模を持つ自然科学、産業技術などの大博物館だそうです。 そこで母子三人に出会いました。いつもはカメラをかざしてOK?などといって撮影するのですが、今回はNHKラジオドイツ語講座で覚えた「写真を撮っても良いですか」というドイツ語で許可を求めました。(いまはもう忘れました)岸田今日子さんに似たお母さんが“Natürlichナテュアリッヒ”(勿論いいですよ)と答えてくれました。覚えたてのドイツ語が通じたのでうれしくなり感激の一枚でした。(冒頭写真)
 外国でコトバが通じたときのうれしさは私のような語学音痴にとっては大変なものです。逆に通じなかった時は悲惨です。初めての海外旅行のエジプトで”water”(水)が通じなく紙に“water”と書いた想い出があります。ロンドンでは集合場所のピカデリーサーカスを警官に聞いて通じないのでやけくそで「ピカデリー」と声を張り上げて通じたことがありました。どうやら「ピ」にアクセントがあるのですね。
 同じミュンヘンの別の博物館でのことです。入口でガードマンらしきオジサンに“Grüß Gott“ グルスゴットと挨拶しました。(ドイツでは普通「こんにちは」は”Guten Tag“グーテンタークなのですがミュンヘンなど南ドイツとオーストリアではこのグルスゴットが喜ばれる「ようです)このオジサン一瞬きょとんとしていましたがすぐに分かったのか 、私のグルスゴットの発音を直してくれました。数回の練習の結果「“Sehr Gut“ゼアーグート 大変よろしい」とほめてもらいました。ここを出る時このオジサンは私のところまでわざわざ来てお互いに「“Auf Wiedersehen“アウフヴィーダゼーエン さよなら」を言い交わしました。あの時のオジサンの笑顔は忘れることができません。 
このGrüß Gottにはもう一つ思い出があります。ウィーンからルフトハンザ航空に乗った時のことです。客室乗務員にGrüß Gott と言ったところちょっと驚いた表情で「あなたはオーストリア人?私もオーストリア人よ」と反応がありました。すぐばれましたけどね。