100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

89
歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「北インド周遊15日間の旅」 ガンディー2

2020年01月27日 08時07分18秒 | インド


 ガンディーは世界的な人物でした。例えばアメリカの黒人牧師、人種差別撤廃運動家、ノーベル平和賞受賞者のキング牧師(1929~1968)も彼に強く影響を受け尊敬していました。彼の記念館にはガンディーの銅像があります。(2017年9月23日に紹介)
 ガンディーの遺灰は世界各国に分骨されました。その一つをアフリカ・ウガンダのナイル河源流のヴィクトリア湖畔に見ました。(以下2009年11月29日紹介のものを縮小修正再録)写真はその記念碑ですが、ちょっと見にくいのでその英文を転記します。
             MAHATMA GANDHI (2 10 1869 –30 11 19489)
Universal  apostle of peace and non-violence whose ashes were immersed in the River Nile in 1948.
*****************
Unveiled by H.E Mr . Ik Gujral the prime minister of the Republic of India on 5th October1997
Lonely planet によればガンディーはここで筏遊びをしていたと書かれており、現地ガイドによればアフリカの独立を鼓舞するためにここに遺灰を流したと説明してくれました。、遺灰は1948年にナイルに流され1997年に当時のインド首相Gujral がこの碑の除幕式を行ったと書かれています 。
 この地はウガンダのインド人の巡礼地になりつつあるそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「北インド周遊15日間の旅」 ガンディー1

2020年01月27日 08時03分18秒 | インド


 ガンディー(1859~1948)は非暴力の抵抗でインドの独立を勝ち取った人としてインド建国の父として世界的にも著名な人物であるかとは常識ですね。その彼の火葬場がデリー郊外に残されていて(写真)インド人の礼拝の場となっています。ヒンズー教は墓を作りません。したがって彼の墓もありません。
ついでの話ですがヒンズー教の親戚の仏教徒にも墓はありません。日本では「仏教=墓」というイメージがありますが、日本だけが特殊で日本以外の仏教徒は墓を作りません。
「お墓があるのは、仏教国では日本だけである。日本人は仏教と言えば、お墓を連想するほど、仏教にとっては不可欠なもの、仏教の一部だと思い込んで、お墓のない仏教など夢想だにしない。しかし、現在仏教が信奉されているアジアの各地を訪れれば明らかのようにお墓はどこにもない」(今枝由郎著『ブータンから見た日本仏教』p115)
もひとつ余談話。最近遺骨の取り違えが話題になっていますが、本林靖久氏はその著「ブータンと幸福論」(p135)で「(日本人は)葬送儀礼においても骨に対する執着が強すぎ、死者の儀礼の行きつくところが、遺骨の処理や保存に囚われすぎではないかと思う」と述べています。
終戦直後のベストセラーの本、竹山道夫の「ビルマの竪琴」はわたくしの初期青春時代の愛読書でした。この本に書かれている遺骨収集の話はビルマ人(ミャンマー人)にとってはほとんど意味のないことだったのですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「臨時特別編」 子どもたちへの思い2

2020年01月24日 08時01分22秒 | エンディングノート


こちらは「ワールド・ビジョン・ジャパン」の子供の便りと家族の写真です。上がヴェトナム語で下が英語ですね。別刷りで翻訳ボランティアの日本語訳があるので転記します。
「親愛なる ヤマダ様

僕は、あなたからカードをいただき、とてもうれしかったです。僕にとって、とても高価で励みになるものでした。ありがとうございました。もうすぐ夏休みです。楽しい時になるでしょう。お元気ですか。あなたの健康と幸せを願っています。
敬具
     000000
(翻訳ボランティア;西城葉子)」
  
「ワールド・ビジョン・ジャパン」と「日本フォスター・プラン協会」については卒業しましたが「JHP・学校をつくる会」は今も会員です。
 世界の子供たちの幸せを願って!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「臨時特別編」 子どもたちへの思い1

