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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「ツアーコースにない所」韓国5 李舜臣

2024年04月28日 07時53分58秒 | ツアーコースにないところ
 
 前回は女子生徒の人気ナンバーワンの柳寛順ユグアンスンを紹介しましたが、今回は男子生徒のナンバーワンの李舜臣の紹介です。
釜山の龍頭山公園に彼の銅像があることを司馬遼太郎の著書に書かれていたのでツアーコースになかったのですが行きたいと思いました。ツアーコースにはなかったのでおねがいしました。いったんは拒否されましたが、結局行きことになりました。時間的余裕は充分でした。ここを訪れてもその日のホテル到着は午後4時頃でした。
  銅像の足元に日本語による李舜臣の業績の説明がありました。次のように書かれています。
「この銅像は朝鮮時代に起きた壬辰倭乱(文禄・慶長の役)で、危機に瀕した国を救った、救国と忠節の象徴である忠武公李舜臣(1545年~1598年)将軍を称えるために1955年に建てられたものである。李舜臣将軍は1592年、壬辰倭乱が勃発すると、南海岸に侵入した倭軍に対して連戦連勝をし、制海権を完全に掌握した。文章にも優れ、乱中日記や時調においても不朽の名作を残している。釜山市は1980年9月、将軍の救国・忠節精神を称えようと、釜山浦海戦で勝利した10月5日を釜山市民の日に指定した」

「韓のくに紀行」(司馬遼太郎著)は以下のように記述しています。
明治38年日露戦争の日本海海戦が始まる時「水雷指令だった川田功という少佐の文章によると、李舜臣将軍の霊に祈った、とある。その文章をかりると、『***当然、世界一の海将たる朝鮮の李舜臣を連想させずにはおかなかった。かれの人格、かれの戦術、かれの発明、かれの統御の才、かれの謀、かれの男、一つとして賞賛に値せざるものない』」(p50)
 「韓のくに紀行」はまた以下のように書いています。
 「帰国してから調べてみると、迂闊なことにこの龍頭山はなんと対馬藩の倭館の構内だったことを知った。李舜臣の銅像がそびえている場所に、対馬藩が屋敷神としてたてた金毘羅宮があった(以下略)」(p51)
 この倭館は「草梁倭館と呼ばれ江戸時代に日本が海外においた唯一の公館で、敷地面積は10万坪を越す誇大なもの(中略)館内には3000人(500人説もあり「日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史」p149)を超す日本人が住んでいた」(観光コースでない韓国p141)
 現地ガイドは李舜臣の業績を含めてこれらのことに一切触れませんでした。
 ソウルにも高層ビルにかこまれた世宗路に李舜臣の像がありました。李舜臣の像は全国で300以上あるそうです。現地ガイドは李舜臣についてほとんど何も説明しなので、李舜臣という人はどんなことをした人ですかと私に尋ねた同行の人がいました。しかし、同時に現地ガイドは唐突に「先年李舜臣のドラマが韓国で放映され大評判になり李舜臣にふんした役者は一躍スターになりました。しかし日本のNHKは絶対に放映しないでしょう」と、話をしてくれました。この発言が今回のパゴダ公園、李舜臣外しなどの根底にあるように思いました。李舜臣についてよくご存じのない同行の人が私にその理由について尋ねたので一応の説明をしたところ「ああそれで」と私に話してくれました。
  李舜臣が率いた軍艦は亀甲船コプクソンと言われています。鎮海チネの軍港祭りで見ることができました。「日韓歴史共通教材 日韓歴史交流の歴史」(注)は「(前略)亀甲船は、李舜臣が1592年3月全羅左水營で作ったものである。当時の朝鮮の主力軍船の内、最も小さい船で、錐を打ち込んだ屋根で覆った鉄甲船の構造をしている。125人程度が乗船でき、船の前後左右14か所に大砲を積み、敵船に突撃する船で、唐浦海戦、閑山海戦などで大きな威力を発揮した」(p132)と説明しています。
 (注)日本の歴史教育研究会と韓国の歴史教科書研究会が、1997年から10年間にわたる共同作業で作られた本です。
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「ツアーコースにない所」韓国4 柳寛順ユグアンスン

2024年04月25日 07時53分48秒 | ツアーコースにないところ

少し古い記録ですが、1993年の朝鮮日報紙に淑明女子大学のキム・クアナン教授の「尊敬する歴史上の人物」というテーマで国民学校から高等学校までの生徒1800名に対するアンケート調査の結果が載せられました。
 男子生徒 
1李舜臣 2世宗大王セジョン(朝鮮王朝4代の名君で作りハングルを作りました)3エディソン 4シュバイツアー 5リンカーン

女子生徒
 1柳寛順ユグアンスン 2世宗大王 3ヘレン・ケラー 4シュバイツアー 5李舜臣
(「ある日韓歴史の旅」竹国友康著、朝日選書p216より)
ここで注目していただきたいのは韓国人の名前が3人ですがそのうち2名までが日本の侵略に抵抗した人であることです。
 皆さん、女子生徒がトップに挙げた柳寛順をご存じですか。韓国のジャンヌダルクとも呼ばれています。
 以下柳寛順ユグアンスンについての記述は主に「観光コースでない韓国」(高文研)によります。
 天安(扶余と水原華城の中間点にあります)で生まれた彼女は1919年3月1日当時ソウルの梨花学堂(名門梨花女子大学の前身)3年生16歳でした。同級生たちと小遣いを出し合って太極旗を作りデモに参加する準備をしていましたが学校側は参加を禁止し、キャンパスから出ることができませんでした。学校は休校になりました。彼女は故郷に帰り地元の有力者と相談して旧暦の3月1日にあたる4月1日を蜂起の日と決めます。当日数千人のひとが集まり「独立宣言」が朗読され、続いて柳寛順は次のように訴えました。
 「我々は四千年の輝かしい歴史をもつ独立国家の民です。しかし、倭奴の弾圧を受け国を失い10年の歳月を圧迫されてきましたが、今回フランスのパリで開かれた講和会議で世界弱小民族に自由と解放が与えられようとしています。海外の我が革命家は代表キムキュシク博士を送って我々の願いを世界に訴えています。この時我々が黙っていていいのでしょうか。去る3月1日ソウルで我々は堂々たる自主独立国家であることを宣言し、独立万歳の叫びは三千里の村々にかけることなく伝わっています。我々が脱落していいものでしょうか。みなさん我々も独立をかちとるための万歳を叫びましょう」
 この集会は日本の憲兵に弾圧され彼女の両親は虐殺されました。彼女自身は逮捕されソウルの西大門刑務所に送られ拷問を受け獄死します。現在この刑務所は歴史館(次々回紹介予定)として保存されています。冒頭の写真はこの歴史館にあった彼女です。最後の言葉は「日本は必ず滅びる」だったと言われています。韓国の小学校の教科書は10ページにわたって彼女を取り上げています。
 彼女の生家(記念館になっています)は天安にあります。今回のツアーコースから少し横にそれれば訪問可能だと思い、お願いしましたが拒否されました。時間的にも十分可能だと思ったのですが。韓国人の愛国心に期待した私が馬鹿でした。
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「ツアーコースにない所」韓国3パゴダ(タブコル)公園 

