100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

89
歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「カンボジア」編 アンコール遺跡2

2021年08月04日 07時54分17秒 | カンボジア

アンコールでの夕食は民族舞踊の鑑賞でした。(写真上)
アンコールには世界各国からの観光客が来ていました。写真中はタイから来ていた若者たちです。東南アジアではバイクタクシーが目立ちますがここアンコールでも大活躍していました。バイクタクシーの運転手さんのたまり場です。(写真下)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「カンボジア」編 アンコール遺跡1

2021年08月01日 07時52分21秒 | カンボジア

アンコール遺跡は9世紀〰15世紀に作られた寺院、僧院、貯水池、橋梁などの1080か所の遺跡群です。なお寺院は当初ヒンドゥー教寺院として建設されましたが16世紀後半に仏教寺院に改修されました。
この世界的に有名な遺跡群の保存修理に日本は中心的な役割を果たしています。(写真左下)その中心的な人物は元上智大学学長石澤良昭さんです
以前NHK教育テレビでポル・ポト政権以前から現在に至る44年間の石澤さんとこの遺跡の保存、修復についての番組が放映されました。(1時間30分?)その中で感動的だったのは「現地の人たちの美意識によって保存、修復」という言葉でした。
 以下、「アンコールと生きる」という写真展に後援者としての石澤さんの言葉がインターネット上に公開されているのでつまみ食い的に紹介しておきます。全文は「後援者の声:石澤良昭上智大学学長」をご覧ください。
 「アンコール・ワットをはじめ、これらの文化遺産はカンボジア民族の誇りと伝統の象徴である。その保存修復と維持は、そこに住む人たちの手でなされることが必要である。この民族の固有な文化遺産を世界に向かって説明できるのは、誰よりも現地に暮らすカンボジアの人々である。しかしながらカンボジアではポル・ポト政権の時代(1975-79)に遺跡の保存修復の専門家36名がほとんど不慮の死に追いやられた。 私たちがこれまでの経験から得た結論は、「カンボジア人による、カンボジア人のための、カンボジアの遺跡保存修復」が必要であるということである。
写真右上は「バイヨンの微笑」としてよく知られています。佛面が仏の慈悲の光が㈣周を照らしていることを意味しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「カンボジア」編 メコン河の漁民、独立記念塔

2021年07月29日 07時53分06秒 | カンボジア

 プノンペンの早朝メコン河畔を散歩しました。早朝から漁民たち漁をしていました。写真左下はメコン河上にある漁民の家屋です。写真左中にも見えますね。
 写真右は1953年11月9日にフランスからの独立を記念して1958年に建造された独立記念塔です。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「カンボジア」編 トゥースレン虐殺犯罪記念館 付エンディングノート

2021年07月26日 07時53分48秒 | カンボジア

  カンボジアのプノンペンではポル・ポト政権が作ったトゥースレン虐殺犯罪記念館(元刑務所)を訪れました。そこでの写真です。ここに約2万人が収容され6人だけが生還しました。虐殺された人の写真です(写真上中)
写真下は何だと思いますか。虐殺された人たちの頭蓋骨で形作られたカンボジアの地図です。あまりにも残酷なので2004年に撤去されました。
 1975年に成立したポル・ポト政権は1979年までの4年間に200万~300万人(国民の約三分の一)の自国民を虐殺しました。特にインテリ層が対象になりました。メガネをかけているだけでインテリとみなされ処刑されました。いままでナチスのユダヤ人虐殺、トルコによるアルメニア人虐殺を紹介してきましたが、カンボジアでは自国民虐殺です。アフリカのルアンダ、ダンフールの虐殺も他民族です。その点カンボジアの例はきわめて特異であると思います。

余談話(エンディングノート) 昨日87歳になりました。最近までは鹿児島市から88歳米寿の祝い金2万円をいただきそれでちょっと高級なワインと思っていましたが、どうもそれは無理なようです。わたくしはラディカルな無神論者ですが、死期間近になると神、仏を信じている人をうらやましくなります。彼らには「あの世」があるのですから。尊敬する加藤周一が死の直前カトリックに入信したことを思い出す今日この頃です。このブログは何時迄? 
若い時は神や仏を信ずる人をある意味で馬鹿にしていました。その後、人類の歴史を知るうちに宗教が重要な役割を果たしてきたことを知るようになりました。その後人間が宗教を発明しなかったら、戦争は少なく平和が続いていたように思うようになりました。人類史上飢餓や貧困での人殺しより宗教上での人殺しの方が多数であったように思います。わたくしは狂言の演目「宗論」が大好きです。
日本棋院のネットで毎日囲碁を楽しんでいます。数年前までは5段〰4段で打っていましたが、最近では4段〰3段、時には2段まで落ち込むことがあります。終焉ですね。
神や仏を信ずる人は幸せだ!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「カンボジア」編 プノンペン

2021年07月23日 07時54分56秒 | カンボジア

ホーチミンから空路でカンボジアの首都、プノンペンに到着しました。当日のドリアン事件につては前回紹介しました。ホーチミンに比べて街頭風景は少し閑散としていますね。(写真上) きょろきょろとしていると祠のようなに出会いました(写真中)漢字表記ですね。
写真下は当時まだ存命中であったシアヌーク殿下の王宮です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「カンボジア」編 ドリアン事件

2021年07月20日 07時35分30秒 | カンボジア

2010年8月8日の修正、再録、
強烈な悪臭でしかし美味で有名なドリアンには子供の時からの思い入れがありました。当時日本は太平洋戦争真っただ中で時流に乗った南方冒険物語の児童書に胸をとどろかして読んでいました。南田洋一郎という著者がいまだに記憶にあります。お話の内容を今はすっかり忘れていますが、南方にはドリアンという果物の王様があるということだけは今日至るまで覚えています。
その憧れのドリアンに出会ったのは2001年カンボジア旅行の時でした。プノンペンの市場でドリアンを見つけ買い求めていてグループから逸れ添乗員からひどく叱られました。3ドルでした。この国の物価水準からいってかなり高価だったように思います。
昼食時にみんなと一緒に食べようとしたところまたも添乗員の「なんていうことを」と、しかられました。そこでやむなく宿泊のホテルに持ち込みました(本当はこれもいけないことでした)。夕食後皆さんを誘って私の部屋に集まって食べることにしました。こちら方面にたびたび旅行された方もいらっしゃいましたが、食べるのは初めてという方もいてかなりの人が私の部屋に集まりました。美味でした。匂いは思ったよりなくて少し拍子抜けの感じでした。その後幸せの気分でベッドに入りました。ところが夜中強烈な匂いで起こされました。ドリアンの残骸が発酵して強烈な匂いを発したのでした。その後、何日かは悪臭のためこの部屋の利用ができなかったでしょう。ごめんなさい。写真(上)はこのホテルで食べたドリアンです。この周りにある果物の名前はすっかり忘れました。
その後、2014年のマレーシア旅行の時キャメロン・ハイランドの屋台マーケットでドリアンを見つけました。ぜひ食べたいと思っていると、そこでドリアンを買い食べていた現地のマレーシア人夫妻が自分たちが購入して食べていたドリアンを食べなさいと勧めてくれました。感激して遠慮なく頂きました。写真下は旦那さんの撮影拒否で奥さんだけ。なお、この時も悪臭は全然ありませんでした。
以下「インドネシアを知るための50章」(p96~96)から
「インドネシアには、ドリアンを食べるために生きているという人が少なくない」
 「『ドリアンが落ちるとサロン(インドネシアの腰巻)が上がる』といわれているほど強精作用あることも周知の事実である」
 この「落ちる→上がる」はその時の旅行中に確認したしましたが、誰でも知っている話のようでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「海外で出会った日本」編19 カンボジア2 アンコールワット2

2007年03月26日 09時56分54秒 | カンボジア

  ついでにアンコール遺跡の写真を一枚紹介しておきます。遺跡に大木が大蛇のごとくドぐろを巻いています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「海外で出会った日本」編18 カンボジア1 アンコールワット1

2007年03月26日 09時52分32秒 | カンボジア

 アンコールワットはあまりにも有名な世界文化遺産ですが、その参道脇にあった掲示板がこの写真なのです。そうなんです、この遺跡の保存、修復に重要な役割を果たした人物が現上智大学学長石澤良昭さんです。ごく最近NHK教育テレビでポル・ポト政権以前から現在に至る44年間の石澤さんとこの遺跡の保存、修復についての番組が放映されました。(1時間30分?)その中で感動的だったのは「現地の人たちの美意識によって保存、修復」という言葉でした。

 以下、「アンコールと生きる」という写真展に後援者としての石澤さんの言葉がインターネット上に公開されているのでつまみ食い的に紹介しておきます。全文は「後援者の声:石澤良昭上智大学学長」をご覧ください。

 「アンコール・ワットをはじめ、これらの文化遺産はカンボジア民族の誇りと伝統の象徴である。その保存修復と維持は、そこに住む人たちの手でなされることが必要である。この民族の固有な文化遺産を世界に向かって説明できるのは、誰よりも現地に暮らすカンボジアの人々である。しかしながらカンボジアではポル・ポト政権の時代(1975-79)に遺跡の保存修復の専門家36名がほとんど不慮の死に追いやられた。 私たちがこれまでの経験から得た結論は、「カンボジア人による、カンボジア人のための、カンボジアの遺跡保存修復」が必要であるということである。」

 なお、ポル・ポト時代については、2005年12月21日、23日にすこし触れているので参照ください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする