スークを一通り見終わって、お茶を飲みにカフェへ。
ガーデンカフェでカモが放し飼いにされている。
「ねぇ、ヘナペイントを手にやりたいんだけど、あれっていくら位で出来るのかな。」
スースでヘナのデザインを並べているお店を見かけたけど、つけたら色が定着するまで
濡らしたりできないので躊躇していた。
「うーん。男は普通しないからわからないな。」
彼は友達に電話している。
「僕の友達が君にヘナをしてくれるって。今夜彼女の家に行こう。」
あれ、もうやる話になってる(笑)まぁいいか。
夜7時、ホテルまで迎えに来てもらった。何か持っている。
「ダット(ナツメヤシ)だよ。一番いいグレードのを持ってきてあげるって言ったでしょ。」
秋はなつめやしの収穫期らしく、あちこちでナツメヤシが大々的に売っているのを見かける。
彼は1キロ入りの大きな箱をうやうやしく差し出す。
きゃー嬉しい!ナツメヤシは大好物。でも、さすがにキロは・・・(笑)カバン一杯なのに。
タクシーで友達の家に向かう。
「僕はサハラ砂漠の出身だけど、これから行く家族も同じ町の出身なんだ。」
ナツメヤシと牛乳でもてなされる。この組み合わせはアラブではベストなメニューなのだ。
3世代が勢ぞろいで、わいわいとにぎやかで楽しそう。
おばあちゃんはベルベル民族の刺青を顔にしていて美しい。
お父さんはとても陽気だ。大体、お父さんの気質でその家族の雰囲気も決まるけど、
この家族はみな大らかで気さくだ。
彼女は10代後半だろうか。姉妹やお母さんとビニール袋からデザインのシールを広げて
あーでもない、こーでもないと決めるのにとても時間がかかった。
そしてこの緑色の粉に水、砂糖、レモンを入れて混ぜてしばらく置く。
手や髪にはオレンジがかった赤に発色する。とても不思議だ。
その間にシールをカットして私の手に貼っていく。
全部貼ったらペースト状のヘナを塗る。植物の青臭いにおいがする。
書いたら簡単だが、4時間近くかかった・・・。なんて呑気な人たち(苦笑)
終わった頃は私はされているだけなのに、へとへと。
写真を撮ってくれたが、自分だけ疲れきってやつれた顔をしている(笑)
足もやろうと言われたけど、体力の限界を感じて丁重にお断りする。
塗った手はペーパータオルとビニール袋で包んで輪ゴムで手首を止める。
彼にホテルまでタクシーで送ってもらい、鍵も開けてもらう。
明日手を見せに行くと約束して、そのままバタンとベッドに倒れこんで寝てしまった。
翌朝、ビニールを取って手を洗う。
すると、まーかっかの手が!!!
すごいな。赤を通り過ぎて黒に近いくらい色が着いてる。
ちょっと皮膚がゴワゴワと硬く感じられる。
荷造りをしてから、muzeへ。
入り口に昨日の館員さんが。「聞いてるよ~。手を見せてよ。」というので、
ほらっ!と手を広げるとおおーっ。とニコニコ。
彼も後からやってきて、素晴らしい!と褒めてくれる。
ヘナはこちらでは伝統的で喜ばしいもの。特に南部は都会の北部とメンタリティが違う。
観光客がこんなことしても誉めそやしてくれる。
「僕はドゥーズ(サハラ砂漠)の出身なんだ。家族はドゥーズにいる。今度は僕の家に招待するよ。
ママの手料理を食べて、バイクでガゼル猟をしたり、歌ってタイコをたたいたり、楽しいよ!」
そんな話をして別れた。
ここでもいい人たちに出会えてよかった。
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「今日の予約はこれでおしまい。これからスーク(市場)を案内してあげるよ。」
ほんと!?ラッキー。もう他のゴルファを見に行く気もなかったし。
「おまたせ!行こうか。」
黒人青年は民族衣装を脱いで普通のシャツとパンツ姿になっていた。
あの衣装がいいのに。「ははは。あれは仕事だから。普段は恥ずかしいよ。」
ということで、普通の姿になってしまった青年とすぐ近くのスークへ。
日用品が延々と続く。鍋釜、食器、石鹸・・・
ヘナという植物の粉を見つける。毛染めにしたり、手に模様にして塗ったりする。
最近は日本でも美容院で見かけるようになった。
