100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「忘れられない」編 現地ガイド30 ニカラグア

2023年08月29日 07時54分33秒 | 忘れられない

 アメリカ大陸には「サラダボール」か「るつぼ」のいずれかを問わず多民族、多人種が混住しています。ニカラグアのガイド、フランシスコ・ポラスはユダヤ人でした。(写真はニカラグアのマナグアで撮影したものです) 彼の先祖は改宗カトリック教徒のユダヤ人でスペインのアンダルシアで法官をしていましたが迫害からのがれるため17世紀コスタリカへ移住→パナマ→ニカラグアにやってきました。彼はユダヤ人であることに非常に誇りを持っているようでした。イスラエルに強い共感を抱いているようでした。サンディニスタ民族解放戦線FSLN(現大統領の選出母体)は大嫌いのようでした。したがってゲバラ(注)も「余計なお節介者」として嫌っていました。
(注)(1928年~1967年)アルゼンチン生まれ。医者で喘息持ち。1955年カストロと出会いともにキューバ革命を戦い政府の要職に就くが、1965年中南米の民主化のためキューバを離れゲリラ戦に参加。1967年にボリビア政府に銃殺された。いまなお中南米の下層階級を中心に広く尊敬、英雄視されている。コミュニストではありません。日本でも最近彼を描いた映画「モーターサイクル」が公開、上演された。男?のロマンを駆り立てる男
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「忘れられない」編 現地ガイド 29 中国ホータン

2023年08月26日 07時56分13秒 | 忘れられない

 写真は中国西域南道の「玉」で有名なホータンでの現地ガイド・ウイグル人のジュレットさんです。写真では色がすこし黒いようですが白人的な日焼けの感じでした。本業はウイグル大学の医学部の先生でお医者さんです。日本の大学(日本医科大学?私の記憶があいまい)にも1年留学をしていたこともあり、流暢な日本語でした。西洋医学、中国医学、チベット医学のいずれですか、と尋ねると、ウイグル医学でチベット医学はウイグル医学から学んだ医学です、という返事が返ってきました。ウイグル語で講義している大学はここのウイグル大学だけです、と誇らしく話してくれました。 
 彼は共産党員ですが、敬虔なイスラム教徒でラマダンも毎日の礼拝も欠かさないそうです。共産党とイスラム教との関係について少し話をしましたが、微妙なニュアンスを正確に伝える自信が私にはないので省略します。 
 一人っ子政策について少数民族は3人までということは知っていましたが、彼のような公務員の場合は2人までとは知りませんでした。彼も制限いっぱいの二人の子持ちでした。なお、以前紹介した(11月9日)満州族の場合、数が多いためか子供の数については漢民族と同じ1人だそうです。ただし1人子同士の結婚の場合2人まではよいことに最近なったそうです。
 なお、漢民族と少数民族との夫婦の場合どうなるかということです。これについては8年前に旅行した時に聞いた話ですが、ある現地ガイド(男性)は相手が少数民族の人で3人までよいということで3人の子持ちでした。現在この制度は改正されています。
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「忘れられない」編 現地ガイド 28 南アフリカ

2023年08月23日 07時54分07秒 | 忘れられない

 写真は南アフリカのソエトでの現地ガイドです。
 ご覧のように白人なので「あなたはアフリカーナ(注)ですか」と尋ねました。彼は非常に喜んでそうだと答えたまでは良かったのですが、後がいけません。私に対して「あなたの英語は素晴らしい、ロンドンで勉強したのか」などのオベンチャラで恥ずかしくて身がすくむ思いをしました。 私は英会話はほとんどできません。ただ「アフリカーナですか」と「いくつの言語を話しますか」の二つの質問をしただけです。なぜこのようなオベンチャラが出たのかと考えてみました。どうやら「アフリカーナ」という言葉が理由のようです。「アフリカーナ」と呼ばれることがうれしかったようです。
レソトのマセル空港のチェックインカウンターに黒人の中で一人だけ白人の威張った感じの女性がいました。「アフリカーナ?」と尋ねた途端相好を崩してペラペラと話しかけてきました。ほとんどわかりませんでしたが、その中で「アフリカーンスを話すのか」ということはわかりましたが,これにはびっくりしました。「アフリカーンス」というのは「アフリカーナ」の母語でオランダ語の変化した言葉です。「アフリカーンス」を話す人は極めて限られているので、「アフリカーナ」がよほどうれしく、親密感を感じたのだと思いました。 
もともと彼らはオランダ語の「百姓」を意味する「ボーア人」と呼ばれていました。しかし「ボーア人」と呼ばれることを好まないようです。皆さんが南アフリカ共和国を訪れる機会があった時は彼らに「ボーア人」と呼びかけるのではなく、「アフリカーナ」と呼んであげてください。しかし、かっての人種差別アパルトヘイトの中心者であったことも忘れてはなりません。
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「忘れられない」編 現地ガイド27 ベナン共和国

2023年08月20日 07時53分24秒 | 忘れられない

ベナンでのガイドがあまりにも頼りないので皆さんからブーイングが起き最終日には現地手配会社の社長さん自らのお出ましとなりました。写真は社長のラジンさんです。背景の海は勿論太平洋のギニア湾です。イスラーム教徒でメッカに巡礼したことのあるハッジ(注)です。彼はベナン大統領の英語通訳者でもあります。(ベナンの公用語はフランス語です)
 (注)メッカに巡礼した人はハッジと呼ばれ社会的に尊敬されています。
この旅行は2002年2月でしたがラジンさんは前年アメリカ合州国で起きた9・11のテロについて触れテロそのものはよくないが、アメリカが憎まれるのは当然であるし、その報復戦争はするべきではないと批判的でした(その翌年2003年にアメリカのイラクへの侵略戦争がはじまりました)。
今回の旅行ではイスラーム教徒にもキリスト教徒にも出会いましたが、なんとなくキリスト教徒の人たちには自信がなく、自己のアイデンティティを持たないのに対してイスラーム教徒の方は自己がしっかりしているように感じました。
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「忘れられない」編 現地ガイド26 マリ共和国2

2023年08月17日 07時53分56秒 | 忘れられない

 マリ共和国を通じてのガイドはアブドゥラさんでいた。名前でわかるようにイスラーム教徒です。ちなみにこの国の宗教はイスラーム教徒が85%、キリスト教徒が5%、伝統宗教が10%ぐらいです。彼は森本哲郎さんの著書「私のニジェール探検行」の時のガイドで森本さんの名刺を見せてくれました。彼は今マリは貧乏だが資源も豊富だし必ず豊かになると終始語ってくれました。
 その彼について後日添乗員の本橋さんが次のようなことを教えてくれました。本橋さんが彼に独立(1960年)以前の話を聞くと涙ぐんで語りかけたので途中で話をストップしたそうです。
 涙の理由はわかりませんが、今でもマリは世界10大最貧国の一つで生まれてくる赤ちゃんの24%が5歳までに死亡するそうです。(lonely planet Western Africa 5th edition)
なぜか、かれの写真がありません。代わりに?首都バマコの市場での時計売りを紹介しておきます。
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「忘れられない」編 現地ガイド25 マリ共和国1

2023年08月14日 07時54分08秒 | 忘れられない

  写真はマリ共和国のトンブクトゥでの誇り高く、威厳のある民族トゥアレグ人ガイドのモハメッドさんです。 それに対して隣にいる日本人(私)の頼りなさ。背景の土のモスクに突き出た棒のようなものは修理の時の足場だそうです。
この服装から彼らは「青い民、藍の民」とも呼ばれます。彼らの宗教は民族伝統の宗教色を遺しながらのスンニ派のイスラーム教徒ですが、面白いことに女性はヴェールを被りません。成年男子だけです。この服装は砂漠の風と砂から身を守るためと、悪霊から身を守る(ウイキペディア英語版説)、厳格な階層社会なので目上の人を直視しない(lonely planet 説)ためなどの説があります。
なお、トゥアレグ人については後日もう少し詳しく紹介の予定です。
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「忘れられない」編 現地ガイド24 スペイン