2020年01月24日 07時57分39秒 | エンディングノート


 前回、前々回で紹介したインドの子供たちの実態に強く心を打たれました。その時低開発地の子供たちを援助する非営利法人に出会いました。「ワールド・ビジョン・ジャパン」と「日本フォスター・プラン協会」それに「カンボジアに学校を作る会(現在「JHP・学校をつくる会」)です。前二者は特定の子供を対象で、後者は特定者ではありません。
 写真は「日本フォスター・プラン」を通じての子供からの便りと写真です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「北インド周遊15日間の旅」 忘れることのできない話 二つ

2020年01月21日 08時01分16秒 | インド


この旅で経験した一生忘れることのできないことを二つ紹介します。前半は2006年6月2日の再録(一部修正)で後半は初出です。
 私はこの写真のすぐ後に起きた事柄を24年たった今も忘れることは出来ないし、一生忘れないでしょう。
 この写真はインドのジャイサメールというところのキャラバンサライ(隊商宿)がホテルになった、そして多分その昔、隊商たちのラクダを繋いだと思われる中庭でのものです。私と同行の1人とその中庭のテーブルでビールを飲んでいました。と見ると庭の片隅に父子が地べたに座ってみやげ物らしきものを広げていました。そこで私たちは子供にはつまみ、お父さんにはビールを勧め椅子に座るよう言いました。ところが二人とも椅子に座ろうとしません。地べたに座り込みました。どうやら彼らは不可触民(次回紹介)で同席は出来ないと思ったようです。
 同行の人が写真を撮りお父さんに送るから住所を書いてくださいといいました。お父さんは書けません。ホテルの人に書いてもらいました。そのときです。ホテルの人が住所を書いている手元に子供は食い入るような視線を投げかけていました。文字を知りたい、学校へ行って文字を習いたい、学校で勉強したいという強烈な眼差し、顔つきでした。多分プロの写真家であればその一瞬を切り撮っていたでしょう。私には出来ませんでした。しかし私の脳裏には強く焼きつき消えることはありません。今こうしてこの文章を書きながら老いの眼から涙が止まりません。

 この旅は最初から少し身構えたことから始まりました。最初のホテルで手持ちのスーツケースをホテルの従業員が運び入れてくれますがチップは事前に支払っているのでその場での支払はしないでくださいと添乗員からの指示がありました。ところが運び入れてくれた従業員は部屋にとどまり立ち去ろうとしません。明らかにチップを要求しているようでした。しばしにらみ合いの状態でしたが、あきらめた様子で立ち去りました。翌日、前回紹介したように釣銭をごまかされました。
ついでにあと二つ。ペットボトルの水を購入しました。ところがそのペットボトルは使用済みに水を入れたものでした。そのことに気づき抗議したところにやりと笑って新品と交換してくれました。両替所でのインドリラの束はホッチキスで止めてありました。
このようにインド人に対して身構えた状態の中で2月1日のエローラの観光(後日紹介)後ホテルに帰ると強烈な下痢がはじまりました。翌日まで続きその日のアジャンタの観光を取りやめホテルで休みを取りました。部屋のトイレのペイパーは2,3回使用するとなくなるなど不便がありました。その時このホテルの従業員(中高生ぐらいの男の子)がいろいろと世話をしてくれました。しかし身構えての気持ちは残っていました。翌日ホテルをバスで出発するときこの少年は手を振って見送ってくれました。その時初めて気が付きました。なぜお礼を言ってチップを渡さなかったのかと。24年たった今も胸が痛み後悔反省をしています。ごめんなさい。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「北インド周遊15日間の旅」 デリー2 大道商人(芸人)4

2020年01月18日 08時04分39秒 | インド


 極限を超えています。説明はしません、したくありません、できません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「北インド周遊15日間の旅」 デリー2 大道商人(芸人)3

2020年01月18日 08時01分40秒 | インド


 子供たちだけの芸(?)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「北インド周遊15日間の旅」 デリー2 大道商人(芸人)2

