以前、NHKに「英語でしゃべらないと!」という番組がありました。外国語劣等感の持ち主の私には大変気になる番組です。ただ老人の私にとって夜遅いので見たことは殆どありませんが。その英語表記は“Can you speak English ? ”となっています。この英語がまた大変気になっています。私の乏しいヨーロッパ旅行の経験では“Can you speak English ? ”と話しかけられたことは一度もありません。すべて“Do you speak English ?” です。ところがアジアでは“Can you speak English ? ”でした。外国旅行の経験の豊富な人に聞いてもそうです。僻みかもしれませんが、“Can you speak English ?” は自分の価値を値踏みされているような気がします。それに対して“Do you speak English ? ”は価値中立的なような気がします。“Can you speak English ?” はアジア人のヨーロッパに対するコンプレックスの表れの様な気がするのですが、皆さんはどう思われますか? ところがギリシアで”Can you***”だったことがあります。ギリシアはヨーロッパでも少し違うのかな。まあ、どちらにしても”It is Greek to me”(チンプンカンプン)です。それにしても「英語でしゃべらないと!」になると気の弱い私など恐怖感に襲われただオタオタするばかりです。もっとも”Can you***”でも”Do you **”でもどちらにしてもだめですが。フォームの始まり
マリ共和国は1960年フランスから独立しました。そのとき奴隷制廃止が決まりました。世界最後の奴隷制廃止です。
トンブクトゥの街中を観光している時、添乗員の本橋さんはここが昔奴隷だったベラ人の居住地だと案内してくれました。
ところが帰国してまもなく「環境と文明の世界史」(p155)という本を見てびっくりしました。「今でも奴隷制度が残っているのは北アフリカのトゥアレグ族ですよ。アムネスティ・インターナショナルが再三非難していますが、周辺の黒人種族を奴隷にして今もこき使っています」
ウイキペディア(英語版)でも奴隷のいう名前は別として現実はそのまま奴隷が存続しているとしています。
トンブクトゥの自由時間でぶらぶらしている時1人の少年に出会いました。前述のトゥアレグ人の少年以上に片言の英語(というよりは殆ど通じない)でなんとなく会話をしていると物をねだる様子もなく家に来いというのでついていきました。何人かと尋ねても返事はありませんでした。家の中には何もなくなぜかヒチリンに火がありお湯が沸いていました。母親は病気らしく寝ていました。別れるときポツリと「ベラ人」だといいました。要求されませんでしたが、幾ばくかのお金を別れる時に渡しました。何人か?と聞いたこと、お金を渡したことが、良かったことかどうか、いまだに良く判りません。残念ながら彼の写真がありません。写真は彼の家です。
2002年マリ共和国のトンブクトゥの空港で飛行機待ちをしていた時1人の少年に出会いました。片言の英語で話をしました。勿論マリ共和国は多民族国家なので君は何人か?と尋ねました。彼の答えは「トゥアレグ人」との答えだったので、私「ラクダドライバーだな」。彼「イエス、そしてベラはロバドライバーだ(注1)」。私(ちょとからかい気味に)「日本人は?」。彼「ヤマハ(注2)ドライバーでアメリカ人は飛行機(airplaneという単語を知っていました)ドライバー」という答えが返ってきました。お見事!
残念ながらこの少年の写真がありません。そこで冒頭の写真はトゥアレグ人の大人の男性の写真です。遊牧民族でサハラ砂漠を行きかいする交易商人です。
彼らは青いターバンと民族衣装を着用することから青衣の民として知られています。彼らはイスラーム教徒です。一般にイスラーム世界では女性が全身や顔を衣装で隠す習慣がありますが、トゥアレグでは逆に男性が全身そして顔を衣装で覆い、女性は皮膚を露出していることもあります。一夫一妻制でもあります。
- ベラ人はトゥアレグ人に隷属する奴隷。次回紹介予定。
- この地方のバイクは日本のヤマハのようです。誇らしげにヤマハの自動二輪を乗り回している青年に出会いました。
2008年のパキスタン行きのタイ航空は関空→バンコック→イスラマバードでした。通路を隔てた隣に若者2人がバンコックから乗り込んできました。ふと見ると彼らは中国出版らしき「孔子」の本を読んでいました。新中国建国以来「孔子」は厳禁だったようですが、最近復活したという話を聞いていたので、私のいつもの悪い癖が出て「ニハオ」と呼びかけました。それから私のカタコト英語と電子辞書の漢字と、相手の私より上手い英語での珍問答が始まりました。最初に日本の戦争責任が話題になったようなのでapologize(謝罪9 を連発、次に靖国問題ではshame(恥)をいったところ相手は拍子抜けのようでした。(私は相手に迎合してそういったのではなく常日頃そう思っています)それから反転して私は今の中国は共産主義国ではなくアメリカと並んだ資本主義国家ではないか、welfare がないような共産主義とは。朱徳は好きだが、鄧小平は嫌いだ。というようなすれ違い問答をしているうちに次のような発言にびっくりしました。彼曰く「私の宗教はコミュニズム(共産主義)だ」