2023年08月11日 08時08分46秒 | 忘れられない

 1996年にスペインを訪れた時何かの弾みで現地ガイドに「あなたの国で現在、過去を通じて尊敬する人は誰ですか?」という質問をしました。このような質問は私自身に向けられても返事に困りますが、このときの現地ガイドはいとも簡単に「現国王ファン・カルロス」と答えてくれました。ビックリしました。27年前のことですから正確には覚えていませんが、その後7・8人に同じ質問をしたところ2人を除いてすべて同じ答え「現国王ファン・カルロス」でした。ますますビックリです。その理由を私なりに考えてみました。
 スペインでは1975年までフランコによる独裁ファッショ政治でした。彼の死後、彼の政治路線を引き継ぐ勢力と、社会党、共産党を中心とする民主勢力との対決が過去のスペイン内乱(1936~39)再来の危機になりました。そのとき今までフランコ側に担がれていたファン・カルロスは民主勢力の立場に立ち内戦の危機を救い現在のスペインの民主体制の礎を造ることになりました。これが「現国王ファン・カルロス」尊敬の理由だと思いました。
 そこで今回も同じ質問をすることにしました。今回も正確にはメモを取っていないので数字的には正確ではありませんが、20人くらいの現地ガイドに同じ質問をしました。今回は即座に「ファン・カルロス」と答えた人は比率的には少なく4・5人くらいでしたが、「たとえば、ファン・カルロスは」と水を向けると「勿論、多くのスペイン人は」という答えが返ってきました。両者で3分の2くらいになりました。
 2009年のスペイン旅行で違った答えをしたコルドバの現地ガイドイのザベルさんを紹介します。彼女の答えは「共和国派の人々」でした。ちょっとビックリです。1936年に合法的に成立した「人民戦線政府」に対してフランコが武力反乱を起し内乱(1936~39)となりついにフランコが勝利し、ファッショ独裁政治が成立し1975年まで続きました。彼女の「共和国派」というのはこの「人民戦線政府派」のことです。ちょっとビックリというのはスペインではこの「スペイン内乱」について語ることは一種のタブーだったからです。というのは内乱時にスペインの人たちは親子、兄弟、親戚が「フランコ派」と「人民戦線派」に分かれ骨肉相食むことになったからです。その痛みが内乱終結後も長く残り現在に至っています。彼女の父親は共和国側の人で彼女が4歳の時フランコ派に殺されたそうです。「人民戦線派」の人たちの生き残りの多くは外国に亡命しました。北欧に5人の人たちが逃れそれを記念しての5本の指の彫像が残されているそうです。彼女が成長して北欧に旅行しそれを見たとき涙を流したという話をしてくれました。
 スペイン内乱のとき「人民戦線派」に対して多くの国際義勇軍が参加しましたが、そのなかに唯一の日本人ジャック・白井(ただし日系アメリカ人)がいましたが、彼女は彼の名前を知っているといっていました。
 ついでにカトリック教の重要な考えのマリアの「無原罪懐胎」(マリアの処女懐胎)を信ずるかどうかも尋ねてみました。彼女の返事はあいまいでカトリック教徒であるので信じざるを得ないという感じでした。
 写真は彼女と同行の方です。この同行の方は英語が堪能で「スペイン内乱」についても関心をお持ちでした
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「原爆8.6・8,9」に寄せて

2023年08月08日 07時54分50秒 | 忘れられない

(2019年8月9日の再録)
私の103国の旅を通じて感じることの一つに、日本人が思う以上に、広島、長崎への原爆投下について外国人の関心度が高いように思います。日本から来たと話すとヒロシマ・ナガサキと返ってくることが度々です。
 セルビア人との会話で彼は「アメリカは帝国主義国で嫌いだ。あなたもヒロシマ・ナガサキに原爆を落とされたからアメリカは嫌いだろう」今だに記憶に残る会話でした。(2011年1月16日紹介)
 ところがアメリカ合衆州国だけは違いました。返ってくる言葉は「オキナワ」でした。
 写真はアイルランドのコーク市にある「原爆追悼碑」です。日本語のガイドブックにも記載されていませんし、日本の原爆禁止運動の関係団体にも知られざる「碑」です。いかにしてこの存在を知り写真を撮ることになったかは2005年11月11日に紹介しています。碑文文字が見にくいので、以下紹介します。”In memory of the victims of Hiroshima  and Nagasaki .It must not happen again.
 この碑の由来についてはユーラシア旅行者の伊藤さんを通じてコーク市当局に問い合わせをしてもらいました。その回答文は2007年2月26日に紹介しています。
 先年、オバマ大統領のヒロシマ訪問が話題になりましたが、戦後初めてヒロシマを訪問した世界の政府要人はキューバのゲバラです。2013年4月20日に以下のように紹介しています。
「1959年アジア・アフリカ親善大使として来日し12日間日本に滞在し、その間広島を訪れ原爆慰霊碑に花束を捧げています。この時「アメリカにこんな目に遭わされておきながら、あなたたちはなおアメリカの言いなりになるのか」と語ったという話があります」
 個人的には積極的には原水爆禁止運動にかかわりませんでしたが、なぜか運動の節目での参加者となりました。最初は1954年の第五福竜丸被ばく事件で日本での原水爆禁止の運動が始まった時です。この時わたくしが在学していた岡山大学でも開学以来の全校在学生の半分以上の参加者で原水爆禁止の集会が開かれました。その時わたくしはこの大集会の議長を務めました。本題から外れますがこの時マスコミの取材を受けましたが、なぜか原水爆禁止の話より今後の学生運動の見通しについて盛んに尋ねられたことを記憶しています。当時全国的に学生運動が衰退していて岡山大学でも学生自治会は消滅していました。
 1963年原水爆禁止運動を担う原水協がヒロシマでの世界大会で分裂します。その広島世界大会に岡山県代表の一員として参加していました。分裂の危機を寸前にした安井郁を先頭にした行進はいまだに瞼に浮かびます。
分裂に直面した岡山県代表団はどう対処するかで広場で討議しました。その時は広場で100人ぐらいの代表団だったので意見発表のためにマイクの奪い合いになりました。その時わたくしの大声がマイクなしの私の発言を可能にしました。今でもわたくしの大声はいつも注意されます。一生のうち、この時が唯一大声が役に立った時でした。
 ついでにこの分裂騒ぎの一こまを。この分裂時に共産党の方針に反対した党員たちがかなり大量に(?)党から離れていきました。その一人が著名なマルクス主義哲学者古在由重でした。旅で偶然この古在由重の娘さんと一緒になりました。(2000年)その娘さんお話では当時共産党議長(委員長?)の宮本顕治が毎日説得のためか古在宅に来ていたそうです。なお、古在由重はかなり以前からソ連に対して批判的だったとは彼女の話です。
 
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「忘れられない」編 現地ガイド23 アルジェリア

2023年08月05日 07時54分53秒 | 忘れられない

 左がスルーガイドの「カリム」さんです。独身の敬虔なイスラーム教徒です。私にイスラーム教について感想を求められたので、私は“アイ リスペクト”と答えました。右が日程などの調整をするスルーガイドの「サリム」さんで再婚して1児の父親で写真を見せてもらいました。私が砂丘などでもたついているときなど手を取って助けてくれました。ありがとうございました。2人とも全行程のスルーガイドでした。
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「忘れられない」編 現地ガイド22 トルクメニスタン

2023年08月02日 07時53分45秒 | 忘れられない

トルクメニスタンの現地ガイドはマヤさんでした。推定年齢26歳?の独身女性でした。(写真)父親がトルクメニスタン人、母親がロシア人で日本語は出来なく添乗員の斉藤さんとの会話はロシア語と英語だったようでした。彼女の家庭での共通語はロシア語で、英語とフランス語が出来るそうです。トルクメニスタン語はあまり出来ないそうです。しかし弟はトルクメニスタン語も出来るそうです。多分彼はソ連崩壊後の新しいトルクメニスタンの教育を受けたためでしょう。
 ちなみにトルクメニスタンの民族構成はトルクメン人77% ウズベク人9% ロシア人7% カザフ人2% で総人口は430万人です。ロシア人は減少傾向のようです。
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