「これ買う。日本では簡単に手に入らないの。いくらか聞いてくれる?」
彼は値段を聞くと「安いものだから」と買ってくれた。
女性の髪留めやアクセサリー売り場では、プラスチックで出来た腕輪を買ってくれた。
次はお香コーナーへ。
お香はどの家にもあり、来客の時はいいお香を焚いてもてなす。
色んな種類があるけど、木片だったりガラスみたいだったり、全部ナチュラル本物なので
いい匂いだけど使い方がわからない。
青年が白い半透明の塊を取って「これなんだか知ってる?ガムだよ。」と言って口に
放り込んで噛み始めた。
お香がガム???なんだかわかんないけど、自分も噛んでみる。
うっ、粉っぽくて苦い。
でも噛んでいる間に味はなくなってしまって、ほんとにチューインガム状のものが口に残っている。
「ほら、嘘じゃないでしょ。これは胃にいいし、口もすっきりするんだ。」
確かにそんな感じ。
「これ好き?」「うん。面白いね。知らなかったよ。」そういうとまたこれも買ってくれた。
その時はわからなかったけど、後で調べたら、これはき乳香らしい。(写真)
現地の人と一緒だと、ただ旅行者として一人で見てるより色々なことがわかって有り難い。
「ここから先はリビアエリア。全てリビアから来たものばかりだよ。なんでも半額なんだ。」
リビアから!売ってる物は他とあまり違わないみたいだけど。
彼は又しても腕輪を買ってくれた。「これ買ってもらったばかりじゃない。もういらないよ。」
「いや、買いたいんだよ。」
お茶1杯程度の値段だけど、なんだか貢がれているみたいだな(笑)
こんな子が日本人だったら間違いなく女の子の食い物にされるぞーーー。
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fengさんコメントありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。
この不思議な建物の裏にまわると、そこもゴルファ(カマボコ型の建物)通りだった。
muze(博物館)の矢印看板があったので、それに従って行ってみる。
門のあたりにヒマそうな男たち。少し離れた所に民族衣装を着た黒人の若者。
私が近づくと、黒人の若者がこちらに向かって歩いてきた。
「見学かい?」「そう」「こっちへ」と門へ。 って言ってもどこがmuzeなの?
ここがmuzeだよ。門で入場料を払うと中へ案内してくれる。
あぁ。このゴルファ全体が郷土資料館のようになっているんだ。
中庭には古くからの彼らの生活が、人形や道具と共に紹介されている。
彼が一部屋づつ、95%のフランス語と5%の英語とジェスチャーで説明してくれる。
私は普通の人の普通の生活にとても興味があるのでかなり一生懸命聞く。
石臼をまわしてみたり、羊の毛をならす櫛で引っ張って見せてもらったり。
最後に何故か世界中のお金を展示してる部屋があって、特にイスラム諸国のお金は
めずらしくて一つ一つじっくり見てしまった。
黒人青年は面倒くさそうなそぶりも見せず、ニコニコしながら私の質問や感想に答えて
付き合ってくれている。
あまりに時間をかけているので他の館員が心配して見に来た(笑)
外に出て、2階に登って写真を撮ってもらった。
「こっちは僕の部屋だよ。見たい?」「え、ここに住んでいるの!?見たい見たい!」
と入れてもらうと、ベッドと服が数枚。以上。
隣の部屋は物置にしてるそうだけど、何もない(笑)
えらくシンプルな生活をしてるなぁ。
全て見終えると、ミントティのサービスがあった。
一緒に座ってお茶を飲む。
「これからジェルバからのフランス人の団体客が来るんだ。ここは個人の訪問はほとんどないよ。」
チュニジア南部は見所がいっぱいあると言うのに、殆どはジェルバというリゾート島から
バスで1日ないし2日のツアーで駆け足で見てまわるんだって。なんてもったいない。
なんてのんびりお話してる間にツアー客到着。
他の館員がガイドとなって見学へ。
その間に他の館員がポットにお茶を補充。
たくさんの小さなグラスをお盆に並べ、庭から摘んできたミントをちぎって入れる。
「手伝ってもいい?」「もちろん!」許可がでたたので自分もミントを入れる。
見終わった人たちに青年が「お茶どうぞ!」と勧める。
グラスを取って庭のベンチに座ってお茶をすする。
いつの間にか置いてある小皿にフランス人がチップをチャリンと入れる。
少しの間雑談し、トイレを済ませて、彼らはまた慌しく去っていった。
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colo さん「番外編」へのコメントありがとうございました。私も以前何かの本で読んでかすかな記憶があるのですが、史実として確定しているものと思っていました。新しい史料の発見が待たれますね。
この本の著者に以下のような質問状を出しました。
貴著「アジア・太平洋戦争」についてお尋ねします。 「***『はじめに』には慰安婦について触れられていますが、本文には何も書かれていません。なぜ記述がないのか、その理由をお教えください。***」
以下のような回答をいただきました。
「****当初の予定では前の巻の加藤陽子さんが1940年までは書くことになっており、そこで当然日中戦争期の慰安婦の問題を取り上げてくれるものだと考えていました。ところが、加藤さんの巻が日中戦争開始の段階でほとんど終わってしまったため慰安婦に関する具体的叙述がどこにもない結果となってしまいました。私の担当巻で日中戦争期までさかのぼって書くのも書きづらいということもありましたし。ただ一言ぐらいは触れるべきだと反省しています。****」
以上何かの参考になればと思い「番外編」として紹介しておきます。
一人じゃ商売魂も火がつかないらしく、売る気まんまんで話しかけてくる人もいない。
英語で話しかけてきた青年が一人いたので、彼の店をのぞいておしゃべり。
都会と違ってのんびりしているので、なんだかリラックスしちゃうなぁ(笑)
青年も時間が限られているツアー客ではないので焦って売ろうとしない。
お土産屋さんで、商品を一つ一つ説明してもらうのが好きだ。
あちこちで見て知っていても、丁寧に教えてもらうとへぇーと感心したように頷いてしまう。
きれいに結晶している小さな「砂漠の薔薇」を「キレイ!」と言ったらくれた。(写真)
うれしいなぁ。欲しかったんだ。
お兄さんは、カフィーヤ(パレスチナ人がよく身に着けている赤×白のスカーフ)を
ファティマ巻きだよといってこっちの女性の巻き方で巻いて写真を撮ってくれた。
なんかお礼に買おうと、よく見かける色砂で瓶の中にらくだなんかを描いたものを買うことにした。
「いくらかな?」
「いくらでもいいよ」
「え?いくらでもって・・・わかんないよ」
「君はもう友達だから、払いたいだけ払って持って行ったらいい」
そう言われると困る。身内価格でもぼったくりでもいいから決めてくれた方が楽なんだけど。
仕方なく、適当にポケットから小銭を掴んで渡す。
日本に持ち帰るのに割れないようにと硬いガサガサしたビニールをたっぷり巻いてくれた。
最後に一緒に写真を撮ろうと言うので近くの人にシャッターを頼んだ。
日本から写真送るね、と約束をしてゴルファを後にした。
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ロティを頼むと前菜(?)としてルビア(えんどう豆のトマト煮)が付く。
パンはどこでも食べ放題でサービスされる。
普段は安いルビアだけを頼んでパンにつけて食べているので今日はかなり豪勢な昼食だ(笑)
アラブや中東を旅すると嬉しいのがこのパン。
とても素朴で小麦の自然な甘みと優しい香り。保存料などの添加物一切なし。
とてもおいしいのにとっても安い。朝焼きたてにありつくと、手が止まらない。
そんな訳で、旅の最中も痩せそうで全然痩せない。
食べ終えて、店のおじさんにゴルファへの道を聞く。
フランス語なのでほぼわからないけど、一生懸命教えてくれたので不思議となんとなくわかる(笑)
お礼を言って道を進んで行くと、ピンクの大きなオブジェが。
「コムサ(こんな)」とおじさんがガイドブックのピンク色の部分を指していた意味がわかった。
そこを曲がるとゴルフが見えた。おじさんのおかげだよ。ありがとう!