2024年04月22日 07時54分01秒 | ツアーコースにないところ

 意図的に削除されと思われる代表的な場所がソウルにあるパゴダ(タブコル)公園です。ソウルの仁寺洞(インサンドン)商店街の隣り合わせにパゴダ公園があります。この商店街には1時間以上の散策の時間を与えながら、パゴダ公園への案内にはありませんでした。
 1910年に日本は韓国を併合しました。
 「1919年3月1日(中略)民族代表者33名の名前で独立宣言を発表(中略)ソウルではタプコル(パゴダ)公園に集まった各級学校学生と市民が市街地に出て万歳示威を(中略)」大極旗の波と大韓独立万歳を叫ぶ声全国に***日帝は憲兵警察はもちろん、陸海軍まで緊急出動させた。平和的な示威によって正当な要求を主張したわが民族は、無差別の銃撃によって殺傷**」(国定韓国高等学校歴史教科書日本語版1996年版p405~406)
 もちろん日本の歴史教科書にも記述はあります。
 「1919年3月1日、ソウルで宗教・文化界の名士数十名による『独立宣言』を発表し、学生・市民を中心に『独立万歳』トンニンマンセをさけぶ示威行動をおこなった。独立運動は軍事弾圧を受けながら全国に広がった」(実教出版高校世界史Bp180)
 「三・一運動が集中的に展開された三月、四月の二カ月間、当時の朝鮮の人口の一〇%以上にあたる二百万人が参加し****武力弾圧により7509人が死亡した」(韓国の歴史を知るための66章p264)
 そうなんです、パゴダ広場は日本からの独立運動の発祥地なんです。何故、この場所への案内がないのですか。
 私は有り余る買い物時間を利用してパゴダ公園に行きました。パゴダ公園には「我々はここにわが朝鮮が独立国ということと、朝鮮人が自由民であることを宣言する」に始まる独立宣言が現在の日本の漢字と仮名表記と同じように漢字とハングル文字で書かれています。 英訳された独立宣言はありますが、なぜか日本語訳がありません。さみしくなりました。よく見れば隣接する商店街には日本人観光客で溢れかえっていましたが、ここには日本人は私をのぞいて一人もいませんでした。悲しくなりました。
 現地ガイドとのトラブルで現地手配会社、韓飛旅行社の常務理事の高さんと話をしていた時、彼は「日本人は3・1運動なんか知りませんよ」といいました。日本人として、はずかしく思いながら一方では、何故韓国人は、現地手配会社は、積極的に3・1運動、パゴダ公園を日本人に紹介しようとしないのかと不満と寂しさ悲しさを感じていました。そして日本の旅行会社にも。
 日本人の一人として言っておきたいことは日本には前述のように高等学校の歴史教科書にも3・1運動についての記載があります。また韓国からも批判を浴びているかの悪名高い扶桑社の中学校用歴史教科書「新しい歴史教科書」ですら3・1運動との名前こそありませんが「日本は韓国内の反対を、武力で抑えて併合を断行した。(中略)民族の独立を失うことへのはげしい抵抗がおこり、その後も、独立回復の運動が根強く行われた」(市販本 新しい歴史教科書2001年版p240)と書いています。
  子供連れの夫婦が子供たちに独立宣言の前で説明をしている光景に出会いました
 この公園には各地で日本の官憲に抵抗する民衆の姿を描いた10枚の銅板レリーフがありました。
 写真は1919年3月1日午後2時パゴダ公園のチョン・チェヨンの独立宣言書朗読の場面です。
   1919年3月23日、はるか遠い済州島でも群衆や学生たちが共にたち、万歳を叫びました。彼らは、丸腰で走り出て日本警察の恐ろしい銃剣と戦い血を流しながら行進を続け、ただ一人も屈することがなかった場面が描かれていました。
 韓国のジャンヌダルクといわれている柳寛順ユグアンスンの勇姿もありました。彼女については次回紹介します。
 この場所で柳寛順、3・1運動について現地ガイドから熱く語ってもらいたかったですね。そのことによって不快感を覚える日本人はいません。もしいたとしても全くの少数で、むしろ日本人の蒙を開くことの意義の方が大きいと思います。観光業の妨げにもなりません。もし観光業の妨げになると現地手配会社や日本の旅行業者が考えていたとすればそれは大きな間違いです。
私の手元に2003年度版と2009年度版の日本人観光客向けの韓国観光公社の発行したガイドブックがあります。2003年度版にはこの公園の紹介がありますが、なぜか2009年度版では見当たりません。何故ですかね
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「ツアーコースにない所」 韓国2  景福宮キョンポックン 明成皇后殺害現場

2024年04月19日 07時54分52秒 | ツアーコースにないところ

 景福宮は朝鮮王朝をおこした李成桂(太宗)(在位1392年~1408年)が1394年に建てた王宮です。1592年の文禄の役(韓国では壬辰倭乱)で破壊、1865年再建されました。1895年国王の妃、明成皇后(閔妃)がこの宮殿で日本によって暗殺されました。当時日本とロシアは朝鮮への影響をめぐって互いに対立していました。(結果は日露戦争)その時日本は明成皇后を親ロシアとみなし日本の駐韓公使三浦梧楼の指示を受けた人たちがこの宮殿の坤寧閣に乱入し虐殺しました。
 「日韓交流の歴史」は「より深くするために」で以下のように記述しています。
 「明成皇后殺害事件の重要性を学んでほしい。日本の朝鮮侵略は、日露戦争から本格化するが、その前に高宗国王の后を王宮内で殺害するという重大事件を起こしている。この事件は、日本の公使が関与していた点が重要で、さらに実行した人物が全員無罪となったという異常な事実も見逃せない」(p386)
 三浦梧楼はその後枢密顧問官、宮中顧問官などの要職に就きます。
 その殺害現場に碑があるというのでこの宮殿の敷地内を探しました。ところがこの敷地は広大で方向音痴の私は迷子の状態になりました。キョロキョロしているとある建物の前で家族を案内していたお父さん(またはガイド?)のミョンソン(明成)という言葉が聞こえました。どうやらここがそのようです。坤寧閣という字が見えました。間違いありません。こ
の写真では見にくいですが左上にあります。
 ところが、ガイドブックにも記載されている明成皇后殺害現場追悼碑を示すようなものは何も見当たりません。最近この辺りが改装されたそうでその際どうやらここにあった碑が撤去されたようです。何故ですかね。
 そこで小さい写真ですが岩波ジュニア新書「ソウルで学ぼう」に掲載されているのを思い出し岩波書店に連絡したところ幸い転載を快諾していただきました。それがこの写真です。私のコピー機では拡大ができなく(操作がわからない?)このような小さい画面になりました。
 もう一度繰り返します。何故この碑が撤去されたのですかね。日帝による明成皇后殺害という歴史的事実を韓国は消したいのですかね
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「ツアーコースにない所」韓国1 安重根義士記念館

2024年04月16日 07時54分14秒 | ツアーコースにないところ

韓国旅行(2011年)は10日間という比較的長いパックツアーでしたが、韓国と日本との関係を示すところにはほとんど案内されませんでした。意図的にそのような歴史的な場所への観光は削除されているようでした。そこで旅行最終日の38度線の観光をキャンセルしてこうしたところを訪れました。そのいくつかを紹介します。
 まずは前回紹介した安重根のソウルにある記念館です。
安重根義士記念館については現地手配会社の高さんは「今後とも日本人のツアーコースには絶対に入らないでしょう。なぜならば安重根は韓国では国民的英雄だが、日本ではと、ここで言い淀みました」。そこで私が続けて「日本ではテロリストですか?(私がそう考えているのではありません)と尋ねましたが、答えは返ってきませんでした。
さてホテルでタクシーの手配を頼みました。ところが驚いたことにホテルの人は安重根義士記念館は知ってはいるが場所を知らないのでガイドブックを見せてくれとの話です。ホテルの前に駐車していたタクシーにホテルマンが話をしてくれました。これまた驚いたことにタクシーも知らないのです。ようやく知っているタクシーを見つけ出発しました。
1905年韓国を保護国にする乙巳条約を強要したときの責任者でありその後この条約によって設置された統監府の初代統監になった伊藤博文を日本に抵抗する義兵闘争をしていた安重根は1909年10月26日ハルビンで射殺しました。
安重根は伊藤博文の罪悪15カ条をあげ義挙の理由を以下のように述べています。
「私が伊藤を殺害したのは韓国独立戦争の一部であり、また私が日本の法廷に立つようになったのも戦争に敗れて捕虜になったからである。私は個人の資格でこのことを決行し
たのではない。韓国義勇軍参謀中将の資格で祖国の独立と東洋平和の為に実行したのであるから『万国公法』によって処理すべきである」
このように彼は今でいうテロリストではないと主張しています。
1910年2月5日死刑判決、3月26日死刑執行」
その彼を記念する安重根義士記念館が1970年造られました。写真は記念館の前にある銅像です。(キャプション)安重根銅像
安重根は1879年生まれ、1894年結婚、1897年カトリックに入信、1908年抗日義兵に参加、義兵戦争に敗れ1909年断指同盟を結成します。
抗日義兵とは、朴殷植はその著「韓国独立運動之血史」で以下のように定義しています。
「義兵は民軍である。国家有急のとき、ただちに義をもって起ち、朝令による徴発を待たずして従軍する適愾者である」
また、宮本正明氏は「1910年の『韓国併合』は、粘り強く継続された義兵闘争を徹底的な武力弾圧により圧殺するなかでなしとげられた」(東アジア近現代通史4)岩波書店 p317)と述べています。
断指同盟については写真の説明文をご覧ください。これは韓国の古い習慣で「弑逆の宣誓をあらわしています。(「週刊金曜日」825号鎌田慧「残夢」p53)
逮捕拘禁裁判をした日本の当局も安重根については一定の敬意をもって接していたようです。獄中では拷問もなかったようですし、死刑の判決後裁判官が上告を勧めてもいます。彼はそれを断ります。彼はまた獄中で自叙伝と東洋平和論を執筆していますが、裁判長はそれが完成するまで死刑執行を延期する処置を執っています。
彼の東洋平和論はヨーロッパの侵略に対して韓・日・中がお互い平等の立場で協力し共同で事にあたり東洋平和を守ろうと論じたものでした。
ちょっと余談噺になりますがでっち上げの大逆事件で幸徳秋水が逮捕された時(1910年5月)鞄の中に安重根の肖像写真がありそこに「安君一挙 天地皆振」と快哉の一句が書きつけられていました。(「週刊金曜日」852号鎌田慧「残夢」p52~53)
 彼の手形です。前記のように断指で薬指が短くなっています。(キャプション)安重根の手形
 彼は書が好きだったようです。彼の書が石に刻まれ記念館の入り口には沢山展示してありました。
 記念館の広場には自然石の記念碑がいくつかありました、これは1979年に誕生110年記念事業として建立した故朴正煕大統領の揮毫碑です。
 入館料は無料でしたが、来館者は少ないようで館内は閑散としていました。なぜか私には私の一挙手一投足を監視するように一人の女性がついて回りました。日本語も通じなくしたがって何の説明も案内もしません。ただ展示物の撮影の可、不可をやかましく指示しました。私の邪推かもしれませんが、日本人が何か展示物にいたずらをするのではないかと監視しているように感じました。館内には日本語を話す人は一人もいませんでしたが日本語のパンフレットはありました.
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「ツアーコースにない所」ハルピン 安重根

2024年04月13日 07時53分30秒 | ツアーコースにないところ

 安重根(朝鮮語読み アン・ジュングン 1879~1910)は朝鮮の大韓帝国時代の朝鮮独立運動家で1909年朝鮮を日本の保護国にした責任者として伊藤博文をハルビン駅構内で射殺した人物です。 
 その「安重根義士記念館」がハルビン駅構内にも隣接してありました。ツアーコースにはありません。事前ににもの存在を知りませんでした。それは「観光コースでない『満州』」(高文研 2011年第3刷p165)の以下の文章によります。
「**暗殺現場は、終戦まで***円形のガラスがはめられ***解放後も目印があると聞いていたが***我々が訪れた時は***駅員に聞いてもどのホームかさえもわからなかった。**考えてみれば、日本人がロシア人に会うために訪れ、朝鮮人に殺された場所など中国人には全く関係が無いのだから、なにも残ってなくても当然かもしれない」
 旅名人「大連と中国・東北歴史散歩」(2007年 p287)にも同趣旨の文章がありました。
 そこで私は現地ガイドに目印だけでも残ってはいないですか尋ねるとそのようなものは一切ありませんとの返事でした。ところが同行の一人が「地球の歩き方」に「記念館」があると記載していると指摘しました。(「地球の歩き方」p214の欄外に小さく出ていて私もそれまで気づきませんでした)すると一転してその存在を認め、しかし予定にないのでそこには案内できませんし、閉館時間も迫っていますとの返答でした。そこで同行者3人と場所を確認して出かけました。時間はたっぷりありました。われわれのホテルはハルビン駅の近くにあったので全く支障はありませんでした。
 なぜ、現地ガイドは最初その存在を否定し、存在が明らかになった後も閉館が迫っているとか、案内はできないなど言ったのでしょうか。帰国後日本の旅行会社にこのことを話したところ、個人旅行をしなさいと強く指導?されました。
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「ツアーコースにない所」編 5 コリントス運河の前身ディオルコス

2024年04月10日 07時53分00秒 | ツアーコースにないところ

 ギリシアの地図を見ていただければ分かりますが、アテネからアドリア海に抜ける海路はペロポネソス半島を迂回しなければなりません。そこでコリントスの所で運河を通すことが考えられました。古くはBC6世紀コリントスの僭主ペリアンドロスが運河開鑿を計画しますが断念します。AD67年にはかのネロ皇帝が6000人のユダヤ人囚人を使って開鑿を始めましたが、ゴール人の侵入で頓挫します。
結局(1883~1893年)スエズ運河の開削に刺激されフランスの会社によって開通されます。
 この運河は全長6436メートル、幅23メートル、高さは高い所で90メートル、水深8メートルです。
第二次世界大戦中ドイツ軍が運河を利用するのを阻止するためには意図的に運河を破壊せざるを得ないこともありました。この復旧には5年あまりかかりました。
現在は幅が狭いため主に観光船だけの通航のようです。しかしそれでも年間1万1000隻の船が通ります。
前述のようにBC7世紀にペリアンドロスが開鑿を計画し断念しましたが、実はそのとき代替としてディオルコスという敷石の軌道を設置して船を台車に乗せて引っ張るという路を作りました。このディオルコスは13世紀まで利用され今日遺跡として残されています。(写真)
このディオルコスは日本語のガイドブックにもなく、通常の観光コースにも入っていません。そこで現地ガイドに存在を確認して連れて行ってもらいました。この地にもたくさんの日本人観光客が来ていましたが、その存在を知る人はいませんでした。我々の添乗員も知りませんでした。この地にお出かけの方はちょっとしたわき道に入るだけですから、ぜひ立ち寄ってみてください
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「ツアーコースにない所」4 ポツダム風車

2024年04月07日 07時55分05秒 | ツアーコースにないところ

写真は何の変哲もないドイツのポツダムある風車です。私はドイツ旅行を決めたとき、もしこの風車がまだ存在していればぜひ見たいものだと期待しました。勿論観光コースに入っていませんので、現地のガイドに尋ねると現在も存在しているとして場所を教えてくれました。見たかった理由は今から約140年前に岩倉使節団(注1)の一員としてここを訪れた久米邦武(注2)が書いた「米欧回覧実記」という本の以下のような一節です。
 「宮殿の西に1つの風車がある。フリードリッヒ・ウイルヘルム(大王)が宮殿の修築を行った際、このあたりの土地を買い増したところ、そこに風車があって庭園の風景の邪魔になるので、風車の持ち主に命じて取り壊させようとした。ところが風車の持ち主がこれを聞き、ベルリンには法律家は1人もいないのかと言って、返事をせず、取り壊そうとしなかった。このことがついに政府の問題となったが、国王の権限でも、個人財産を除去することはできないという結論が出て、とうとうそのまま取り除けずに済んだ。このことは今も美談として伝えられ、風車はその子孫に相続され今なお、屹立しているのである。」(3巻p402 岩波文庫3巻p356) 
 フリードリッヒ大王は専制君主ですがその「専制」前に啓蒙的と付くのでなるほど納得しました。しかし人権は当然尊ばれるとされる現代日本(現実は?)と違った明治初期の日本人がこのエピソードを書き残していることに私は一種の感動を覚えました。幕末→維新期→明治初期にかけての私の歴史認識に一定の修正を迫る一節でした。ドイツを旅行する機会があれば現地ガイドにでも聞いてぜひこの風車を見てきてください。パックツアーでは行きません。  
 ついでにこの本の中からちょっと面白い話を1つだけ紹介しておきます。(同じドイツでの話) 「淫蕩な風儀が年々盛んになっていることは、政治家たちもおおいに心配しており、その抑制のためのよい方法を世界各国を訪問しながら検討をしたことがあり、わが国が寛永年間に江戸の吉原を設けて規制の実を挙げたことを称賛し、それを真似して適宣な公娼設置法を作ろうという議論を行ったことがあるという。****写真屋に行ったところ、店の者が酔って秘戯の写真を公然と売りつけようとしたことがある。ヨーロッパ諸都市で春画を公然と売るのに出会ったのは、この街(ベルリン)だけであった。」(3巻p342 岩波文庫3巻p305) 
まだまだ面白い話がたくさんあります。この本は世界的にも著名になり英訳本もできました。 欧米への旅行者には必読の書です。
注1) 岩倉使節団は、明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合州国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団です。岩倉具視を正使とし、政府のトップ(実力者の半数)や留学生を含む総勢107名で構成されました。そのときの報告書が久米邦武による「米欧回覧実記」です。原文は和漢混交文で岩波文庫5分冊に収められています。現代語訳(慶応義塾大学出版会)が出たので以下の引用文はそれによります。私の偏見ですが欧米に出かける現代日本人の必読の書です。
 (注2) 久米邦武(1893~1931)佐賀藩出身。1881年東京帝国大学史学科初代教授。論文「神道は祭天の古俗」で1892年辞職。
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「ツアーコースにない所」3 コークの原爆追悼碑

