モザイクもありました。
ヘロデ大王はキリスト教徒にとっては大悪人とされています。イエスがダビデの後裔として生まれ次期の王を狙うという話を聞きこの地の2歳以下の幼児を殺します。このときイエスのお父さんヨセフとお母さんマリアと3人でエジプトに逃れるという話がマタイに書かれています。この話は歴史的事実ではないというのが通説です。このときの模様を描いた絵画を美術館で見ることがあります。このときだけですね、お父さんのヨセフを見ることができるのは。
モザイクもありました。
ヘロデ大王はキリスト教徒にとっては大悪人とされています。イエスがダビデの後裔として生まれ次期の王を狙うという話を聞きこの地の2歳以下の幼児を殺します。このときイエスのお父さんヨセフとお母さんマリアと3人でエジプトに逃れるという話がマタイに書かれています。この話は歴史的事実ではないというのが通説です。このときの模様を描いた絵画を美術館で見ることがあります。このときだけですね、お父さんのヨセフを見ることができるのは。
ダビデの時代から一気に時代を900年くらい下りヘロデ大王(在位紀元前37年~紀元前4年)の時代の遺跡の紹介に移ります。この当時イスラエルは事実上古代ローマ帝国の支配下に置かれます。ヘロデ大王は国内の政争に敗れローマに逃れローマの支援を受け国王になります。彼は建築魔であったようで各地にローマ風の建築物を造ります。その代表的なものが、人工港湾都市カイザイアです。カイザリアという名前はヘロデ政権の性格をもろに表したローマ皇帝アウグストス・カエサルに由来します。ローマ風の建造物といえば、円形劇場です。やはりありました。
このお墓の近くの城壁にダビデの門があります(シモンの門とも)。もともとこの地はヨルダン領でしたが、たびたびの戦争で現在イスラエルの支配地になっています。そのため写真をよくご覧ください、無数の銃弾跡が見えます。
ダビデは南北に分かれていたユダヤ部族を統一し、先住民エブス人の居住地エルサレムを侵略、征服し首都を置きました。イスラエル政府はエルサレム征服を紀元前1003年として1997年に聖都3000年祭を催しています。というわけでエルサレムにはダビデの墓とされるものがあります。
エラの谷で名声を得たダビデは初代国王サウルの嫉妬をかい7年6カ月の流浪の旅に出ます。その時に隠れていたとされるところがエン・ゲティで現在国立公園になっています。沢山洞窟がありますね。どの洞窟に隠れていたのでしょうね。
ダビデはミケランジェロのダビデ像で日本でもよく知られていますが、ユダヤ教徒にもキリスト教徒にとっても重要な人物です。彼はイスラエル王国の2代目の国王(紀元前10世紀)ですがユダヤ教のシンボルである「ダビデの星」は彼の名前に由来しています(ただし異説あり)。
キリスト教にとってはイエスのお父さんヨセフがダビデの後裔とされ、イエスはダビデの息子と呼ばれています(マタイ1章).
前々回に紹介したようにユダヤ人はエリコなどを武力制圧しながら(注)この地にイスラエル王国を作りその二代目の王がダビデというわけです。まだ少年であった彼が名を揚げたのは北方からこの地に入った鉄器を持つ先進文明人ペリシテ人(パレスチナの語源)のゴリアテとの戦いでした。この話は神話ですが、ゴリアテの剣に対してダビデが投石で対抗し、最後はゴリアテの剣を奪いその剣で止めを刺すとういう旧約聖書(サムエル記1、17章)の記述は歴史的事実を反映していると思います。
写真はダビデとゴリアテが戦ったとされるエラの谷です。
Fengdanさんいつもコメント有難うございます。「過ぎ越し祭り」のときの無酵母のパンには特別の味はついてはいませんでした。乾パンといったほうがよかったかな
(注)前々回紹介したユダヤ人のパレスチナ侵入は旧約聖書に基づく話ですが、歴史的事実としてはいろいろ説があるようです。興味のある方は山我哲雄「聖書時代史 旧約篇 第3章」をご覧ください。。
写真は城壁付近の発掘現場です。このユダヤ人のエリコ攻撃に進軍ラッパとして用いられたという角笛が土産物として売られていました。買われた方もいらっしゃったようです。この角笛が吹かれた時エリコの城壁が崩れたとされています。
前回紹介したように、エリコはパレスチナ自治区にあります。したがってあいさつ言葉は「アッサラームアレイクイム」(原意は平和があなたにありますように。2006年12月5日をご覧ください)になります。ヘブライ語ではシャロームです。やはり「平和であるように」という意味です。サラーム=シャロームと語源が一緒です。江戸時代たびたびの飢饉に襲われた東北地方で「飯食ったか」というあいさつ言葉があるという話を聞いたことがあります。なんだか似ているような気がするのですが。
本題に戻ってエリコ(2010年3月15日の旅程図をご覧ください)ですが、ここは古代オリエントの中でも最も古い町で1万年前には周囲を壁で囲った集落が出現しています。今回の旅行はこのように遺跡巡りが大半だったので次回から時代順に紹介していきます。
さてこのエリコとユダヤ人との関係については以前(2006年6月2日)に紹介しています。それをあえて今回ここに再録します。
