1889年政府が此の「城塁」を撤去する方針を出しました。その時ゴールのあらゆる階層の人々から反対の声が上がり「城塁」は守られました。その後世界遺産に指定されました。写真は此の保存活動を主導したアンソニスを記念して立てられた時計台です。
スリランカ最後の観光地はゴールでした。(2015年11月21日地図参照)このブログにたびたび登場してもらっている岩倉使節団(1871年~1873年)はスエズ運河を通りこのゴールに立ち寄り帰国しています。その記録「米欧回覧実記」(2007年3月18日紹介)は以下のように記述しています。
「此港、元ハポルトガル(原文漢字)人ヨリ占領シテ、埠頭トセシヲ、ホルランド国(オランダ 原文漢字)ヨリ取リ、千六百六十五年ニ、城塁ヲ造リテ、***千七百九十五年ノ頃***英人ハ因テ兵をヲ労セスシテ、此地ヲ取リ、此ヨリ其所属地ニウツリ、元『ゴール』市ハ、此塁内ノミナリシニ、今ハ塁外ニ溢レテ、***人口ハスベテ一万五千二百八十九人アリ、内二百三十七人ヲ欧州人トス」(岩波文庫「米欧回覧実記五」p283~284)
ちょっと話題が外れますが、以前このブログで(2016年5月11日)「スリランカでは物貰い(乞食)には出会いませんでした。路上での物売りには出会いましたが、成年男子だけで子供、女子はいませんでした」と書いています.
ところが此の「米欧回覧実記」(p288)では「村々ノ童幼、客ヲ認ムレハ、集テ銭ヲ貰ヒ、テントシテ恥ナク」とあります。
というわけでゴールは植民地港湾都市として発展してきました。今も異国情緒が色濃く残る都市で観光もそういったところをめぐりました。
写真は「米欧回覧実記」の言う「城塁」の一つ「サン保塁跡」です。