ウクライナのリヴィウのジョルジュホテルで指定された部屋に入ろうとすると写真のようなプレートが目につきました。フランスの小説家バルザック(1799~1850)がこのホテルに泊まりこの部屋を気に入ったと書いてあるのにビックリしました。
私は小説をあまり読まない方ですが、なぜかバルザックが好きで東京創元社「バルザック全集26巻」を購入して夢中で読んだ青春後期がありました。今は手元にはありませんが確かピンク色のクロスの表紙だったように記憶しています。
というわけで青春後期への思い出に「ミーハー」の嬉しいホテルの2泊でした。
この戦争時に兵士の看護、衛生管理などで活躍したのがかの有名なナイチンゲールでした。この活躍に感銘を受けたスイス人のデュナンが赤十字の創設を提唱することになります。ナイチンゲール自身は赤十字には参加しませんでしたが、彼女の活動が赤十字の発足に寄与したことは間違いないようです。現在は写真のように平和な市民の憩いの場所になっていました。
クリミア戦争(1853年~56年)はロシアの南下政策を阻止しようとしてイギリス、フランス、トルコが戦った戦争です。その最も激戦地であったのがクリミア半島のセヴァストーポリでした。その時の沈没船の記念碑がありました。
下からです。
佐藤さん沢山ご覧いただきありがとうございます。ドイツへお出かけとのことですね。すでにご覧頂いているかもしれませんが、ぜひ2007年3月16日、18日をご覧ください。ご覧いただければお分かりのようにどちらの写真も古いフィルムでボケています。できればきれいで鮮明な写真をと思っています。もし現地に行かれて撮影されたならば厚かましいお願いですが、お送りいただけないでしょうか。
映画の歴史スポットとしてはオデッサのポチョムキン階段は超弩級です。
第一次ロシア革命の1905年オデッサで起きた戦艦ポチョムキンで起きた水兵の反乱をエイゼンシュタインが映画化(1925年)した「戦艦ポチョムキン」の有名なスポットがポチョムキン階段です。
またも「他人の褌で相撲を取る」類で申し訳ありませんが、前回、紹介した朝日新聞記者伊藤千尋氏の一文をまた引用させていただきます。
「(モンタージュ手法の―私注)画面で名高いのは『映画史上最も有名な6分間』だ。反乱を起こした水兵に呼応する市民に向けて、皇帝の兵士が発砲する。銃を撃ちながら整然と階段を下る兵士、逃げまどう市民、母の手を離れた乳母車が赤ん坊を乗せたまま階段を落ちていく」
伊藤氏はこの階段に出会った感動を次のように書いています・
「映画を見た学生時代に、いつかはこの階段を歩こうと思った。それから40年以上。2日間の滞在中に10回も、上がっては下りをくり返した」
写真は上から見たもの。
第二次世界大戦中ウクライナのオデッサは1941年8月にナチス・ドイツに攻撃され73日間抵抗しますが10月に陥落し、その後地下に潜ってのレジスタンスが続きます。その地下が文字通り地下でした。300万年前にできたカルスト地形のオデッサは地下に広大な洞窟がありその後人間による石灰岩の採掘などにより総延長2500kmの地下通路になっていました。(この数字は現地のガイドとここの案内パンフレット。地球の歩き方では1000km。後記の伊藤氏によれば3000km)3000kmとすれば北海道~沖縄の距離です。オデッサの町の下は洞窟だらけなので高層ビルは建てることはできないそうです。此の洞窟で1500人パルチザン兵士と2000人の市民の抵抗運動が始まります。ここの現地ガイドによれば病人は無く少しの怪我人くらいで意気高く抵抗を続けたが最後は内部から裏切りが出て崩壊するに至ったということでした。
ところが日本に帰って「週刊金曜日5月18日」を見ると朝日新聞記者伊藤千尋氏のオデッサのルポがありかなり違ったことが書かれていました。そこでその一部を紹介します。
「彼らはここに3年間も住み続けた。外に出るのは夜だけ。悪臭と湿気のためリューマチや気管支炎になり、肌は灰色に変化した。暗闇の中での生活は精神に異常をきたす。ナチスの兵士が侵入しないかと監視するのは20分交代だ。それ以上監視を続けると気が狂ったという。1500人がここに入ったが、生き延びたのはわずか20人にすぎない」
案内のパンフレットにもただパルチザン兵士は勇敢に戦ったという話のみでこの間の経緯についての記載がありませんでした。
真相は?
写真は洞窟内の射撃訓練所ですね。ナチスのシンボルマークハーケンクロイツが見えます。
実は今はこの地は1941年のナチス・ドイツの攻撃を1カ月間耐えた要塞と言うことで有名のようで要塞公園として残されており写真のようなモニュメントがあり広大な広場に要塞博物館もありました。条約が締結された「白亜館」はこのナチス・ドイツの攻撃の時破壊されました。旅行社のパンフレットにもブレスト・リトフスク条約の締結の場所としての案内もありませんし、私が質問しなければ現地ガイドの前項のプレートの指示もなかったかもしれません。
第一世界大戦の終わり近くロシアでは革命が起きロマノフ王朝は崩壊しソヴィエト政権が成立します。革命政権は政権維持のためドイツ側とかなり不利な条件での単独講和を余儀なくされます。その講和条約が結ばれたところが現在のベラルーシのブレストで1918年のことでした。そこでこの条約のことをブレスト・リトフスク条約と呼ばれています。その場所は本来修道院として建てられたもので「白亜館」と呼ばれていました。現在は写真のように廃墟になっています。
写真を見てナンジャコレハと思われるでしょうが、じつはバスの窓から見える赤い屋根のようなものがウクライナのフォロスにあった当時のゴルバチョフ大統領の別荘で1991年反対派によってここに軟禁されクーデタが起きたところです。此のクーデタは失敗に終わりますが、これが契機になりソ連邦と共産党は崩壊します。ということで世界史的にもロシアにとっても重要な場所です。
残念ながらこのような写真になった理由は道路が高速で車は停車も徐行もしないので事前に教えてもらっていたにもかかわらず私の運動神経の鈍さのためこのような次第にあい成りました。この別荘を完全に写真に収めた人もいましたが。海は黒海です。