2020年01月18日 07時58分14秒 | インド


蛇使いです。不可触民の「蛇使い村」の人たちです。右側の蛇使いは少年ですね。もちろん撮影料は支払いました。
五島昭氏がその著「インドの大地で」(p68~69)で次のように紹介しています。
「ニューデリー南東120キロのウッタルプラデシュ州モラウバンド村の住民496人は全員蛇使いとその家族。全国蛇使い協会会長のドゥルガトナ曰く。『冬の10月~12月をのぞけば全員商売に出ています。ニューデリー、カルカッタ、ボンベイなどインドの都会は勿論、遠くネパールのカトマンズにも足を延ばします』」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「北インド周遊15日間の旅」 デリー2 大道商人(芸人)1

2020年01月18日 07時54分01秒 | インド


山田和はその著「インドの大道商人」(p299)で「インドを訪れたことのある人は、インドは一握りの富める人々に代表されるのではなく、大道で生きる商人たちのような貧しい人たちによってこそ代表されるということに異論を唱える人は少ないと思う」と書いています。というわけで人のいるところには必ず大道商人です。この写真の店であったかどうかは忘れましたが、ペプシコーラーを買って釣銭をごまかされたと、わたくしのメモにありました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「北インド周遊15日間の旅」 デリー1

2020年01月15日 08時02分07秒 | インド


 1996年1月21日~2月4日の旅でした。今回からは土産物店への無駄な時間は無くなりました。
 香港経由でデリーに夕方到着しホテルに直行でした。デリー空港の出迎えは前回のカイロ空港の排気ガスとは違って香辛料の匂いでした。(注)
 翌日は終日デリー観光でした。上の写真はオールドデリーです。下はニューデリーで官庁街、各国大使館、高級ホテル、高級住宅地があり木々が多く広々としてきれいな街です。オールドデリーは庶民の街でこのような雑踏ぶりです。この繁華街チャンドニーチョクを私たちはリキシャー(日本語の人力車に由来)で観光しました。中央の二人の女性は同行者です。マスクをしていますね。よく覚えてはいませんがかなり空気が汚染されていたようでした。
 当時のわたくしのメモでは「オールドデリーとニューデリーでは極端な差がある」とあります。
 現在のインド人が学校で習う言葉に「Unity in diversity(多様性の中の統一)」があります。インド理解のキーワードです。ただし、Unityの現実にはいろいろと議論があるようです。

(注)この香辛料の匂いについては後日談があります。当時私はこんなにたくさん旅行をする予定はありませんでした。したがって旅行用のスーツケースは持っていませんでした。カメラは前回はインスタントで、今回ようやく安いフィルムカメラを購入しました。そのカメラ店で無料のスーツケース借りることにしました。帰国後スーツケースを返しに行きスーツケースを開けました。その瞬間強烈な香辛料の匂いが店内に立ち込めました。店主はびっくり仰天。以下省略。というわけで次回からは自前のスーツケースで。 インド旅行は香辛料の匂いで始まり香辛料の匂いで終わりでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「古代文明ロマンの旅」編 恥ずかしくて、怖くて、不思議な話

2020年01月12日 08時00分57秒 | トルコ

 2016年3月8日の再録です。(一部修正)
この旅の最初の観光はトルコのイスタンブールでの「ベリーダンス」(注)でした。写真はベリーダンサーと脂下がった私です。そこでかなりのアルコール(種類は記憶喪失)を飲みホテルへ入りました。そこでちょっと外に出たところ「マイフレンド・マイフレンド」と叫んで近寄ってきたポン引き(イタリア人)と酔っ払った勢いで片言の英語のやり取りをしました。そのうちに自分のホテルへの帰り道もホテルの名前も忘れていました。そこで彼に近所のホテルの名前を挙げてもらいました。さすがにいくつかの名前の中から思い出しました。そこで義理を感じた私は「テンダラーズオッケー」という所に行くことになりました。そこでウクライナ出身のミニスカートの美女二人に挟まれてお酒を飲みました。
 オスマントルコ時代の宮廷ではウクライナ美女がたくさんいたことを思い出し歴史は繰り返すなどと暢気に思っていましたが、少し正気に成りヤバイと思い帰ろうとしました。やはり巨額な請求書が付きつつけられました。テンダラーズだったはずと抗弁しましたが、当然のことですが了解されるはずもありません。屈強な男4,5人に取り囲まれ小さな部屋に入れられました。そこでいくつかのやり取りがあって正気になった私はあきらめかけていました。とするとボスみたいな人が現れ首を部屋の入り口のほうに向け「帰れ」のサインをしたようでした。そこテンダラーをおいてすばやく?脱出しました。なぜ助かったのかはいまだに謎です。考えられるのはトルコが親日国であるということしか考えられません。 
 危機を脱してもその後もいけません。さすがホテルの名前は覚えていましたが帰り道がわかりません。通りがかり人に尋ねると親切に教えてくれるのですが、まったく方向違いばかりです。ホテルに帰ったのは空が明るくなってからのことでした。
(注)日本べリ-ダンス連盟「世界最古の踊りと言われるベリーダンスは、女神崇拝のための儀式として巫女たちが踊ったのがそのはじまりだと言われています。そして、豊穣を祝うための踊りとして、脈々とアラブの女性たちに受け継がれていきました。
広辞苑「(bellyは腹部に意)腹部をひねったり腰を振ったりする女性の踊り。西アジアやアフリカ北岸で行われる」

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「古代文明ロマンの旅」編 6 パルテノン神殿3

2020年01月09日 08時03分46秒 | ギリシア


 このパルテノン神殿はこの時の撮影ではなく2007年の「ギリシア周遊とエーゲ海クルーズ」の最後の晩餐のレストランから見たものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「古代文明ロマンの旅」編 5 パルテノン神殿2

2020年01月09日 07時59分21秒 | ギリシア


 このアテネのアクロポリスは東西270m、南北156m、高さ150mの岩の丘にあります。したがってかなり遠方から見ることができます。この神殿の主神アテナ女神です。
 なお、この神殿にあった彫刻は今はほとんどすべてイギリスの大英博物館にあります。大英博物館にある経緯は省略しますが、ギリシア政府は返還を要求しています。イギリスに旅行した時自由時間に大英博物館行きましたが、その時入館料が無料でした。その時はちょっとびっくりしましたが、考えてみれば当然だと思いました。理由は省略、考えてみてください
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「古代文明ロマンの旅」編 5 パルテノン神殿1

2020年01月09日 07時54分40秒 | ギリシア


写真はアテネのアクロポリスにあるパルテノン神殿です。 ギリシアでは何といってもアクロポリスにあるパルテノン神殿でした。その当時のわたくしのメモには「アクロポリスの丘 民会の開かれた広場を遠望して感無量。アテネ考古学博物館エジプト的静的なものよりダイナミックなものへと彫像が移り行くのをデスボティズムから民主主義へと見るのは穿ち過ぎか。」と書いていました。
 アクロポリスといえばアテネと思いますが、古代ギリシアの各ポリスにあった本来城塞的なもので重要な祭儀も行われました。
 「感無量」とメモしたのはたぶん学生時代の衣笠茂先生の「アテナイ(アテネの古代名)の民主制」という講座を1年半受講した思いが込められていたのかもしれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「古代文明ロマンの旅」4

2020年01月06日 08時01分11秒 | エジプト・キプロス


 エジプトといえばピラミッド,○○宮殿などの紹介が普通ですが今はTVなどでよくみられるので省略しますが、このツタンカーメンの墓だけは何となく強い印象が残っています。
 もうひとつ、忘れることのできないのはルクソールからカイロへの機中から見た景観です。なぜか写真がありません。この旅行で使用したカメラはインスタントカメラで40枚ぐらいしか撮影でなかったことも関係していることもあるかもしれませんが、それでもなぜ撮影をしなかったかと25年たった今も後悔しています。
 それはナイル河、その沿岸に緑があり、その外には広大な砂漠が広がっていました。これがエジプト文明だと叫びたくなりました。感動のひと時でした。この景観は知識としては知っていましたので、あらかじめ添乗員(あの恐ろしい)に窓際の座席をお願いして嫌われましたが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする