1886に建てられたヴィクトリア様式の館メルローズ・ハウスです。ここでボーア戦争の停戦協定が結ばれところでナショナル・モニュメントになっています。
ツブヤキ
最近、安部総理の真珠湾訪問で「慰霊」という言葉が飛び交っていますが、和英辞典を引くと”remember”とありました。英字新聞なのではどう書かれているのでしょうね。
1886に建てられたヴィクトリア様式の館メルローズ・ハウスです。ここでボーア戦争の停戦協定が結ばれところでナショナル・モニュメントになっています。
ツブヤキ
最近、安部総理の真珠湾訪問で「慰霊」という言葉が飛び交っていますが、和英辞典を引くと”remember”とありました。英字新聞なのではどう書かれているのでしょうね。
プレトリアの中心にあるチャーチ・スクエアーにポール・クルーガ(1825~1904)の像がありました。彼はボーア人で幼い頃グレートトレッカーに参加しました。その後原住民国家を侵略してできたボーア人のトランスバール共和国の大統領になりました。そしてイギリスとのボーア戦争で活躍し敗れてスイスに亡命しそこで没しました。ボーア人にとっての英雄です。
ボーア人は、オランダ系移住民の子孫で17世紀末に本国から極貧生活を逃れて、約600人がケープタウンに上陸したのが始まりです。ボーアはオランダ語で農民を意味しますが、彼ら自身はボーア人と呼ばれるのを嫌い、アフリカーナと自称し其の言語をアフリカンスと呼びます。なおこれらのことについては2007年11月12日と2009年10月26日に少し詳しく紹介しています。
その後ボーア人の人口は年々増加していきますが19世紀にナポレオン戦争が起きこの地をイギリスが支配するようになり、ボーア人は北方へ大移動をすることになります。それがグレートトッレカーと呼ばれそれを記念してこの記念碑が作られます。グレートトッレカーは無人の地を行ったのでないことを忘れてはなりません。原住民の地の侵略であったことを。しかし南アフリカの悪名高い人種差別政策アパルトヘイト時代には白人の英雄的行動としてこのような記念館が作られたのです。したがって現在黒人がここに来ることはないそうです。しかしこのような記念堂がいまだに観光地として残されているのはマンデラの寛容の政策のような気がしました。
その後イギリスとボーア人との戦いボーア戦争(1899~1902)が始まりイギリスの勝利に終わります。其のことで前回紹介のユニオンビルの左右対称が作られことになったのです。
すでに紹介したようにプレトリアは南アフリカの行政上の首都ですが其の行政機関の中枢がこのユニオンビルです。1910年建設です。左右対称はイギリス人とボーア人融合の象徴です。(イギリス人とボーア人の関係については次回紹介の予定)1994年全民族参加の初の国家議会選挙で選出されたマンデラが演説したところでもあります。
プレトリアは南アフリカの行政上の首都です。(名前の由来と現在は名前が変更になっていることについては2007年11月12日に紹介しています。旅行時にはまだ変更されていなかったのでプレトリアをそのまま用います)
この市は別名ジャカランダ・シティと呼ばれるほど春は(南半球なので10月)ジャカランダが咲き誇ります。われわれの旅行もこの時機に合わせて設定されているようでジャカランダを満喫しました。このジャカランダはもともとは南米原産で1888にオランダ系住民ボーア人がブラジルから持ち帰り自宅に植えたのが始まりです。其の原木は今も健在でした。(写真)
この石柱がなにを意味しているかの説明があったようですが忘れました。1500年頃にはこのグレートジンバブエは衰退していきます。その原因にはいろいろ説はあるようですが「なぜ没落したのか、知るよしもない」は「新書アフリカ史」(p108)です。