2024年04月04日 07時53分25秒 | ツアーコースにないところ

アイルランド旅行に出かける前にガイドブック「LONELY PLANET Ireland」 を見ていたらコークの市内地図に“Hiroshima & Nagasaki Monument “ と書いてありました。説明はありませんでした。日本語のガイドブック「地球の歩き方 ダイヤモンド社」にはありませんでした。このパックツアーの観光コースにも入っていません。そこで宿泊のホテルの近くだということを確認して早朝出かけることにしました。 しかし私は稀代の方向音痴(この時ダブリンで集合場所を間違えて皆さんにご迷惑を掛けました)なのでホテルの受付で場所を尋ねました。係りの人は暫し首を傾げていましたがようやく分かったか説明してくれました。しかし方向音痴と英語力の不足のためよくわかりません。ままよ、と出かけ途中でたずねましたが殆どの人は知りませんでした。地図を示しながら尋ね歩きました。一人の中年の男性が私の唐人ぶりをすばやく察知して非常に丁寧にゆっくり話し教えてくれ、最後には彼から握手まで求めてきてくれました。
ようやく目的地に到達しました。3メートルほどの石碑が建っていました。しかしよく見ると「小さな国の自由のために第一次第二次世界大戦で戦った人のため」といった内容のものでした。アレッと思ってキョロキョロと周りを見渡すと1メートルもない石の碑がありました。そこには 
”IN MEMORY OF THE VICTIMS OF HIROSHIMA & NAGASAKI . It must not happen again . 1984 “(広島、長崎の犠牲者を追悼。二度と再び起きてはならない。1984)
という文章が刻まれていました。花束も供えてありました。感動しました。  日本に帰ってから、日本原水協に問い合わせてみるとその存在を知らないということなので、上記の文章と写真を送りました。「原水協通信」第717号にこの文章と写真がそのまま載りました。また広島市にも知らないということなので送りました。記念館にこの写真が飾ってあるかも。  
その後別の旅行時に添乗員伊藤さんに何故このような追悼碑がコークにあるのかその由来が知りたいのでコーク市に尋ねたいのだが英語ができないので残念ですと話したところ、それでは私がコーク観光案内所に聞いてあげましょうと言ってくださいました。以下は伊藤さんあてのコーク観光案内所からの返事です。
「コークのこの地域は平和公園と呼ばれて1次、2次世界大戦の犠牲者の栄誉を称える二つの記念碑があります。これらの戦争が恐ろしいもので、アイルランドでは核戦力に対して強い反対の意思があること以外に特別の理由はないと私は思っています。我々は核施設を持っていないし、イギリスのように我々が核を持つべきかどうかの議論は多くありますが、いかなる核戦力施設を持ちません。今後私がこれ以上の情報に接すれば、貴殿にお伝えします    
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「ツアーコースにない所」2ポンペイ売春宿跡

2024年04月01日 07時54分42秒 | ツアーコースにないところ

イタリアのポンペイ遺跡は有名でイタリア旅行では必ず行くところです。そこに売春宿跡があるのを皆さんご存じですか。ツアーコースにはありません。ガイドブックにもありません。偶然旅行前にその存在を知り、現地ガイドに話をしたところ紹介してくれるということになりました。
ところがその後がいけません。添乗員が「女性の参加者はそのようなところに行くことを嫌います。困ります」と抗議をわたくしにしてきました。しかし本音はどうやら先に現地ガイドに話をして添乗員を無視したところに激怒したようです。 
写真がその売春宿跡です。上部にちょっと見にくいですが男根(ペニス)がありますね。「米欧回覧実記」は「一区ニハ花街アリ***戸ノ上頭ニ画ヲ存セルアリ、多ク淫褻(インセツ)ノ図ナリ」(岩波文庫p334)と記しています。ポンペイにはかなりの数の売春宿があったようです。
先日、TV「ふしぎ発見」でポンペイ遺跡が放映されましたが、ここは紹介されていませんでした。
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