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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「臨時特別」編 マケドニア国名問題

2018年06月20日 08時06分27秒 | バルカン半島

 

 6月18日の朝日新聞に「『北マケドニア』署名 新国名合意 いまだ強い反対の声」という見出しの記事が掲載されていました。「旧ユーゴスラビアのマケドニアと、その国名使用に反対していたギリシャの両外相が17日、マケドニアの新国名を『北マケドニア』とする合意に署名した」

 この件に関して2010年マケドニア旅行での話を2010年10月30日、11月1日に紹介しました。そこでその一部を再録します。

 

 マケドニアは隣国ギリシアとの間に国名をめぐってトラブルがあります。ギリシアの言い分は、「マケドニア」という国名は、かの有名なアレクサンダー大王の古代マケドニアの名称の僭称というわけです。そして自分たちギリシアがマケドニアの正当な継承者と主張しています。そこで国連加盟の時の呼称は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」となっています。

 しかし「マケドニア」は自分たちがアレクサンダー大王古代マケドニアの正当な継承者と本気で思っているようで、首都スコピエの中心部にあるアレクサンダー大王広場建設予定地がありました。アレクサンダー大王像もここに作られる予定とのことです。

****ミランさん(マケドニアのマケドニア人)にコーヒー(トルココーヒー?)をおごってもらいました。あなたはアレクサンダー大王の後裔だと信じていますかとミランさんに聞いてみました。もちろんとの返事でした。

ワインの名前もアレクサンダーでした。マケドニアで飲んだワインはすべてこの銘柄でした。

**** アレクサンダーと呼ぶ声が聞こえました。その先にこの少女がいました。この子の名前のようです。女の子ですがアレクサンダーちゃんでした。(写真)ちなみにスコピエの空港の名前もアレクサンダー大王空港です。

コソボは中世が生きていましたが、ここマケドニアは古代が活躍していました。

というわけでギリシアとのトラブルは当分続きそうです。

 

 


「バルカン半島」編 バルカンで出会った日本5

2011年01月16日 08時27分59秒 | バルカン半島

 3点目

 最後にベオグラードの空港で出会ったセルビア人の話。時間待ちで暇なので近くにいたセルビア人にアメリカについてどう思うかと尋ねてみました。答えは彼らは帝国主義者だ、日本も広島、長崎に原爆を落とされたではないか、でした。写真撮影は断られました。

 以上でコソボで始まった(20101022日)「バルカン半島」編を完結します。次回からは未完になっている「中国シルクロード」を再開します。


「バルカン半島」編 バルカンで出会った日本2

2011年01月14日 08時22分44秒 | バルカン半島

 セルビアでは盲目の吟遊詩人グスラルが語る英雄叙事詩があると聞いていたのでそのCDを探して自由時間にベオグラードのCDショップを探していました。その時偶然に出会ったのが写真の女性です(右)。その人と左の同行の人の英語を通じて話をしていると「オヅ」という言葉が出てきました。ビックリして「オヅ! 小津安二郎?」思わず叫びました。「イエス」というわけで蛇足的質問「黒沢」には「もちろん」の答えでした。日本の映画、文化にかなりの関心があるようでした。彼女はここセルビア生まれで現在はスイスに住んでいるそうです。


「バルカン半島」編 バルカンで出会った日本1

2011年01月12日 09時56分48秒 | バルカン半島

 バルカンは日本人にはなじみが薄いようです。私がバルカンに行ってきたと話すとたいていの人が「バルカン?何処?」と反応しました。しかし意外な所で接点があります。サッカーの元全日本監督オシムはボスニア・ヘルツェゴヴィナのサラエヴォ出身ですし、同じくサッカーの名古屋グランパス元監督ストイコヴィチはセルビア出身です。

 たびたび登場をしていただいた前半のスルーガイドのGezimさんは私に「あなたの宗教はシントウ(神道)か?」と尋ねました。シントウについては意外に世界ではよく知られているようでそのことについては、20010年9月27日にインドネシアでの経験を紹介しています。

 写真はベグラードのカレメダン公園で見かけたものですが、具体的には何を意味しているのかはわかりませんでしたが、日本政府はこの地にかなりの経済的支援をしています。2005年発行の「バルカンを知るための65章」によればこの地への援助額は総額1400億円を超えていると記しています。

 

 

  