彼は以前地震のあった四川省の出身です。鄧小平と同じ名前ですね。彼は中国の会社から電話工事のためにパキスタンに出かけるところでした。
私が帰国してみると私のブログにコメントをくれていました。その後もたびたびコメントを入れてくれました。
小平 (周)
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前回クロアチアで出会った(2003年)台湾の人の親日を紹介しましたが、2017年に台湾を訪問した時も親日的な人に出会いました。
平渓線の瑞芳駅でのことです。構内で突然話しかけてきた人がいました(写真)。戸惑っていると「教育勅語」(注)を暗誦し始めました。びっくりしていると片隅に日本人案内所と書かれたところがありました。年を聞くと86歳(わたくしより3歳年上)ということでした。このような親日は悲しいですね。もっとも極右翼のような方たちなら大喜びだったでしょうね。怖いですね。
注
1890年に明治天皇が「古来天皇が徳を持って統治してきたことを述べ、続いて国民が守るべき「徳目」を掲げ、もって皇室を扶翼すべし」という1890年に出された明治天皇の勅語。わたくしの小学校(当時国民学校)時代暗記すべしとされていました。しかし物覚えの悪い私は最後まで暗記できませんでした。当時皇国民であった私ですが、5年生の時に敗戦になり暗記しなくてもよくなりほっとしたことを今でも覚えています。そうです、8月15日は私には「教育勅語」を暗記しなくてもよくなった記念日なんです。
2003年、クロアチアで台湾の人から流暢な日本語で声をかけられました。私は「日本は皆さんにあまり良いことをしなかったにもかかわらず、親切に声を掛けていただいてうれしいです」と言いました。すると一人は「台湾の現代化は日本のおかげです」、もう一人は「50年前は同胞でした」という答えが返ってきました。私は名状しがたい感情の高ぶりで涙を抑えることが出来ませんでした。私は今鹿児島に住んでいると話すと私の小学校の恩師は鹿児島の人でしたという話までされました。
なぜこのような発言がなされたのか、そのことについて少し考えてみました。
最初に考えられるのは台湾と朝鮮半島に対する日本の植民地政策の違いに起因するということです。しかしこれは私の乏しい知識に照らし合わせても間違いだと思いました。そこで気がついたのは台湾での本省人と外省人の感情的対立問題です。
1945年の日本の敗戦日を台湾、中国では光復日と言います。台湾の人たちは希望に満ちていました。しかし国府軍を中心とする本土からの移住者(外省人)の横暴に対して本省人(元から台湾にいた人たち)の反感はつのります。「島から逃げ出す一匹に犬(日本人)と入ってくる一匹の豚(本省人)」を描いたポスターが当時貼られていました。それが爆発したのが1947年の2・28事件です。当時本省人から外省人へ「シナチャンコロ」(戦時中日本人が中国人をののしる言葉)という罵声が浴びせられました。すなわち 日本植民支配への怒りが外省人への怒りで隠され、日本時代へのノスタルジーに変わったのではないかというのが私の解釈です。
モロッコのエッサウィラの自由時間でのことです。鮮魚店で魚を買いその場で調理してもらうレストランの客引をからかい次のような会話をしました。私「俺の名前はアブドゥラでシャリーフだ。だからバラカを持っている」
客引き「そうか、ここにもシャリーフがいるので紹介しよう」としてよばれてきたのが、写真の人物。右の人物が紹介してくれた客引きです。
私「あなたは本当にシャリーフか、それではアンタアホヤ」と言って握手をしました。
片仮名のところを説明しておきます。「アブドゥラ」はイスラーム圏では一般的な名前で意味は「神の奴隷」です。「シャリーフ」はイスラームの預言者ムハンマドの子孫を言います。「バラカ」はこのシャリーフが持つ「神の恩寵」と訳される万能の力です。「アンタアホヤ」は「あなたは私の兄弟だ」という意味のアラビア語です。この言葉はシリア、レバノン、ヨルダンで用いて成功しました?
皆さんもどうですか?「アンタアホヤ」をアラビア語圏で乱発してみては。
アルジェリアの人はわれわれを見ると多くは「ニハオ」と挨拶をしてくれます。ところが時には「コンニチハ」といってくれる人もいました。なんとなく若い人が多かったような気がします。その一人が写真の主で首都アルジェ近郊のティパサ遺跡の勉強に来ていた中学生(?)でした。シャツの字「東京」を左から指差して「トウキョウ」と私が読むと彼は右から「キョウト」と発音しました。アラビア語は右から読むのですね。なんとなく楽しくなりました。ありがとう。
どうです、この写真! イスラーム圏では女性は原則として撮影禁止です。ましてやこのように完全装備(?)の女性が男性と、ましてや異教徒と一緒の写真なんて! 男性は私ですよ。女性は若かったような気がします。奇跡です。アルジェリアの首都アルジェの町です。田舎では絶対駄目です。この旅行での一番の写真です。彼女の異国人へのホスピタリティ?