も一つ同じGlaoui dynastyが所有していたカスバを紹介します。映画「アラビアのロレンス」のロケにも使われました。
なお実際にロレンスが活躍したヨルダンのワディ・ラム砂漠は2007年6月10日~14日に紹介しています。
カスバは城塞で囲まれた要塞と紹介しましたが城塞で囲まれた領主の館、イギリスで言えばマナーハウスといったところだと思います。ここタウリルトのカスバは18世紀~20世紀にかけての領主であったグラウイ家の居城でした。この一家は20世紀初頭マラケシュの支配者で後のフランスの植民地時代にもフランス当局に重用されていました。Lonely planet では ” Glaui dynasty “(グラウイ王朝) 、カスバを” palace “(宮殿)と表記していることから見てもその豪華さがしのばれます。
ついでにモロッコの民族構成について紹介しておきます。公式の記録はありませんがアラブ系65%、ベルベル系35%とされています。ベルベル人とは北アフリカの先住民で基本的にはヨーロッパ人と同じコーカサイド系とされていますが不明な点が多くいろいろ人種が混血していて多分前ページの紹介の少年もベルベル人に分類されているのではないかと思います。2007年6月22日~7月2日(カレンダーをクリックしてください)にかけて紹介したトゥアレグ人もこのベルベル人の中に分類されています。
アラブ系は後にアラビア方面からやっていた人たちです。
なおベルベルとはギリシャ語のバルバロイ(分からない言葉を話す)に由来し英語のバーバリアン(野蛮人)の語源も同じです。ヨーロッパ中世の偉大な神学者、哲学者アウグスチヌスはベルベル人と言われています。
写真は現地ガイドのサラームさんですが、彼に「アラブ?ベルベル?」と尋ねたところ「ボス(both)両方」という返事が返って来ました。も一人の現地ガイドのラシードさんに同じ質問をすると「ミックス」という返事でした。その他幾人かの人に同じ質問をしましたがほとんどの人が同じような答えでした。というわけでかなり混血が進みアラブ、ベルベルの区別はなくなってきているようでした。
伊藤小夜子さんへ。
ブータンへは西遊旅行社で来年の4月2日~4月16日の予定です。ご一緒 しませんか。12名限定ということなので申込金はすでに支払いました。
カスバ街道の最初の紹介のときに「昔は南のブラックアフリカと北アフリカを繋ぐ重要な通商路でした」と書きました。その関係でしょう、モロッコ人の多くは色白(私に比べれば)ですが、この街道ではブラックアフリカ系の血を引くと思われる黒めの人々によく出会いました。この少年もこの街道で出会いました。
私たちにはナツメヤシの実は大変美味しいスィーツです。お土産に(殆ど自分用の)たくさん買い込みました。
伊藤小夜子さんコメントありがとうございました。同じものを見ても、経験しても、違って見えるものですね。私は客観的なものをできるだけ主観的(主体的)に見ようと努力はしているつもりですがなかなかうまくいきません。虫の名前は?知りません。
前回、前々回のパキスタン、イランでは観光客が閑古鳥だったのですが、今回のモロッコは同じイスラーム圏ですが、都会のラッシュアワー並の人ごみでした。旧宗主国のフランス、スペインなどからの観光客で混雑していました。そのなかで気がついたのですが、イスラエル(イズラエルが国際語のようですが)からの観光客が多かったようです。ここカナートでもイスラエルの団体さんと一緒でした。
写真はイスラエルの元気のよいオバちゃんたちです。モロッコとユダヤ人の関係、観光客にイスラエル人が多い理由などについては後日紹介の予定です。
エルフードからまもなくのところでカナート(モロッコではレタラ)に出会いました。カナートとは中国タクラマカン砂漠(後日「中国シルクロード」編で紹介の予定)、西アジア、北アフリカ乾燥地帯などで行われる地下導水設備です。一般には20m~30mの間隔で竪坑が掘られます。写真の土塁のようなものの地下に用水が流れています。写真の水揚げ場のようなものが竪坑で、中の地下道の整備のためにあります。但しここは観光用のようでした。
ここで一人の女性に出会いました。この地はベルベル人が多く住むところなので多分彼女もベルベル人だと思われます。良く知られているようにイスラームの特に農村の女性は写真を撮られることを嫌うので、この写真は私には貴重な一枚になりました。