9月10日に「おんぼ岬」の地名由来を紹介しましたが、籠港沖で難破した遣唐使船の乗組員121人のうち生き残りの5人が絶壁を命からがらこの場所に登ってきました。半死半生でしたが、島民の看病で回復しました。後に高田根麻呂という人を祭って建てられた神社です。
『日本書紀』には白雉4年(653)に「秋七月に、大唐に遣さるる使人高田根麻呂等、薩摩の曲・竹嶋の間に、船合りて没死りぬ。唯五人のみ有りて、胸に一板を繋けてい、竹嶋に流れ遇れり。***竹を採りて筏に為りて****是に、金を褒美めて、位を進めて、禄給ふ」(岩波書店 日本古典文学大系「日本書紀」の読み下し文)と記されています。竹の筏とはやはり当時から竹の島だったのですね。
なお、大山神社の名前は高田根麻呂の位が冠位19冠の12番目の大山下の位の名前からとったものです。
この竹島での石材を鹿児島の枕崎あたりに持ち込んで墓石にしたのではないかと考えられているそうです。竹島の石材は優良で硫黄島、黒島の墓石にもなっているそうです。
サンスクリット文字が刻まれていたお墓がありました。
「『竹島のアンコールワット』と言われることもある、樹にのみこまれた墓はかなりの迫力です。その周りには他では見られない珍しい彫刻が施されている墓があります。一見の価値あり!」
三島村ホウムペイジの一文です。アンコールワットとは、ちょっと言いすぎ、不遜な感じもしますが。それはそれで!
このような掲示板に出会いました。「三島村誌」によって少し補充しておきます。竹島には、むかし井戸を掘った跡はなく、この「井がわ」が島民にとってただ一つ水源でした。したがってこの「井がわ」の上下に集落は集中し、現在に至るまで遠く分散した小集落・独立家屋はありません。水汲みは「しも」の人でも朝1時間、夕2時間を要しました。水汲みは女性の仕事で「この水運びのコツを覚えたら一人前の女としてあつかわれた」そうです。