「バルカン半島」編 チトー2

2011年01月08日 08時24分34秒 | バルカン半島

 マケドニア、スコピエのマザーテレサの生家(20101028日紹介)の近くを歩いていた時、前半のスルーガイドのGEZIMさんが立ち止り私に向かいここはチトー通りだと教えてくれました。私がチトーについていろいろ尋ねていたので、今もこのように彼は尊敬されているよ、と私に教えてくれたようです。キリル文字でTИTOと書かれていますね。Иはラテン文字ではIです


「バルカン半島」編 チトー1

2011年01月06日 08時25分50秒 | バルカン半島

 2003年にスロヴェニア、クロアチア、モンテネグロを訪れその時の話を当時まだこのブログを開いていなかったので友人のホームページの掲示板(現在閉鎖)に書き込みをしました。その時にチトーについて書いた所をここに再録します。

 

 「ユーゴ紛争」1993(千田善 著)p182 によれば「セルビア民族主義者は、チトーが『クロアチア人』で『戦後のセルビアの発展を妨害した張本人』と毛嫌いしている」。

 「故郷のクロアチアでも、チトーは『共産主義者』『クロアチアを弾圧した独裁者』として嫌われている」となっています。と言うわけでチトーは旧ユーゴスラヴィア各国ではもはや嫌われ者になっていると千田氏は述べています。

 そこで今回の旅行では現地ガイド全員(6?)に「チトーを尊敬していますか」という質問をしました。その答えをまとめる前にチトーについて少し復習をしておきます。

 ユーゴスラヴィア(以下ユーゴと略記)1918年多くの民族(問題)を抱えながら一応統一国家としての王国が建国されたが、41年にナチスドイツなどの枢軸国によって消滅しました。45年社会主義にもとづく連邦国家として再建されましたが、91年以降解体が始まり現在、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア・モンテネグロ、マケドニアに分解されました。

 さてスロヴェニア人を母、クロアチア人を父とするチトーはユーゴ人民解放軍を結成し「諸民族の友愛と団結」をスローガンにドイツからの解放を呼びかけパルチザン闘争を組織しドイツを追放し、1946年連邦共和国を誕生させ国民の英雄となりました。その英雄が今嫌われ者になっているということなので今回の旅行で前述の質問をしたというわけです。

その質問の対象は全員がクロアチア人、スロヴェニア人でした。全員の答えは”yes”すなわち尊敬しているということでした。なかには”Of course “ 「勿論」、” Good ruler “「よき統治者」という答えまで返ってきました。ただサグレブでの現地ガイドだけはイエスと答えながら微妙なニュアンスがありましたが、それについては次回の枢機卿Stepinac のところで述べたいと思います。その他ボストナイト鍾乳洞のトロッコで隣り合わせになったクロアチア人はいろいろ話してくれ、その殆ど理解できませんでしたが、全面否定ではないようでしたが”He was cruel”「冷酷だった」という言葉だけは耳に入りました。

というわけで、千田氏の「嫌われ者になっている」は正鵠を射ているとは言いがたいと思いました。現地で確認した意義はあったと思っています。もっともセルビアでは多分千田氏の評価とおりになっていると思います。セルビアに行って調べてみたいですね。

 

 というわけで今回セルヴィアを含も旧ユーゴの構成していた国々の人たちに同じ質問をしてみました。今回はかなり多くの人に質問しましたが、前回よりももっと肯定的な回答でした。ただ一人だけチトーのお墓に来ていたスロヴェニア人だけが嫌いという答えでした。

 「千田氏の『嫌われ者になっている』は正鵠を得ていない」がよりはっきりしたように思いました。

 写真は一人だけ否定的な回答をしたそのスロヴェニア人です。

 

 

 

 

 


「バルカン半島」編 セルヴィア ノヴィ・サド6 ペトロヴァラディン要塞2

2011年01月04日 08時27分39秒 | バルカン半島

 ここにある時計塔がユニークです。拡大してみてください。何時を指していると思いますか。午後5時です。普通の時計と反対に長針が時間、短針が分を示します。向こうに見えるドナウ河の船から時間がよく見えるためだそうです。


「バルカン半島」編  セルヴィア ノヴィ・サド 5 ペトロヴァラディン要塞1

2011年01月04日 08時24分50秒 | バルカン半島

 この地にはペトロヴァラディン要塞があります。ドナウ河に接している交通の要地であるので古くから攻防の激しいところでした。現在の要塞は1691年オスマン帝国からオーストリアの手に移ってからオイゲン侯が1692年建設を始め1780年に完成しました。旅行社のパンフレットにはマリアテレジアの建設とありましたがこれは間違いのようです。