ゴルファというのは貯蔵庫や住居として使用されていた不思議な形の建物。
ここはそれがぐるっと輪のように並んでいて、建物は現在お土産屋として使われている。
中に入ると、観光客は見当たらず閑散としている。
ツアー客ばかりだからだろう。閉まっている店も多い。
端からブラブラと1軒づゆっくりと歩いてみる。
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メドニンという南部の町に来た。
ここに来るバスでは、隣のシートは素敵なおじいさんだった。
マグルーブと呼ばれるスターウォーズでも使われた茶色のフード付きマントに気の杖。
ごつくシワシワの顔立ち。
完璧にかっこいい。
写真集にでも載りそうなおじいさんだ。
「シーナ?(中国?)」
「ノン。ヤバニーヤ(いや、日本人)」
ふむ。とうなずくおじいさん。
言葉は通じないけど、カーテン下ろせとか、メドニンだよとか、目と杖で語る(笑)
バスを降りると、ガイドブックに書いてあるバスステーションではなく、街中のようだ。
便利だけど、一体ここはどこよ。
英語の表記もないどころかフランス語表記も見当たらないので見当がつかない。
街はアラビア語ばっかり・・・今風なカフェなら英語話す人がいるかもと思って聞いてみる。
なんとか通じてホテルへ向かう。
ホテルの隣のレストランのおじさんが「ホテル?ここだよ!」と言うが早いが荷物を
奪ってレセプションに連行(笑)
「お礼はいいから後で食事しに来てね!」
とお礼を言う前にそう言ってニッコニコで戻っていった。
ホテルはボロボロだけど、1泊なのでシャワーなしの一番安い部屋へ。
早速食事に向かう。
たまにはお肉でも食べるかとロティ(鶏のグリル)を頼む。
先にルビア(豆のトマト煮)が出てくる。これがうまい。
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彼らの略奪品については前述のようにいろいろ説がありますが、略奪を免れたものがあります。それは教会の黄金の祭壇です。
市民がこの祭壇にしっくいを塗り隠しその裏にも金銀を隠して略奪を免れました。それは現在サン・ホセ教会に安置されています。
写真は私が慌てて写したためボケていますが、金ぴかの様子は感じていただけると思います。
前述のようにモーガンは2000人(1500人説あり)の海賊を率いてサン・ロレンソ砦を出発、チャグレス河に沿ってパナマ市に9日目に到達しました。迎え撃つ守備隊も2000人でしたが、一日の戦いで敗北しました。そしてパナマ市は完全に破壊、略奪されました。
このときの海賊たちの収穫?についてはいろいろ説があるようですが、最後は分け前が少ないと騒ぎ出し、モーガンは一人逃げ出し海賊業から足を洗いイングランドに帰り宮廷に取り入りサーの称号をもらいジャマイカの副総督に任命され海賊の処刑に精を出すことになります。
このときの破壊でこのパナマ市は回復不能になり廃墟のまま放擲され現在のパナマ市はここから太平洋沿い西に10kmのところに再建されました。この廃墟になった旧パナマ市は現在パナマビエホと呼ばれ遺跡公園として観光地になっています。
写真はパナマビエホに残る教会です。
バッカニアの略奪品の分配について増田義郎の「略奪の海カリブ」を紹介しておきます。
「略奪品の分配は、負傷者を優先した。右腕を失った者は8レアル銀貨600枚ないしは奴隷6人、左腕または右脚を失った者は500枚ないしは奴隷5人、左脚を失った者は400枚ないしは奴隷4人、片眼失明したものと指1本失った者は100枚か奴隷一人。残りが傷を負わなかった者全員に分配されるのだが、船長は普通の船員の5倍から6倍の分け前を取った」(p123)
なお、このモーガンのパナマ略奪、破壊についてはスタインベックが処女作「黄金の杯」で小説化しているそうです
バッカニア(注)の代表的人物ヘンリー・モーガン(1635~1688)を紹介します。彼はイギリスで生まれの17世紀カリブ海での略奪で活躍した海賊で、海賊を引退後ジャマイカ島代理総督などの役職につきサー(男爵)の称号をもらい(1674年)海賊を取り締まる立場になります。?
彼の海賊活動で最も有名なのが1671年のパナマ略奪です。パナマ市は1519年ヨーロッパ人(スペイン)が太平洋側に最初に建設した町で、ペルーからの金の延べ棒などを本国スペインに送る基地でした。そこをヘンリー・モーガンが1671年パナマ地峡のカリブ海側のサン・ロレンソ砦に400人の海賊を率いて上陸、守備隊300人の殆どを殺し(30人生き残り)次にチャグレス河沿いに2000人の海賊を率いてパナマ市を目指します。
写真はこのサン・ロレンソ砦にある年代記風標識です。人物画像の上から二番目がモーガンです。
(注)海賊たちはカリブ海の島で牛肉を木製の網の上で燻製にして食したり販売していました。その木製の網のことを現地語でbuccanブーカンといい、それがフランス語のboucanierブーカンニェになり→英語バッカニアになり、海賊を指す言葉になります。なお焼肉のバーベキューも同じような語源です。