「旧約聖書申命記(38章48~50)には次のように書かれています。『エホバ(神)はモーゼに次のように言われた。{ネボ山に上りなさい。それはエリコ(英語読みではジェリコ)に面している。そして、わたしがイスラエルの子らの所有として与えるカナンの地(注)を見なさい。そしてあなたは、上っていくその山で死んで***}』
この話が歴史的事実なのか、あるいはどの程度歴史的真実を反映しているのかを、私は判断する学力も能力も待ちません。しかしユダヤ教徒、キリスト教徒の殆どの人は真実であると思っていることは確かのようです。ここには2つのことが書かれています。1つはエジプトで奴隷的存在であったイスラエルの民を率いて脱出さしたモーゼの終焉の地がここネボ山であることです。もう1つはネボ山からは神がイスラエルの民に与えたカナンの地がよく見えそして近くにはエリコの町があることです。
旧約聖書ヨシュア記によればその後モーゼの後を引き継いだヨシュアはエリコを手始めにカナン地帯を征服していきます。降伏した人たちを奴隷にし、抵抗する人を殺し、家に火を放って町中を焼け野原にします。ヨシュア記は世界で最初に神の意思による侵略戦争を記録した本です。私はこの神の意思による侵略戦争の思想は現代にまで続くユダヤ教徒、キリスト教徒に底流としてあるのではないかと思っています。たとえばアメリカ合州国がネイティヴアメリカン(インディアン)を殺しながら西部への領土拡大を、時の大統領Polkは「神の明白な意思」Manifest Destiny としています。今のブッシュ大統領はどうなんでしょうね。熱心なクリスチャンだそうですが。そして現在のパレスティナとイスラエルの紛争とネボ山との関連性は? と、いうような、曰く因縁があるネボ山に登りました。現在はヨルダン領土です。当日大気が靄っていて写真が不鮮明ですが、ネボ山からパレスティナ地方を見下ろした風景です。右手がエリコです。左手が死海、イスラエルです。真ん中にヨルダン川が流れているのですがよくわかりません」
(注)現在のパレスティナ地方
2006年6月2日の写真はネボ山からエリコを望んだものですが、今回はここエリコからネボ山方面を眺めたものです。
このブログの表題は「イスラエル」編としていたのですが、ここにきて重大な間違いをしていることに気付きました。それは「イスラエル」だけでなく「パレスチナ自治区」も訪問先であったからです。そこで今回より「イスラエルとパレスチナ」編とします。
イスラエルはユダヤ国家ですが、ユダヤ人以外でイスラエル国籍を持つ人たちも約20%程度います。彼らはアラブ人ですがパレスチナ人とも呼ばれます。ここではアラブ人としておきます。このイスラエル国内のアラブ人とユダヤ人との関係について今回の旅行で体験したエピソードを二つ紹介します。
イスラエルの国内をバスで移動をしていると、ところどころに周囲から孤立しているような集落に出会いします。ガイドの山崎さんがあれはアラブ人の集落ですと教えてくれます。そのようなとき山崎さんとバスの運転手(ユダヤ人)が何か熱心に話し始めました。山崎さんの話によればこのユダヤ人運転手は「間もなく、あそこにいるアラブ人を追い出してユダヤ人の居住区にする」と言っていたそうです。
この運転手さんはほぼ全行程の運転でしたが、最後の行程のエルサレムからテルテルアビブ空港まではアラブ人の運転手でした。空港に入る手前でかなり長くバスが止められました。それは運転手がアラブ人であるためその身分証明書をチェックするためでした。ユダヤ人の場合はフリーパスです。(注)
写真はアラブ人(パレスチナ人)の国「パレスチナ自治区」にあるエリコ(ジェリコ)に入るときに今までのバスから2台のジープに乗り換えるときの様子です。ガイドがユダヤ人の場合はパレスチナ人と交代です。山崎さんはイスラエル国籍所有者ですが交代しませんでした。その理由を企業秘密として話してくれませんでした。しかし彼はパレスチナにはかなり気を使っているようで心付けなどに気を使っているようでした。 もちろんイスラエル⇔パレスチナの出入りには厳しいチェックがありました。
(注) イスラエルは1948年の独立宣言では「ユダヤ国家」と規定し、ユダヤ人以外をいくつかの「民族」に分類してきましたが、現在の身分証明書はユダヤ人か非ユダヤ人かの区別になっています。
したがって、ホテルの食堂では無酵母のパンである写真のせんべいみたいなものが出されていました。
ユダヤ教の食べ物に関する戒律をコーセルといいますが、ついでに少し紹介しておきます。朝食にはミルク製品が出ますが昼、夜は出ません。ミルク類と肉類とを一緒に食べてはいけないという戒律があるからです。そして朝食に使用した食器類は昼、夜には出してはいけません。豚肉はイスラーム教徒と同じく禁止です。
ただし最近ではロシアからの移住者が豚肉を売り、食べるので例外規定の法律が出されたという話を新聞で見ました。また鱗のない魚もだめです。たとえばウナギですが、最近顕微鏡で見たら鱗があったということが分かり食用可能になって皆さん喜んで食べているという話はガイドの山崎さんです。