(2019年8月9日の再録)
私の103国の旅を通じて感じることの一つに、日本人が思う以上に、広島、長崎への原爆投下について外国人の関心度が高いように思います。日本から来たと話すとヒロシマ・ナガサキと返ってくることが度々です。
セルビア人との会話で彼は「アメリカは帝国主義国で嫌いだ。あなたもヒロシマ・ナガサキに原爆を落とされたからアメリカは嫌いだろう」今だに記憶に残る会話でした。(2011年1月16日紹介)
ところがアメリカ合衆州国だけは違いました。返ってくる言葉は「オキナワ」でした。
写真はアイルランドのコーク市にある「原爆追悼碑」です。日本語のガイドブックにも記載されていませんし、日本の原爆禁止運動の関係団体にも知られざる「碑」です。いかにしてこの存在を知り写真を撮ることになったかは2005年11月11日に紹介しています。碑文文字が見にくいので、以下紹介します。”In memory of the victims of Hiroshima and Nagasaki .It must not happen again.
この碑の由来についてはユーラシア旅行者の伊藤さんを通じてコーク市当局に問い合わせをしてもらいました。その回答文は2007年2月26日に紹介しています。
先年、オバマ大統領のヒロシマ訪問が話題になりましたが、戦後初めてヒロシマを訪問した世界の政府要人はキューバのゲバラです。2013年4月20日に以下のように紹介しています。
「1959年アジア・アフリカ親善大使として来日し12日間日本に滞在し、その間広島を訪れ原爆慰霊碑に花束を捧げています。この時「アメリカにこんな目に遭わされておきながら、あなたたちはなおアメリカの言いなりになるのか」と語ったという話があります」
個人的には積極的には原水爆禁止運動にかかわりませんでしたが、なぜか運動の節目での参加者となりました。最初は1954年の第五福竜丸被ばく事件で日本での原水爆禁止の運動が始まった時です。この時わたくしが在学していた岡山大学でも開学以来の全校在学生の半分以上の参加者で原水爆禁止の集会が開かれました。その時わたくしはこの大集会の議長を務めました。本題から外れますがこの時マスコミの取材を受けましたが、なぜか原水爆禁止の話より今後の学生運動の見通しについて盛んに尋ねられたことを記憶しています。当時全国的に学生運動が衰退していて岡山大学でも学生自治会は消滅していました。
1963年原水爆禁止運動を担う原水協がヒロシマでの世界大会で分裂します。その広島世界大会に岡山県代表の一員として参加していました。分裂の危機を寸前にした安井郁を先頭にした行進はいまだに瞼に浮かびます。
分裂に直面した岡山県代表団はどう対処するかで広場で討議しました。その時は広場で100人ぐらいの代表団だったので意見発表のためにマイクの奪い合いになりました。その時わたくしの大声がマイクなしの私の発言を可能にしました。今でもわたくしの大声はいつも注意されます。一生のうち、この時が唯一大声が役に立った時でした。
ついでにこの分裂騒ぎの一こまを。この分裂時に共産党の方針に反対した党員たちがかなり大量に(?)党から離れていきました。その一人が著名なマルクス主義哲学者古在由重でした。旅で偶然この古在由重の娘さんと一緒になりました。(2000年)その娘さんお話では当時共産党議長(委員長?)の宮本顕治が毎日説得のためか古在宅に来ていたそうです。なお、古在由重はかなり以前からソ連に対して批判的だったとは彼女の話です。